1.いけにえ姫
新しい贄がきた。
『彼女』の気配が風に乗り、肌に触れると島の住人がざわめき囁いた。年若い青年はたてがみを震わせたり、尾を落ち着きなく揺らす。長は咎めるでなく、軽い視線で制すると立ち上がる。白い鱗が美しい長い尾が支えとなり、ゆったりとした長衣に足を取られることなく、なんとも優美な所作で歩き出す。
今日は長として贄を迎えねばならない。ヤトノは重くもなる心中を表情には出さず、本殿から続く参道の真ん中を従者を従え堂々と歩む。白い玉砂利が敷き詰められた参道の先に朱の鳥居が霊験あらたかに存在する。
その下に小さく、白無垢を着た贄がいた。長に赦されるまでは敷居を跨げない女は巨大なしめ縄を茫然と見上げていた。左右に従えた従者に顔を上げるなと注意を受けても聞く耳を持たず、ヤトノの姿を見つけるなりきつく睨みつけてきた。
おや、とこの時に早速引っかかりを覚えた。
いつもなら贄は己の立場をわきまえ、長の姿に脅え震えた。
しかしながら、たまには気の強いおなごもいるだろう。
さして気にもせず、ヤトノの従者と贄の従者の間で行われる慣わしに従ったやり取りを見守る。
贄とは神に捧げられる供物だ。人々の罪が少しでも軽くなるように。いつか全ての罪を償い、神のお赦しを賜れるように。そんな願いが込められ、彼女は贄として差し出される。
かねてからここで行われる一連の流れが彼の気分を重くさせる一因となっていた。もちろん慣わしや儀式の類いを面倒に思うのではない。
女たちのヤトノを見る目があまりにも居たたまれないのだ。美しい花嫁衣装を纏っているにもかかわらず、ひどく警戒し脅え、時には泣き出す者までいる。土壇場になって行きたくない、まだ死にたくないと従者にすがるも冷たくあしらわれ押しつけ引き渡されたこともある。そんな女たちの恨みを一身に受けなければならないのだから気分も重くなろう。
けれどもヤトノは長として役割を果たす。少しでも女が怖がらないように穏やかに笑み、気配を和らげることに努めた。
長の気遣いなど知らぬ贄は強い視線を緩めることもなく一歩踏み出し、あろうことかヤトノを真っ直ぐ射抜いたまま口を開いた。
「竜神って言うからどんなに恐ろしい姿かと思ったのに大したことないのね。人と大差ないわ。そんなことでわたくしのことお食べになられるのかしら?」
「ひ、姫様! 敷居を跨ぐまでは口を聞いてはなりませぬと!」
「なあに。禁を犯したから贄にはなれない? それとも今すぐ喰らう? どちらでもいいわ。さっさと終わらせて頂戴」
「なんてことを! 天罰が下される! どうかお赦しくださりませ! 世情に疎い姫君ゆえに竜神様のお力を侮っているわけでは決してござりませぬ!」
人間二人の慣例を無視した怒涛のやり取りに唖然とし、次いで笑い出したくなった。
「我も随分と世情に疎くなったようだ。よもや知らぬうちに人の身にも角や尾が生えたのだろうか?」
ヤトノは鱗とたてがみに覆われた立派な竜の尾を揺らし、頭に生えた角を撫でてみせた。鹿よりは短い、牡鹿のような角は白樺のごとき白さで神々しく頭上を飾っている。竜のたてがみとされる白銀の髪は地に着かんとするほどに長いのに、風にさらりと流れて涼やかだ。眩く白いばかりの中で瞳だけは黄金色。爬虫類にも似た細い瞳孔が向けられると贄よりも従者のほうが畏れをなして「ひいっ」と情けなく呻き慌てて視線を下げた。
とても人に見えようもない。
「角が何よ。それで人を刺し殺すわけでもないでしょう。顔も背格好もその辺の男と変わらないわ」
「ふうむ。そうかも知れぬな」
気分を害することもなくヤトノは自分の顎をひと撫でして満足げに頷いた。人の身を象りながらも明らかに人ではないこの身をヤトノ自身はどうとも思わない。けれど人と変わらないと言われたことは永い年月を贄と過ごすといえど初めてだ。
嬉しいとは思わぬ。だが悪い気はしなかった。それが気に入ったのだと、自分の感情を俯瞰し、もう一度深く頷いた。
「しかしメリュクシナ姫」
名を呼ばれると彼女は驚きのあまり後退りかけた。よろめかなかったのは彼女の意地であった。取り直すと、キッと睨むのを忘れない。ここまで感情を隠さない人間はヤトノには珍しかった。けれどそれとこれは別で変わらずやらねばならぬことはある。
「我々は竜。そなたらとはどう足掻いても異なる。ゆめゆめ忘れてはならぬ」
竜の指が女の目の前に突き出される。神の不興を買った。メリュクシナは先程までの威勢もどこへやら、小さく息を飲み固く目を瞑った。
なにも殺しはしない。
贄とはいえ人々が密やかに噂する儀式など存在しない。竜は人間を食しもしなければ、花嫁という形式ばかりで妻として求めることもない。贄は人の世の犠牲であれ、竜が乙女を害することは決してない。
ヤトノの指は姫君の額に軽く触れるにとどまる。
「これよりメリュクシナは神の名に並ぶを赦された。心して勤めに励むがよい」
放心してしまった事実を恥じた女はヤトノが予想した反撃にも出ず「仰せのままに」と形式ばった返答を投げて寄越して俯いた。
神としての器を授ける儀式を終えると彼女は連れてきた従者からも神として扱われる。視線を合わせることも、言葉を交わすことも赦されない。酒と魚を奉納し、深々と頭を下げたままメリュクシナが鳥居をくぐるのを待つ。
彼女は泣いたり喚いたりせず、従者に一瞥もくれてやることもなく、またヤトノが差し伸べた手すら取らずひとりでさっとくぐった。驚き先導を忘れていると、さすがに途方に暮れ所在なげに立ち止まっている。が、決して振り向かまいとしている背が僅かに震えた。
強気ではあれ、心細さや虚栄ゆえに気を張っているだけなのだ。小さな拳を握り締めひとりでしゃんと立とうとする人の子の気概をいとおしく思った。
何よりこんなにすんなりと神饌の儀が終わるとは。始まる前よりも随分気が軽い。
「さて、メリュクシナ殿。島を案内してやろう」
返事はなく、俯いたままだ。
「メリュクシナ?」
「長よ、姫はお疲れなのではないか。このように重い衣を着せられてはまともに島など歩けまい」
「ああ、そうか。気が利かないな。すまない。では先にそなたの住まいに案内しよう」
「……ないの?」
「ん? 如何した」
「住まいって、なぜ。だって、食べるのでしょう?」
「食べるとは何を?」
「だからわたくしを!」
一拍の間を置いて竜の長は腹を抱えて笑い出した。ゆらゆらと尾が揺れていて、それがさらにメリュクシナの勘に障った。
「なにゆえ笑う! なんと無礼な」
言い切ってから相手が神であることを思い出し、彼女は歯噛みして再び俯いてしまった。もしかしたら先程から内なる怒りを堪えるために玉砂利ばかりを睨んでいるのか。そう思うとまたいとおしさが込み上げる。
「そなたがかようにいじらしいゆえ。それにすでにそなたも神と同格。僕は神食いの罪は犯したくはないな」
「僕……?」
メリュクシナはまたもや目を丸くさせ、今度は怒りよりも驚きを強く現した。まるで聞き間違いだとばかりに食い入るように竜神の次の発言に注目している。
すぐさまヤトノの従者が長を小突く。
「まだ早いぞ」
「いいじゃないか。このほうが姫とて気も楽になろう?」
「先程の態度は偽りなのですか」
「役目を演じたまでだ」
「……本当に竜大神なのだろうな?」
ぼそりと呟かれた不満に神はまた声を上げて笑う。「疑われるのも初めてだ!」となんとも愉しげな竜神の横で姫もまたなんとも言えない顔をしていた。
長の憚らない声音はどうやら島中の竜の耳に届いたらしい。笑いが止まらぬうちにどこからともなく小さな影が転がり込んできた。そのまま二つの塊がメリュクシナの足元に飛びついた。
「ひっ」
「そなたを傷つけはしまい。竜の子だよ。シロ、クロ。姫は来たばかりなのだから驚かせてはいけない」
「ひめさま、いらっしゃいなの!」
「違うよ、シロ。ひめさまは尊き人間のおなごだから敬意を示すの。よくぞ参られた、ひめぎみ。我らはそなたを大いに歓迎致しまするぞ!」
「いたしまするぞ!」
名の通りの白と黒の一対の小さな竜の子の出迎えにもメリュクシナは困惑するばかりだ。角こそ生えていないが尾は小刻みに激しく揺れているし、翠の目はあまりに不躾に姫に好奇心を向けている。
「心よりの歓迎痛み入りまする」
消え入りそうではあるが精一杯背筋を伸ばし、尊き血筋である矜持に応えた。ただし震える指先がヤトノの衣に触れたのに気づいた。気づかぬ振りをしてそっと笑む。子を怖がるくせにヤトノを頼る。かわゆいものだ。
と長がひとりほくそ笑んでいれば気を利かせた従者が子竜二人を連れて先に本殿へと戻った。
「騒がしくしてすまなんだ。悪気はないのだ」
「……わたくしを歓迎しているなど信じられませぬ。わたくしは皇の子なれど、父はわたくしを捨てたのです」
「僕は贄の選定までは関わっていないけれど、贄にはそなたのような尊き血筋が選ばれることが多い。しもじもでは果たせぬ役目と考えてのことだろう」
「いいえ、大神。わたくしには穢れた血が流れております。尊き血などと……わたくしは下賤の子。母は流れの旅芸人。わたくしを産んですぐにお役御免となりました。ゆえにわたくしが贄に選ばれたのです。大神がわたくしを頂かれては御身を穢しまする」
「そなたを食しはせぬ。それは血のせいではない。僕から言わせれば人の身など皆穢れている。だからこそ我らに赦しを乞うのだ」
「大神はわたくしの穢れをお赦しになると?」
「そうだね。そなたは赦されたからこの地を踏んでいる。だからこそ神としての役目を果たさねばならない」
「お役目……」
「子を育てて貰う」
みるみる姫の顔色が赤に染まっていく。
「やはりそのような……! 優しげな言葉で惑わすなど神の名が聞いて呆れる。わたくしはお役目など果たす気はありませぬ! そのようなことされるくらいなら竜にはらわたを喰われたほうが良い!」
怒鳴り散らして行ってしまうメリュクシナの背に唖然とするばかりのヤトノは何をしくじったのか理解できずにいた。けれども威勢の良い姫君を微笑ましく思った。彼女なら上手くやってくれる。淡い期待を胸に恐れ知らずな姫君の機嫌を取るために小さな背を追った。