深海の恋人
こんこん、と窓を叩く音がしたので、慎子は首を傾げた。
この部屋は建物の三階に位置していて、外には夜の世界がただ広がっている。非常識な場所からの訪問者なんているものだろうか。それとも悪戯かしらと考えるが、そんなことをしてくれる相手もいない少女は、きょとんとしたままでゆっくりとベッドをから降りた。
「はーぁーい?」
友達が遊びに来た時の子供みたいな返事をしながら、内心ではなにが起きるのだろうと胸を高鳴らせて、窓を開く。
「わっ」
眼前の状況に小さく驚いて、慎子は思わず一歩後ずさる。磨りガラスと窓枠の隙間から入れてくれと言わんばかりに顔を覗かせたのは、サメだった。尻尾が長いマオナガという種類のそいつは、今朝テレビのニュースで水族館から脱走をしたらしい彼にそっくりだったので、慎子はまた驚いてしまう。
窓を全て開けば、ゆったりと尾をくねらせながらマオナガは部屋の中に入ってきた。サメにしては小さいが、慎子の二倍の体長を持つ彼は蛍光灯の下で窮屈そうにくるりと回る。
慎子はその様子を見つめて頬を染め、にこりと笑った。
『いらっしゃい』
マオナガのつぶらな瞳が彼女を捉えたので手を動かして話しかければ、空気とともに傍まで降りてきた。慎子は窓を閉めて、ベッドに座る。そっと鼻先を触らせてもらえば、彼は甘えるように指にトントンと鼻をぶつける。
『家出、ですか?』
問いかければ、マオナガはふんふんと頷いて、俺にあの世界は小さすぎると水族館を振り払うように尾っぽを振った。彼らは長い尾で敵を攻撃をすると慎子は聞いていたので少し困ったようにくすりと笑みをこぼす。
『あのとき、楽しそうだったのに』
そんなことを言いながら、彼女は頭の隅で両親に一度だけ連れて行って貰った水族館の記憶を蘇らせた。今から十年ほど前、まだ彼女が歩くとピコピコ鳴るサンダルを履いていたときのことである。猫の形をしたお気に入りのヘアピンをつけて、薄暗くて透き通った空間を慎子はぽてぽてと歩き回っていた。普段なかなかどこかへ出かける機会のなかった少女が楽しそうに水中散策をする様子を、両親は三歩後ろから見守っていた。
世界の海と銘打たれた色とりどりの魚たちが舞い踊るコーナーを抜けて、大水槽にたどり着く。そこには運命が、と乙女的思考そのものにモノローグをつけていると、目の前のマオナガが照れたように頭を少しだけ下げた。よせやい、生まれて間もなかったんだいと黒水晶のような目が訴えてくる。慎子はまあと口に手を当てて見せる。
『私とのことは、遊びだったの?』
そんなことを返し、一転して眉根を寄せて大げさに表情を暗くすれば、マオナガは慌てたようにバタバタと暴れた。地面に放り投げられたときのような動きを、慎子はじぃっと見つめる。彼は、私は硬派だ! 私は硬派だ! と見当違いの言い訳を始めたので、その姿が愛おしくなって彼女は悲しみを崩す。高揚したように頬を染めて、くくくと笑えば、マオナガは笑うな! とまたバタバタ暴れた。
『ごめんごめん』
久方ぶりに楽しさから向上した胸の鼓動を、ため息で落ち着けてから謝罪する。目尻に浮かぶ涙が、寂しさによるものではないという事実にも心が踊って、その反面で落ち着かない気持ちにもなってしまう。胸に手を当てて俯けば、マオナガはどうした? と不安げに彼女の周りをくるくると回った。
『なんでもないよ』
彼はそうか? とまだ心配そうに顔を覗き込もうとする。慎子は一転して、心に圧迫感と息苦しさを覚え始める。それをなんとかしようと何度も息を吐くが、不意に現れたもやもやは簡単には消えてくれない。せっかくマオナガが約束を覚えていて、水族館を抜け出して来てくれたのに。マオナガは慎子のために、ひれをパタパタさせたり、尾っぽを素振りしてみせるが、彼女は沈んだままだった。
慎子とマオナガは、水族館で出会った。
先ほどの少女の回想、慎子が幼い頃に一度だけ訪れた水族館の大水槽に、マオナガはいた。そこの名物は、彼よりも体長の大きいジンベイザメだったが、彼女は何故かマオナガに心を惹かれた。生まれたばかりの、今ほど大きくない彼に、幼い慎子が手を使って話しかければ、マオナガはそれに応えたのである。まるで、待っていたと言わんばかりに。
はじめは、目を合わせて頷き合っていただけだったので、両親はその事実に気がつかなった。しかし、慎子が平素使っている言語、手話によって『回って』『向こうまでくるってして帰ってきて』『お辞儀!』と指示を出せば、マオナガがそれに従ったのである。両親はそれを目の当たりにして仰天した。ゆえにこの日のことは、彼女の一家にとってあらゆる意味で忘れられない思い出になったのだというわけだった。
『どうして、私のこと……』
手を動かして顔を上げれば、マオナガはかつてと同じように慎子のことを穏やかな瞳で見つめていた。優しさを感じられる視線に息を止めて、今度は自ら圧迫感を増幅させる。慎子は今すぐにでも泣きたくなった。
『私……私は、病気で』
彼は続けてと言い、ひれを動かす。彼女は静かに頷く。
『ずっと、入院してるの。外に出たのも、あなたに会ったときが、最後なの』
うんうん、とマオナガは頷き返した。
『身体が悪くて、耳がよく聴こえなくて……だけど、あなたはこんな私のところに、来てくれた』
そう言って、慎子は彼の瞳を覗き込む。きらきらと光る黒い目の中に、今にも消えてしまいそうなほど痩せてしまった己の姿が映っている。幾ばくかの昔に、彼の瞳の中に見た己はもっと幼かったのにと、複雑な心中に大声で泣き出したくなる。
先ほど閉め切ったはずの窓は薄く開いていて、そこから月の光が差し込んできていた。
『ここが、海の中ならよかったのに』
慎子は目じりに薄く滲んだ海水を手の甲で拭ってから、そっとマオナガに手を伸ばす。細い指先がざらざらとした肌に触れた。彼は甘えるように手のひらに頬を寄せる。
『そしたらわたし、あなたと恋に落ちられたのに』
マオナガの頬に、慎子が頬を寄せる。そうすれば、彼は鼻先を彼女の額にこつんとぶつけた。
今夜の世界は深海、しかしそれにしては乾いた風が吹き込み、少女とマオナガのことをそっと包み込んだのだった。
【深海の恋人】
おわり