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act.8

 ようやく今日一日の勤務を終えたわたしは、重い体を引きずり更衣室に戻った。ほぼ崩れ落ちるように椅子に座り、暗い部屋のなかで静かに膝を抱えた。そのまま膝に顔を埋め、寒くもないのに震えだす身体を必死で抑え込む。

「……香苗ちゃん」

 奥さんの声に釣られて目線だけ上げると、更衣室の入り口に奥さんが立っているのが目に入った。橙色の明かりを背にしていて表情は窺えなかったけれど、その身体はいつにも増して小さく感じられた。「香苗ちゃん」奥さんは再びわたしの名を呼んだ。わたしは返事をしなかった。

 足音が響き、奥さんが室内に入ってくる。椅子を引き、衣ずれの音とともに腰掛けた。

「私ね、下手に気を遣われると、逆に腹が立つんやわ。本心やなくて、わざわざ編み上げられた偽りの気持ちをもらったって、なんも嬉しない」

 見られている。奥さんの視線をひしひしと感じたけれど、わたしは顔を上げられなかった。

「嘘を吐くなとは言わへんよ。生まれてから死ぬまで、一度も嘘吐かへん人なんておらんもんな。でも、必要がないときに吐く嘘は、一番みっともないで」

 奥さんの放つ単語ひとつひとつが鋭い針になり、わたしの未熟な心に突き刺さる。けれど針が傷を作ることはなく、むしろまるで見えない糸がついているかのようにわたしの脆い部分を繕ってくれた。

「わたしいままでは、ずっとこの店で働いていたい、この店で働けたらもうそれで十分だって、そう思ってたんです」わたしの声は腿と胸の間でひどくくぐもっていた。「お客さんはいつも賑やかで、気分が沈んでるときは無理矢理にでも元気づけてくれるし、雰囲気はまるで実家にいるみたいだし。なにより、この店が好きなんです。……でも」

 時計の秒針が刻む規則正しい音に合わせて、わたしは呼吸を整える。わたしが沈黙を破って話し始めてから、ずっと黙って聞いてくれている奥さんに感謝さえしながら。

「就職だとか、夢に向かって努力してるとか、周りの人はとにかくなにかしら目標を持って日々を過ごしてるのに、わたしだけ現状に満足しているんです。でもそれじゃ駄目なんだって、気付いてしまって」

「香苗ちゃん」奥さんの声はどこまでも優しかった。「辞めたいときに、辞めてええで」

 心臓がどくんと跳ねる。奥さんの口から「辞める」という言葉を聞くことになるとは、これまで一度たりとも思いもしなかった。そもそも奥さんとは無縁の言葉だというくらいに考えていたのに、こうしてひとたび直接奥さんの声で耳にするとひどく現実味を帯びて感じられた。

 掌が汗でじっとりと滲むのを自覚しながら、わたしは首を横に振った。

「辞めたいわけじゃないんです。辞めたい、わけじゃ……」

「無理せんでええ。大体分かるで、香苗ちゃんの気持ち」

 奥さんが椅子にもたれかかったのか、椅子の軋む音が聞こえた。

「焦っとるんやな、香苗ちゃんは。このままやと皆に置いてかれるんちゃうか、って。それは確かに不安やなあ。周りが刻々と変わってくのに、自分だけ同じ場所に留まっとうなんてなあ。私が香苗ちゃんと同じ立場やったとしても、不安に思ってまうやろな」

 再びの軋む音。今度はどうやら立ち上がったらしく、声は上のほうから降ってきた。

「私たちのことは気にせんでええから、ゆっくり考えや。なんてったって香苗ちゃんの人生や。今後どうするかは、香苗ちゃん自身が決めんと」

 やや間を置いて、奥さんは静かに更衣室を出ていった。去り際に「まだ片付け残っとうから、店におるわ」と言い残して。

 その日の片付けがあらかた終わってしまうと、店の鍵も閉めてしまうので、一度家にお邪魔して裏口もとい玄関から出ないといけないのだけれど、そうでないときは、店の出入り口から出られるため幾分か楽なのだ。奥さんの細やかな優しさについついほろりと来そうになりつつも、今日そこまで忙しくなかったことを思うと、当然ながら片付けにもそう時間はかからないわけであって、ひょっとして奥さんはわたしを待ってくれているのではないかと、いまさらになってわたしはひとり焦った。

 手早く荷物をまとめているとき、鞄から転がり出てきた携帯のサブ画面が着信有りを示す赤い点滅を繰り返していた。何気なく開いてみると美鈴からの着信が一件と、同じく美鈴からのメールが一通届いていた。どうも一度電話してみたものの、通じなかったために要件をまとめたメールを送ったという感じだ。

『バイトお疲れ様。今日は邪魔してごめんね。何回も静かにするように言ったんだけど、お酒が回ってくると余計聞き入れてくれなくなっちゃって、……騒がしかったでしょう。次来るときは、もっと静かにするように釘刺しておくから。

 あ、それとみんな美味しかったって言ってたわ。料理もお酒も全部。あたしもなんだか鼻高々よ。だからって、別に香苗を利用したわけじゃないからね? あと、正直呑んだら解散だと思ってたんだけど、これから二次会らしいの。あまり気は進まないんだけどね』

 文面を目で追っていくうちに、わたしは少しずつ頬の強張りが解けていくのを感じた。ひとりで黙々と考え込んだり、奥さんの優しさに触れたりするよりも、親友からの何気ないメールがなによりわたしを励ましてくれる。

 好きなように騒いでいいのだということと、褒められたことの感謝、加えて『楽しんできて』と二次会へ送り出してあげる言葉を送り返し、わたしは更衣室を出た。

 赤い暖簾が店の内側に架かっているのを見ると、改めて店が閉まったのだという実感が得られる。一日がようやく終わったという達成感もさることながら、心の隅にはいつも原因不明の僅かな寂しさがあった。その寂しさが、今日はいつにも増して強く感じられる。

「帰り道、気を付けや」厨房から顔を覗かせている奥さんは、相変わらずの笑顔だ。

「はい」

 うなずく自分の声を聞いたとき、なにかが吹っ切れたように身が軽くなった。

 さして広くもない空間に押し込まれたようにひしめいている、傷やへこみだらけのテーブルや椅子。煙草のヤニですっかり黄色くなっている壁。人がよく通るところばかりすり減って、まだら模様になりかけている木目調の床。長年使い続けているおかげで、あちこち手垢や油染みで汚れてしまっているメニュー表。ようやくわたしの手にも馴染んできたばかりだというのに、それらを見られる回数はもうそう多くも残されていないことを思うと、実家を出るときに感じた寂寥感が再び蘇ってきた。

 この店が積み重ねてきた歴史のうち、わたしが触れたのはそのほんの一部にすぎない。例えるなら、店は地球で、わたしは人類。四十六億年と二百万年では厚みがまるで違う。それでもこれまで約一年間と極めて短期間ではあるけれど、自分なりに一生懸命働き続けたことで、この店の一部にわたしはわたしという存在を残せたのだろうか。もしそうならば、わたしはきっと悔いなくこの店を去ることができる。


 風の冷たい夜だった。

 歩き慣れた帰り道は年間を通して様々な姿を見せるけれど、冬を目前にした秋の夜がわたしは最も苦手だ。完全に冬になってしまえば、風は身を引き裂くような冷たさだし、草花は姿を隠してしまう。ときには雪も降ることもあり、その様子は開き直った人間のように勢いと無責任さに溢れているけれど、そういう季節なのだと強引に割り切ることはできる。けれど、いまの時期は冬のように割り切ることができない。冬と呼ぶにはまだまだ優しすぎるし、なにより中途半端だ。かといって、気を抜いていると冬の厳しさを手に入れて、あっという間に姿を豹変させる。個人的にこの晩秋の嫌なところだ。

「あ」

 自分の吐く息が白くなっていることにわたしは気付いた。すると一層寒さが増したような感じがして、コートの首元を袖で閉じるように押さえつけながら、わたしはほんの少し足を速めた。冬はもうすぐそこにやってきている。

 そんなとき、わたしは見つけてはいけないものを見つけてしまった。

 車道を挟んだ向こうにあるコンビニの傍らに立つ、「おでん」と書かれたのぼり旗だ。

「もうそんな時期か……」

 懐かしさに加えて寒さもあったことで、わたしは吸い寄せられるようにコンビニの方向へと足を向けた。夜も遅いので車通りは少なく、往来が途切れた一瞬を見計らって堂々と横切った。

 店内に煌々と明かりが満ちている様子は、遠くから見るとさながら闇のなかに浮かぶオアシスのようであり、けれどいざ近くまでやってくると、人気は恐ろしくなるほど皆無であり、遠巻きに見ていたときのオアシスの面影などもうとうに残っていなかった。店の外からでは店員の姿すら見当たらない。恐る恐る足を踏み入れたわたしを出迎えてくれたのは、愛想のない電子音だけだった。

 目当ての品物があって来たものの、すぐにはそれを手にせず、なんとなく店内をうろついてしまうのはどうしようもない人間の性ではないだろうかとわたしは思う。ひたすら甘そうなだけのデザートや無駄に贅沢なおにぎりやお弁当に目を奪われ、ついつい要らぬ日用品を手にしては最後の最後で理性が働き、元の置いてあった場所に戻す。お約束のように一連の動作をこなしてから、わたしはレジの近くにあるおでんの元へと向かった。

 このコンビニではおでんはセルフサービスらしく、自分で取って入れてくださいと言わんばかりにパックとおたまがちゃっかり用意されている。

 深夜にしては割と充実している品揃えにひとりで唸りながら、わたしはパックにおでんを詰めていった。

「……いらっしゃいませ」

 染み出てくるように聞こえてきた声に反応して顔を上げると、レジの奥からのそのそと出てくる男性店員の姿が目に入った。青いストライプの制服はまだしっかり糊が利いているらしく、しゃんとしたシルエットを保っているものの、全体的に醸し出されている気だるそうな雰囲気にはそれがひどく浮いて見え、滑稽に感じられた。

「あれ」

 先に声をかけてきたのは男性店員のほうで、好物の白滝をひたすらパックに入れる作業に戻っていたわたしは一旦手を止めて、顔を上げた。

「店員さんじゃん」

「え?」

 最初、わたしはまったく訳が分からなかった。まじまじと男性の顔を見つめているときに、「俺だよ、俺」深い黒の双眸で見つめ返されてようやく、彼が藤川さんなのだとわたしは理解した。

「藤川さん。こんなところで働いてたんですか」

「ここは最近始めたばっかりだよ。いくつか掛け持ちしててさ」

 ぼさぼさ頭の藤川さんしか見たことがなかったせいか、ちゃんとワックスでセットされたショートボブがあまりに新鮮で、おでんの入ったパックをわたしはついつい落としそうになった。

「髪切ったんですね」

「うん? ああ、まあな」

「一見、誰か分からなかったです」

「そうかな。ほとんど変わってないと思うけど」

 小さく鼻で笑いながらレジについた藤川さんの前に、わたしはおでんのパックをおずおずと差し出した。中身に視線を落とした藤川さんは、きっかり三秒後にゆっくりと顔を上げ、わたしの目を見据えて「物好きだな、あんた」笑っているのかいないのか、よく分からない表情でぽつりとこぼした。

「だって美味しいじゃないですか、白滝」

「白滝が美味いのは認めるけどさ、いくらなんでもこれは気味悪いぞ」藤川さんはパックのなかにちらりと視線を遣り、「なんて言うか、軟体動物が密集してるみたいだ」

 言われてみれば、と納得してしまう自分が情けないというか末恐ろしいというか。確かにパックのなかにはジャガイモとコンニャクがひとつずつある意外は、ひたすら白滝が詰まっている。だって好きなんだもの。

「い、いいじゃないですか。誰がなにをどれだけ買おうと、個人の自由ですっ」

「はいはいはい」適当に相槌を打ちながら藤川さんは品物をレジに打ち込んでいく。

「なんですかその態度は」

 無視されたからか、余計に顔がかあっと火照ってきて、財布のなかから取り出した千円札をカウンターの端に置き、わたしは一歩あとずさった。千円で足りるだろうかと徐々に不安になってきたものの、わたしが置いた千円札を無言で手に取ってお釣りを用意してくれている姿を見ると、とりあえず足りてはいるのだと分かった。

「はい、これ」

「……どうも」

 お釣りとビニール袋に入れてくれたおでんを受け取るときも、藤川さんと目を合わせることができず、わたしはひたすら手元を凝視していた。

 それじゃ、頑張ってください。そう言おうとして、わたしは思い切って顔を上げたところ、「あのさ」と唐突に声で肩を鷲掴みされた。実際に触れられたわけではないのに、わたしの身体はびくりと強張った。


 自分でもどうしてその話を受け入れたのか、いまとなってもよく分からない。仕事帰りで体は疲れきっていて、一刻も早くシャワーを浴びて布団に潜り込みたいはずなのに。

 店先の車止めに腰を下ろして白滝を食べている自分は、まったくいつの時代のヤンキーだろうかと悲しくもなったけれど、店内でもそもそと食べるわけにも、わざわざ家に帰るわけにもいかずで、結局いまの場所に落ち着いていた。

『もうすぐ仕事終わるから、よかったらどっかで待っててもらえないか。ちょっと話したいことがあるんだ』

 そう言われてから、もう十五分ほどになるだろうか。折悪しく腕時計は持ってきておらず、また、鞄のなかを手でまさぐってみたものの携帯は一向に現れずで、時間を気にすることは最初のうちに諦めた。

 それよりも話したいことってなんだろう。それだけが気がかりで、おでんを食べている間ずっと頭のなかにわだかまっていた。

 みっちり詰まっていた白滝をあらかた食べ尽くし、心地よい満腹感に包まれていると、斜め後ろで自動ドアが開いた。顔だけ振り返って見ると、交代で店番をする人に挨拶をしながら藤川さんが軽い足取りで外に出てきた。そしてすぐにわたしの姿を見つけると、そんなところにいたのかと言いたげな表情で近寄ってきて、躊躇いなく隣の車止めに腰を下ろした。

「いまどき車止めに座って買い食いとか、店員さん、いつの時代のヤンキーだよ」わたしの手元をしげしげと眺めつつ、藤川さんはいまにも吹き出しそうに言った。

 気にしていたことをそのまま指摘されて、いささか傷ついたことは秘密だ。「待ってるように言ったの、藤川さんじゃないですか」と強がってみる。

「それはそうだけどさ。なにも外で待てとは言ってないだろう」

 わたしは言葉に詰まった。言おうか言うまいか散々迷った挙句、わたしは観念して「だって、温かいうちに食べたかったんです」呟くときそっぽを向いたのは、せめてもの強がりだ。次の瞬間、藤川さんはついに吹き出した。

「面白いな、店員さん」

「もう、店員さんはやめてください。……吉崎です」

 不思議そうに覗き込んでくる、なにも知らない藤川さんの視線が痛かった。けれど、わたしは近いうち「店員さん」ではなくなる。自分の意思が固まりつつあることに、わたしのなかでは嬉しさと寂しさがせめぎ合って渦を成していた。それとは別に、藤川さんには名前で呼んでほしいと思う気持ちがあったのもまた事実だ。

「ふうん。で、ヨシザキさん」藤川さんは藤川さんなりに溜飲を下げたのか、気を取り直したように話し始めた。

「本題に入るけど、いまから少し時間ある?」

 基本的にスケジュールに余裕があるのがフリーターの数少ない利点だ。明日もアルバイトのある夕方までは特に予定もない。夜更かし基本的にできない体質なのだけれど、美鈴も二次会に行っていることだし、とわたしは意味不明な理由を自分自身に押し付けて、「大丈夫です」と首を縦に振った。

「そうか、よかった」

 すると、藤川さんは肩に提げていたトートバッグのなかからおもむろに紙の束を取り出した。ぱっと見た感じその紙束はまったくの白紙というわけではなく、なにか文字が印刷されている原稿のようだった。

「前に話したとき、本はあんまり読まないって言ってたよな」

「はい」

「本当は原稿を読んだ感想が聞きたかったんだけど、普段から読書を日課としていない人に無理矢理それを頼むのは酷だと思って。これ、前に書いた話のあらすじなんだけど。量的には原稿用紙五枚程度だから、よかったら意見聞かせてもらえないかな」

 原稿をすっと目の前に差し出され、わたしはよく分からないまま受け取った。

「――え、あ、これ、いま読んだほうがいいんですか」不自然な沈黙に耐えきれず、わたしは声を挙げた。妙に肩透かしを食らった気分で、舞い上がっていたのは自分だけなのだといまさらながら気付く。

「ああ、できれば。元々あまり会う機会がないし、俺もここのところ急がしいし。また今度、って約束してもいつになるか正直分からないだろう。だからたとえ偶然でも、せっかくこうして会えたんだからその場で聞かせてほしいかな。メールとか電話でもいいといえばいいんだけど、やっぱり大切な意見は面と向かって聞きたいし」

 ずるい。わたしはそう思わずにはいられなかった。

 メールや電話よりも生の声で聞きたいなんて言われると、自ずと胸が高鳴ってしまう。勘違いもいいところかもしれないけれど、こんなわたしでも頼ってくれているのだなあと思うと涙腺が緩む。

「分かりました。読むのが遅いので、時間かかってしまうかもしれないですけど」

「そんなこと、あんたが気にすることじゃない。むしろ屋外でこんなことを頼んで、申し訳ないと思ってるよ」

「それは、仕方ないですよ。ファミレスとかファストフード店とか、二十四時間開いているような店、この辺にないですし」

「……悪いな。そうだ、コーヒーでも買ってくるよ」わたしが声を上げる間もなく、藤川さんはすっくと立ち上がり、コンビニのなかへと消えた。

 僅かながらも紙の確かな重みを手のひらに感じながら、わたしは目でひたすら文字を追う。冷たい風が吹くたびに下ろした髪は踊るけれど、それも気にせずにわたしは読み進めていった。

 最後の一枚も隅まで読み切ると、止めていたわけではないのに深い息がどっと溢れた。

「ほら、コーヒー。邪魔したら悪いかと思って渡せなかった」

「すみません。ありがとうございます」

 すぐに戻ってきたことには気付いていたけれど、わたしが顔を上げずに読みふけっているふりをしていても、藤川さんは黙って待っていてくれた。手渡された缶コーヒーは、まだ結構な熱を持っていた。

「苦いのは駄目かと思ってちょっと甘めのやつ選んだんだけど、大丈夫かな」

「すみません。余計な気遣いさせてしまって」

「だからいいって」

 恥ずかしそうに顔を背けつつも、藤川さんの横顔はそこはかとなく嬉しそうだった。

 中身を口に含むと、コーヒーの苦みとミルクを多めに使っているらしい甘すぎない甘さが口いっぱいに広がって、屋外で飲むコーヒーもまた格別に美味しいということをわたしは身をもって実感した。

「早速なんだけど、それで、どんな感じだった? 些細なことでもいいから、思ったことをそのまま教えてくれると嬉しい」

「ええと、そうですね……」

 話としては、素人のわたしでも分かりやすい青春モノだった。音楽をやっている高校生の男の子が、偶然出会った同じ音楽をやっている年上のヒロインに恋をするという。面白いなと感じたのは、楽器はまったく弾けないものの歌がとても上手な主人公と、楽器は非常に上手なのにとてつもなく音痴なヒロインの、極端すぎるほどに対比された特徴だ。あらすじには掻い摘んだ表現しかされていないけれど、ふたりの出会いから結論を出すまでの日々は、一度通して読んでみたいと思った。

「素人目から見ても、あらすじを読んだ限り全体的に読みやすそうな話だと思います。これなら普段から活字を敬遠しがちなわたしでも、さくさく読めるんじゃないかっていうくらい。……ただ、ヒロインの女性がちょっとご都合主義じゃないかなあと、思ったんですが」

 次第に声が尻すぼみになっていったのは、意見するのに気が引けたからにほかならない。頼まれたとはいえ、わたしみたいな素人が感想を述べたところで効果はあるのだろうか。

「と、言うと?」心なしか怪訝な声で藤川さんは話を切り返してきた。

 気を悪くしないでほしいなあと内心で唱えつつ、わたしは言葉を選び選び口にした。

「この女性、なんていうか、主人公の気持ちが分かりすぎている気がするんです。勘が鋭いとか、気が利くとか。元々そういう人なのかもしれないですけど、同じ女性としてはちょっと度が過ぎているかなあ、と。普通、異性の心ってよく分からないものじゃないですか。同性ですらよく分からないときがあるくらいなのに、異性となると、余計」

 作品としては決して悪いものではないと思う。文法だとか修飾語だとか、そういう国語の詳しい知識はわたしにはないけれど、話の雰囲気はほのぼのとしているし、読めばきっと優しく穏やかな気持ちになれるだろう。けれど読んでいるとヒロインの行動が逐一気にかかるため、その度に現実に引き戻され、一向に話の世界にのめり込むことができないのだ。

「もちろん、わたしには小説なんて書けません。だから、藤川さんが書いたものにわたしがケチをつける権利なんて、毛頭ないと思ってます」

 読み終えた原稿を、わたしは藤川さんに差し出した。

「すみません。さっきわたしが言ったこと、どうか聞かなかったことにしてください」

 差し出したのはいいものの、なかなか受け取ってくれない藤川さんの横顔を見ると、わたしは体中の血液が冷え切ってしまったかのような厭な悪寒を覚えた。知り合って間もなかった頃の表情だ、とわたしの頭は瞬時に思い出した。

「……あんたも同じこと言うんだな」

 藤川さんがわたしを含めた言いかたをするときは、美鈴と一括りにするとき以外考えられない。ましてや以前付き合っていたのだからなおさらだ。

 荒い手つきでわたしの手から原稿を奪い取ると、藤川さんはわたしを蔑んだ目で見つめてきた。コンビニの明かりに照らされていない側の表情があまりに恐ろしく見え、わたしは咄嗟に視線を逸らした。やはり素人が変に口出しするべきではなかったのだ。いまさらになって、わたしは自分の発言の傲慢さを悔やんだ。

「美鈴にも、読ませたんですね」

「ああ」藤川さんの返事は即答だった。「読んでもらったよ」

 わたしなど比べるまでもないほど、美鈴は読書家だ。寝る前や休日の昼下がりなど、いつも小説とは限らないけれど、なにかしら本を読んでいる姿を見かけることは多々ある。それに加えて、あの性格だ。思ったことは本当に包み隠さず伝えたのだろう。ある程度読書経験を積んだ人の意見は、初心者の意見なんかよりも遥かに的確で深いに違いない。

「あいつには本文も読んでもらったけど、それはもう非難の嵐だったな。ここ、日本語おかしい。ここ、言っていることの意味が分からない。ここ駄目、ここ駄目。

 読んでもらう前、自分なりに推敲は繰り返したさ。ちゃんとした話を読んでもらいたいっていう気持ちは、作家を目指す奴なら誰しもが持ってるものだし。……それを、あいつには散々へし折られた」

「もしかして、そんなことが原因で美鈴と別れたんですか」

 藤川さんの顔に、みるみるうちに血が昇っていくのがはっきりと分かった。左の頬が痙攣して、ひくひくと震えている。

 ひどく酒臭くて、目を赤く泣き腫らしていたあの夜の美鈴。自分の意見を素直に口にした美鈴の心は、わたしには想像することしかできないけれど、きっとわたしとなんら変わらなかったのではないだろうか。

『自分を頼ってくれる人の力になりたい』

 その一心で美鈴が自分なりに編み上げた言葉を、藤川さんがどう扱ったのかは当事者ではないわたしには分からない。けれど、あのときの美鈴の姿が、すべてを物語っているようにわたしは思えた。

 ――ああ、そうか。この人は……、

「作家って、自分の書いたものを人に認められてこそ大成する職業ですよね。でも、そう簡単に認めてもらえないのは、作家っていう職業に限った話じゃないと思います。

 わたしだって、いま働いてる居酒屋ではいつまで経っても迷惑をかけてばかりで、認めてもらうなんて身の程知らずもいいところです。それでも自分をすべてさらけ出す勢いで働いて、いまでは少しは頼られる存在になれたんじゃないかと、自分では思ってます」

 ――わたしよりもずっとしっかりしていて、

「人に認めてもらうためには、まずは人を認めることが大事じゃないでしょうか。どんなに反りの合わない人だって、自分が認めて受け入れれば、いつかは認めてくれるかもしれない。自分が認めなかったら、認めてくれる人も認めてくれなくなるかもしれない」

 ――自分という形を、ちゃんと持っている。けれど、

「わたしは、藤川さんのことがずっと羨ましかったんです。目標とするもの、ぼろぼろになるまで必死になって、一心不乱に打ち込めるものがある藤川さんの姿は、わたしの目にはいつも輝いて見えてたんです」

 半ば自棄になりつつも、言うだけのことは言ったつもりだった。わたしが胸に秘めていたものはすべて。かすかに抱きかけていたものも単なる憧れであって、わたしはいま、ようやくそれが幻想なのだと分かった。

「もういいよ。あんたに説教される筋合いなんて、これっぽっちもない」

 ――わたしと同じくらい不器用で、そしてちょっと、人よりプライドが高すぎた。

 以前のわたしなら、藤川さんの冷淡な声を聞くだけで、特に理由もなく怖気づいていたことだろう。それはきっとわたしが自分に自信がなくて、心のどこかで引け目を感じていたからだ。だからといって、自信に溢れているかと尋ねられても、力強くうなずけるとはとても思えないけれど。

「藤川さん。もう少し、人の言うことを聞き入れてみたらどうですか。自分にとってはマイナスの意見でも、扱いかた次第ではプラスにできるはずです。自分が正しいと思ってることが、いつも正しいとは限らないじゃないですか」

「あんたに一体、俺のなにが分かるんだ。親のプレッシャーに耐える辛さが、あんたには分かるのか」眉間に皺を寄せながら、藤川さんは早口でまくし立てた。

「わたしは、両親の反対を押し切って田舎からこっちに出てきました。定期的に嫌味ったらしい電話がかかってくるくらいなので、きっと向こうも追い立ててるつもりなんだと思います。いい加減早く帰ってこい、って」

「そんな程度じゃ、とてもじゃないけど比べ物にはならない」

「うちは藤川さんとは違って、どこにでもある三流家庭です。同じプレッシャーでも規模は遥かに小さいですよ。でも、元の器が小さい分、わたしにとってはきついプレッシャーなんです」

 くっと唇を噛み締める藤川さんは、「それとこれとは」と絞り出すように呟いた。白っぽくなるまで握られた拳が、藤川さんの行き場のない気持ちを代弁しているように思えて、わたしは目線を外して道路のほうに向いて座り直した。

「わたし、藤川さんなら大丈夫だと思います」

 缶を傾けて口に含んだコーヒーはすっかり生温くなっていた。冷めてしまったせいか、飲んだあとも甘味がしつこく舌の上に残る感じがする。

「そのうちすごい賞を取って、一気に有名になって、わたしなんかが口を利けるような人じゃなくなって――」

 そのとき、わたしの上に影が落ちた。

「……黙って聞いていれば大口叩きやがって。人のこと、分かったような気になるなよ」

 一瞬で氷漬けになったかのように全身が硬直した。真横でわたしを見下ろしているであろう藤川さんの表情がありありと頭に浮かんで、ヒステリーを起こしかけて震えている声はもちろん、漂ってくる気配から滲み出てくる分かりやすい怒りに触れて、身体の末端からさあっと熱が引いていくのをわたしは感じた。

「作品に好き嫌いがあるのは仕方ないことだ。それくらい分かる。でも、俺にも俺のやりかたってもんがあるんだ。それをどうこう言う権利は、他人のあんたにはない」

 最後の一言にかちんときた。

「じゃあそもそも、藤川さんの言う権利ってなんですか。その権利はどうすれば得られるの。付き合ってれば得られるの? 違うよね。どうせ美鈴にも指摘されたんでしょ? わたしと同じように。それで勝手に逆ギレして、美鈴を傷つけて。……大概にしたら?」

 敬語など存在すら忘れて、吐き捨てるようにわたしは胸中を吐露した。仮にもこんな人に惚れかけていた自分があまりに馬鹿馬鹿しく、後半はほとんど自嘲になっている。いままで生きてきたなかでも、ここまで悪意を込めて人を睨みつけ、感情に任せて噛みついたのは初めてだった。

 殴ればいいじゃない、殴れるもんならね。

 最後にそう言った直後、力任せに襟首を掴み上げられた。強引に立たされた上に掴み上げられていることもあって、ふらふらと足元が定まらない。ごつごつしている腕は、間近で見ると想像以上に筋肉で覆われていて、身の危険をわたしは瞬時に感じ取った。

「大概にするのは俺じゃない、あんただろうが!」

 目と鼻の先にある藤川さんの左頬は、もうずっと痙攣しっぱなしだ。明かりが当たっていない側なのに、それだけははっきりと分かる。また至近距離で怒鳴るものだから、声が耳に響いて痛いことこの上ない。

 騒ぎを聞きつけてか、店内から制服姿の壮年の男性が飛び出してきた。

「おい、藤川!」

 やめないか、とわたしたちの間に割って入ろうとする男性。けれどそこは若い力のほうが勝る。男性がどれだけ必死に引き剥がそうとしても、藤川さんの腕はなかなかわたしの服の襟元から離れない。容赦ない男の力に、最近買ったばかりで割と気に入っていた白のブラウスが、みしみしと苦しそうな悲鳴を上げた。

 悲鳴を上げるのは服だけではなくなってきた。徐々に締め上げていくものだから、段々と呼吸が苦しくなってくる。か、と息が途切れ途切れに漏れた。

 視界がぼうっとし始めたかと思ったところで、ようやく腕が離れた。そのままわたしは後ろに思い切り尻もちをついた。男性は息を乱しながらも、わたしと藤川さんの間にすばやく身を挟むと、「お前、これ以上やると警察沙汰だぞ」抑揚のない、疲弊しきったしゃがれ声でそう言った。

 そのときだった。

 コンビニの前の道路を一台のタクシーが通り過ぎようとして、――しかし急ブレーキをかけて止まった。その光景に目を遣っていたのはわたしだけらしく、いがみ合うふたりはまったく気付く素振りも見せていない。タクシーから勢いよく降りてきた人物を見て、わたしは目を疑った。

「香苗!」

 そこそこ高いヒールを履いているにもかかわらず、美鈴は全力でこちらに駆け寄ってくる。その声を聞いて、ふたりもようやく走ってくる美鈴のほうを見やった。ひとりは苦々しい表情で、もうひとりは背中しか見えなかった。

 ヒールがコンクリートを打つ硬い音を響かせながら傍まで駆け寄ると、ワンピースの裾が汚れるのもお構いなしに、美鈴はわたしの傍らに膝をついた。

「二次会、じゃないの……?」

 わたしの言葉には答えようともせず、美鈴は悲しそうに眉尻を下げた表情でわたしの体に触れた。ぎこちなく震える指先は、わたしの頭から頬、肩や腕まで、存在を確かめるように丁寧になぞっていく。そして再び肩まで上がってきたかと思いきや、わたしは美鈴にいきなり抱き寄せられた。そこに強引さや悪意みたいなものはなく、ただ温かい優しさだけがあって、わたしはそのまま美鈴に身を委ね、目を閉じた。

 どくん、どくん。若干早くなった、美鈴の鼓動を肌に感じる。すう、と美鈴が大きく息を吸い込むのが分かった。

「最ッ低」

 それは美鈴のものとは思えないほど、底なしの沼から湧き上がってくるような怨念に満ちた声だった。さすがにわたしに向けられたものではないと知りつつも、誰より間近で聞いたわたしは身が縮む思いがした。

「……なんだよ」

 藤川さんの声は、もう既にどこか投げ遣りだった。

「あんたは、どうしてあたしの大事な人まで傷つけるの」わたしの肩に回された腕に、優しく力が篭る。「一体なにが不満なの?」

 藤川さんが糾弾されている最中だというのに、身体がふわふわと宙を漂っているような妙な浮遊感をわたしは感じていた。

 言葉を口にしかけてはやめ、言い直そうとしてはどもり、藤川さんが動揺しているのは明らかだった。そんな彼に追い討ちをかけるかのように、美鈴は静かに声を荒げる。「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。あんたも男でしょう」

 申し訳なさそうにこの場から離れていく足音は、きっとあの男性のものだろう。視界の隅に辛うじて映った背中はひどく疲れ切ったかのようにしぼんで見えて、わたしは心のなかで見ず知らずのその男性に手を合わせた。

「……そんなんだから、いままで賞のひとつも取れないのよ。気に入らないアドバイスでも自分のものにしていかない限り、いつまで経ってもあんたはアマチュアのまま。その道のプロっていうのは普通、どんなことに対しても貪欲なものよ」

 そのとき、以前テレビの特集かなにかで、とあるベテランのプロ野球選手が野球とはまったく関係のない古武術や、別のスポーツなどを個人的に習っているのだと報道していたのをわたしはふと思い出した。そういうところに美鈴の言は起因するのだろうか。

 沈黙というよりも静寂に近い無音が続き、このまま誰も口を利かなかったらこの場はどうなるのだろうと心配になりかけたそのタイミングで、美鈴はわたしの頭の上で呟いた。

「帰ろうか。もう夜も遅いし、寒いし」

 返事をする代わりに、わたしは頭を美鈴の温かい胸に押し付けた。ややあってから、手を取ってそっと立たせてくれる。藤川さんの乱暴な手つきとは正反対で、赤子を扱うような優しく労う手つきだった。

「お前らに俺の苦しみなんて分かる訳ない」

 その捨て台詞が、もう負けを認めている。いまさっきのこともあったけれど、藤川さんのあまりに痛々しい姿を、わたしは正面から見ることができなかった。

「生憎だけど、あんたに作家は向いていないと思うわ。素人のあたしを唸らせられないようじゃあね」

 藤川さんのざっくりと傷ついた表情を垣間見て、ほんの少し可哀そうだなとも思った。けれど、歩きだす美鈴の背を追い始める頃には、そんな思いも頭のなかからすっかり消え去っていた。


 澄み渡った夜空の頂点には丸い月が浮かんでおり、街灯に負けないほどの月明かりを振り撒き続けている。人気のない住宅街はあたかも実物大の模型のようで、美鈴が傍にいなければ、すぐに迷子になれる自信がいまのわたしにはあった。

 間に微妙な距離を開けたまま、わたしたちはのろのろと家路についていた。沈黙に耐えきれなくなった、というわけではないけれど、とにかく会話がしたくてわたしは口を開いた。

「二次会行ったんじゃなかったの?」

 これは最初から疑問に思っていたことだ。たとえどんな二次会でも、一時間程度では普通収束しないものだ。ましてやアルコールが入っているとなれば、たとえ一時間で収束したとしても、そのあと三次四次と続いていってもおかしくはない。

「行ったのは行ったわ。でも、しばらくして多恵ちゃんが帰りたいって言いだしたから、タクシーで送るついでに、あたしも帰らせてもらったってわけ」足を投げ出すように歩いている美鈴は、右手で持った鞄をぐるんぐるんと振り回している。「どうして多恵ちゃんが急に帰りたがったのか、分かる?」

「普通に門限じゃないの? 基本ルーズだけど、さすがに日付が変わるまでには帰りなさい、……みたいな」

 ざんねーん、と美鈴はおどけた口調で答えた。けれど、すぐに一転して真面目な口調で一言を付け足す。「彼女、門限は特にないらしいの」

「門限がないってことは、それだけ心配されてないってことでしょ。……あ、でも多恵ちゃんみたいな子に限ってそれはないか。それだけ信頼されてるってこと、なのかな」

「多恵ちゃんのお父さん、いま体調崩してるそうなの。だからその分お母さんが頑張ってるらしくて。あの子の家、核家族だから、ゆっくり家事とかお父さんの世話とかができるのは、いま多恵ちゃんしかいないのよ」

 きっとお父さんの世話や家事で自分のことすら満足にできないだろうに、そんな状況でも仕事仲間に付き合おうとする人の好さは、年下といっても素直に感服に値する。

「すごいなあ。まだ若いのに、わたしよりも断然しっかりしてる」

「香苗もよくやってるじゃない。それに、そもそもこういうことって、他人と比べてどうこう言うものじゃないでしょう」

 にっと歯を見せて笑う美鈴に励まされ、わたしは仕方なくうなずいた。

 こうして話していても、藤川さんのことも含めて、ついさっきの出来事のことは不自然なほど話題に上ってこない。なんとなく、美鈴がわざと避けているような気がして、けれどわたしは黙って気付かないふりをした。

 そのあとは心地いい沈黙が続き、黙々と歩いているうちに家のすぐ近くまでやってきていた。このことはいまのうちに言っておきたい。そう思ってわたしは足を止めた。

「……どうしたの?」三歩ばかり先を行ったところで、美鈴は立ち止まって振り向いた。わたしが無言でいきなり歩みを止めたにもかかわらず、その表情は柔らかかった。

「バイト、辞めることにした」

 なにか言おうか言うまいかと逡巡しているのか、美鈴は何度か目を伏せたり上げたりしていたものの、結局多くは語らずに「そっか」と短く呟いた。

「美鈴に言われてから、ずっと考えてたの。このままじゃ駄目なんだろうなって。個人的に思い入れのある仕事だったから、なかなか踏ん切りがつかなかったんだけど、今日ようやく決心できた」

「それはそれでちょっと寂しくなるけど、……ってことは香苗、就職する気になったんだ」

 辞めたあとの具体的なことまでは正直考えていなかったけれど、ここで躊躇うとまた延々と悩むことになりそうで。わたしは思い切ってうなずいた。

「そっか。じゃあ、頑張らないとね、お互い」

 わたしが「どういうこと?」と訊き返すよりも早く、美鈴は口を開いた。

「――あたしも、そろそろ就活始めようと思ってたところだから」

 軽やかな動作で踵を返し、美鈴は再び歩き始めた。

 大学生の就活と高卒ペーペーの就活では、きっとスタート位置が大きく違う。美鈴がハーフマラソンを走るとすれば、わたしはフルマラソンを走らなければいけないのだろう。それでもわたしは構わなかった。いままでは美鈴と同じ土俵に上がることができるようになるとは微塵も思わなかったし、わたしにとっては就活などまったく別次元の行事だったのだから。

 美鈴の背中は、お互い一度スタートを切ってしまうと当分見えなくなることだろう。

 だからいまは、まだほんの少し手を伸ばせば届くその背中を追いかけていたい。

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