夏休みの盆帰り
今日は部屋を片付けておいた。
いつもなら、古臭い本や、着なくなった服。後は自分が趣味で買った絵であふれかえっているが、今日くらいは、と一生懸命に掃除した。
何といっても、今日は八月の盆。この岡山の実家に、東京に行ってしまった愛しい愛しい孫が帰ってくる。
あれから孫に会うのは、おそらく十数年ぶりとなる。一人娘の幸恵が、婿の晴久君と結婚し、その晴久君の都合で、幸恵は東京に行ってしまった。
まぁ、こんな田舎で米を作って暮らしていた我が家の娘が、まさか小さな車屋の息子と結婚するとは思ってもみなかった。わしも、その時は反対した。
堂々たるたたずまいを保とうと、頑張って着なれない和服姿になり、腕を組んで胡坐を掻いて、晴久君が来るのを待っていたが、緊張で幸恵にさえしゃべれなくなっていたわしは、晴久君が来たところで、何も言うことができなかった。ただただ、無言で彼を見つめることしかできなかった。
だが、その時分かったのだ。彼は本気で、娘を愛している、と。ならば、老いぼれたジジイは引っ込んで、二人だけの世界を作ってやろう、なんて粋なはからいをしてやった。
あんなときでも、優しくてすべてを包み込みそうな笑顔で、晴久君を見つめながらうなずいているばかりだった妻は立派だと思う。あれこそ、母の鏡ではないだろうか。
「私たちも、あんまり二人のことは強く言えませんからね」
二人が帰り、ちゃぶ台に二人並んで静かに茶を飲んだ宵のころ、妻はそういった。
恥ずかしい話、わしも妻も結婚を両親から反対され、二人で駆け落ちした。あの時、深夜の列車の中で小さく震えていた若かりし妻を抱きしめたのは、いまだに脳裏に残っている。
そういえば、晴久君の土下座姿は、わしが妻を貰いに行った時の姿と似ていた気がする。もしかすると、わしが娘たちの結婚を許したのは、わしらの過去も関係しているのかもしれない。
だが、そんな悩みも吹っ飛んだ。幸恵と晴久君の間に、何と子供が生まれたのだ。
それを聞いた時は、それはそれは嬉しかった。妻は「お猿さんみたいな顔ね」と笑いながら、顔を真っ赤にして泣くわしの涙を、手ぬぐいで拭ってくれた。
わしらは、そのまま病院まで飛んで行った。岡山から東京までの長旅の苦労など、その時はみじんも感じていなかった。ただただ、初孫に会いたかった。
病院に着くと、恥ずかしい話、外見を見て驚いた。都会の病院はここまで大きいのか、と。それに患者の数も尋常ではない。その中から、広すぎる待合室で待っていた晴久君を見つけるのには苦労した。
技術の発展には頼らないつもりでいたが、その時ばかりは携帯電話が欲しくなった。
「お義父さん! こっちです!」
晴久君はそう言って手を振って走ってきた。顔には、涙の跡があった。わしらは三人で、急いで幸恵のいる病室へ向かった。
病室にいた幸恵は、わしらを見るなり、力が抜けたように笑顔になり、そして顔から涙をこぼした。
妻は、幸恵をそっと抱きしめ「頑張ったね」と声をかけた。隣にいた看護婦が、「元気な男の子です」といって差し出してきた白い布の中には、まるで玉のように可愛い小さな命が芽吹いていた。
あの泣き顔を見るたび、自分の胸にジーンとくるものがある気がした。
それから、三年が経った。孫の名前は駿となり、皆から「しゅんちゃん、しゅんちゃん」と可愛がられていて、わし自信もとても可愛がっていた。
会えるのは、晴久君の仕事が無い休みくらいだが、それでも、初孫に会えるという嬉しさから、わしと妻からすれば、最高の時間だった。
「じいじ、みてみて」
そう言いながら駆け寄ってきた駿の手には、公園で拾った紅葉の真っ赤な葉が握られていた。わしと妻、駿の三人で散歩に行く公園では、決まって駿は季節の物を拾ってくる。
セミの抜け殻、桜の花びらを、両手のひらいっぱいに持ってくる駿は、とても愛らしかった。
だが、駿が五歳の時を最後に、幸恵たちがわしらの家に来ることはなくなった。晴久君の仕事先が、北海道になったのだ。わしらは、年々くる暑中見舞いと、年賀状に写る三人を楽しみにしていた。
そこに写る駿の成長を見るだけで、わしは十年生きられる気がした。
だが、必ず別れは来るものだ。
その一年後、妻と別れることとなった。可愛らしく、美しく、本当に心から愛した妻だった。妻は最期にわしの頬にそっと触れ、涙を流した。
最期の最期で、妻を泣かせてしまった自分を責めたが、妻はすぐに笑顔になり「大丈夫よ、ありがとうね」と言った。それが、わしと妻の最後の会話となった。
親が亡くなった、と聞き、幸恵が駆け付けた。晴久君と駿は来れなかった。駿が熱を出したのだ。幸恵は、泣きながらわしを抱きしめ
「親孝行できなかったよ……!」
と、大粒の涙を流した。
わしは、「その気持ちだけで嬉しかったんじゃよ」と、心の中で幸恵に伝えた。
だがその後、一度も駿に会えることはなかった。北海道から、東京の大学に受かり、大手企業で働いていることを、たまの休みに来てくれる幸恵から聞いた。老人一人だから、と心配しているのだろう。
幸恵も年をとった。まるで、少し昔の妻のような顔になってきた。だが、四十を過ぎても、三十代にしか見え無いのは親ばかだからだろうか。
だが、そんなさみしい日が今日、終る。駿が来てくれるのだ。こんなにうれしい事はない。
わしは急いで玄関に座り、駿が来るのを待った。
しばらくして、玄関のすりガラスに影が映った。背の高い男で、黒い服なのが見える。
ガラリと扉があき、そこには背が伸び、そして大人びた顔になった駿が立っていた。どんな男になっているか、少し心配だったが、ヤクザにはなっていないようだ。わしは心から安心した。
「駿……! よく来たのぉ!! お前のじいちゃんじゃ、覚えとるか?」
わしは少し興奮気味にそう言ったが、駿は返事をしてくれなかった。わしを無視して、黙って靴を脱ぎ、奥の部屋へ歩いて行った。
わしは少し、心が痛んだ。やはり、孫とはいえ大人になれば、こんな爺は無視されるのだろうか。
わしは急いで、自分の席に座った。そして、駿がその目の前に正座する。今日はお盆、ということもあり、わしの周りは奇麗だ。
駿はわしの目の前で正座したまま、ジッとわしの顔を見ている。わしもまた、懐かしい駿の顔を見ていた。
駿はしばらくしてクスッと笑った。まるで幸恵のような笑い方だった。
「お久しぶりです、じいちゃん」
駿は、優しげな眼でにっこり笑い、わしにそう言った。
「覚えておってくれたか……駿」
「確か、僕が五歳くらいの時から会えなかったんだっけ、ゴメンなさい。北海道から岡山って遠くって……」
わしは涙が止まらなかった。滝のように涙があふれ、頑張ってそれを白い着物で拭った。すると、十年前に別れた妻が、にっこり笑って歩いてきた。
「駿ちゃん、よく来てくれたわね。おばあちゃん嬉しいわ」
そう言って、妻はわしと、駿の前に茶を置いた。
駿は妻に気づくと、飼い主に飛びつく子犬のように元気な笑顔になった。
「あ、ばあちゃん。お久しぶりです。じいちゃんが亡くなってから、年賀状しか届けられてなくってゴメンなさい。今日は、大学も夏休みなので、一人で来たんですよ」
「おじいちゃんもきっと、喜んでますよ。ねぇ?」
妻はそう言って、わしの方を見た。わしは写真の中の笑顔をより一層強めようと頑張ったが、上手く行かない。やはり、写真に憑依する、なんてことはできないらしい。
わしが妻と別れた。つまり、わしが死んだのは、今から約十年前。癌とはいえ、早く死にすぎた。
こっちの世界はさみしい。誰にも気づいてもらえないからだ。
いっそのこと、妻も死んでくれれば……。なんてことも考えたが、そんな考えはすぐに消した。わしは妻と結婚するとき、いわゆるプロポーズの時、
「何があっても、僕は君の傍で笑っているよ。だから、一緒にいてくださいッ!!」
と言ったのだ。傍で笑っている筈が、こっちへ引き寄せてはだめだろう。
さらに妻は、わしが死んでからもずっと、わしに線香を供える時
「ずっと、今でも私の隣で笑っているんですよね。あなた」
と言って、わしのプロポーズを了承してくれた時の笑顔で笑ってくれる。あんなことをされては、意地でも死なせるわけにはいかないだろう。とはいえ、幽霊生活はさみしいものだった。
だが、駿が来たからにはもうさみしくない。幸恵に似て、可愛らしい孫じゃないか。
二十五とはいえ、小柄で童顔な姿は、まだまだ中学生といっても頷ける。いつまでも、わしの可愛い孫の面影を残している。
駿は、わしの仏壇の前で手を合わせ、目をつぶる。
幽霊は、自分の仏壇で念じられたことは、頭の中に聞こえてくるのだ。なのでもちろん、駿がその時願ったことは、わしの頭に聞こえてくる。
―……じいちゃん、僕、ようやく来れたよ。遅くなってごめんね。でね、じいちゃん、僕今、好きな人がいるんだ。同じ大学の人で、高校から知り合ったんだけど……。勇気が出ないんだ。こんな腑抜けな僕だけど、見守っててね。じいちゃん。
見守っとるにきまっとるだろうが……!孫よ……!!
可愛い事言やがって…!お前は本当にいい子じゃああああッ!!
……おっと、取り乱してしまった。わしは涙を脱ぐい、眼鏡をずり上げた。わしが生前好きだった、という理由で、火葬するときに一緒に燃やしてくれた本、服、そして絵は、今はわしの仏壇の中の部屋にすべて飾ってある。その中から、一つ、わしが妻にプロポーズしたときの服を着た。
明治時代のスーツのような、変な格好だ。
白髪頭で、眼鏡の痩せこけた爺さんには、まったくもって似合わない。だが、これはいわゆる勝負服、孫のために着てあげるのだ。
「勿論じゃよ、お前は本当に可愛い孫じゃ」
わしはそう念じた。勿論聞こえるはずはない。念じた直後、駿が何かに反応するようにわしの写真を見て、笑ったが、おそらくは気のせいだ。
孫はその日、妻に軽い東京土産を置いて帰って行った。
妻も涙が止まらなかったようで、おいしそうに「東京りんご」という饅頭をほおばりながら、鼻をすすり、真っ赤になっていた。
「お前も、猿見たいじゃのぉ」
わしがそう言うと、妻はわしの方を見てにっこり笑い、わしの仏壇にも饅頭を一つ置いた。
「おいしいですよ。しゅんちゃんのお土産ですって」
こういう妻の素朴な優しさに、わしは惚れたのだろう。少し照れながら、饅頭を頬張った。ほのかに甘く、かすかにリンゴの味がした。ジンワリと、胸に響くように甘さが溶けていった。
わしは立ち上がる。勝負服のままで。そして、饅頭を食べる妻に向かって一言言った。
「孫のところへ行ってくる」
「あ、言ってらっしゃい、あなた」
返答があったことに何より驚いた。それは妻も同じのようで、わしの写真を見て、さらに泣きながら笑った。
「……変ねぇ、あなたが逝っちゃったのは、もう十年も前なのに、今後ろにいる気がしたわ、私ったら」
そう言うセリフはやめろ。わしも涙が……。
いや、泣いてはおられん。一度来てくれた孫を、タダで返すわけにはいかぬ!
駿は今頃、電車に乗っているだろう。幽霊にもなれば、集中すれば会ったばかりの奴がどこにいるかくらいわかるのだ。
わしは、電車に向かって、スーパーマンのようなポーズで、星が出始めた空に向かって飛んで行った。
「孫よお! 待っとれよお!!」
○
「う、うぅ……。い、今なら千代美さんも一人だし……。よ、よし! 「今度食事に行きませんか」って言わなきゃ……!!」
そのいきじゃ! 駿!お前の勇気を見せたれ!!
「で、でも、急に言っても変な人だと思われちゃうかなぁ……」
ああもう! じれったい!いいから行け!!
「あ、あれれ!?か、勝手に体が……!? あ、す、すみません千代美さん、ぶつかってしまって……。
怪我、してませんか? 立てます?」
ほうほう、わしが出る幕もないかのぉ……。
「よいしょっと……。ふぅ、お騒がせしました。………あ、あの、その……」
ほら、今じゃよ。今言わんでいつ言うんなら!
「あ、あの、千代美さん!!」
そうじゃ、いけぇ!駿!!
「い、一緒にいてください!!」
ま、待たんかこの阿保んだら! まるでわしのプロポーズじゃないかッ 恥ずかしい!
そもそも、”れでぃ”に突然そんなことを言うなんて、男児失格じゃぞ!? ほれみろ!千代美さんとやらも、顔を真っ赤にして怒って! しかも「喜んで」なんて言われてるではない……か…………
え、オーケーなの!?