act.7
いまのままではいけない。それは分かった。けれど正直なところ、わたしはなにをどうしたらいいのかが分からずにいた。
なにかしら達成すべき目標が立てられれば一番いいのだけれど、そうすぐに用意できるものでもない。いまを変えるには努力はもちろん、相応のきっかけがなければ変わるものも変わらない気がする。
でも、きっかけってなんだろう。
学生ならば、自ずとやってくる進学や就職といった時期がそのままきっかけになるのだろうけれど、いまさらわたしにそんな機会は与えられるはずもない。自ら動くほかにないのだ。
翌日、朝六時という自分でも驚くほど早い時間に目覚めたわたしは、不思議と二度寝する気も起きず、ここのところいつも美鈴に作ってもらってばかりいた朝食を久しぶりに作ることにした。冷蔵庫を覗けば食材は十分すぎるほど揃っており、わたしには手にあまるほどだった。五分ほどなにを作ろうかと考えた結果、美鈴とは違いそこまで手の込んだ料理を作れる腕を持ち合わせていないことを考慮して、無難にハムエッグとトースト、あとサラダとコーヒーで済ませることにした。
やかんを火にかけ、さっとハムエッグを焼く。焼き上がるのを待っている間に、レタスを千切って小皿に適度に盛る。以前美鈴が作ってくれたドレッシングは市販のものよりも格段に美味しかったけれど、わたしには市販の胡麻ドレッシングで手一杯だ。手作りは一度やってみたいとは思うものの、わたしひとりで作るとろくなものにならない自信がある。「こんなことならレシピを教えてもらうんだった」と愚痴をこぼしつつハムエッグの様子を伺えば、白身の端までほどよく焼けていたので、わたしは火を消して黄身を割らないようにそっと皿に分けた。そして、ちょうどいいタイミングで湯が沸いてきたやかんの火を消して、トースターにパンを二枚放り込む。ちゃんと器具を使って淹れるコーヒーは確かに美味しいけれど、家で飲む分にはインスタントのコーヒーのほうが好きだと美鈴は言う。その考えはわたしもなんとなく理解できて、コーヒー好きの人には「一体なにを言っているのだか」と馬鹿にされそうな気もするけれど、インスタントはインスタントの味があり、その安っぽさがわたしは好きだ。
案の定、トーストが焼き上がってくる頃には美鈴が姿を現した。「おはよう」覇気のないもそもそとした美鈴の声から、まだ眠気が抜けきっていないことが容易に見て取れた。
「おはよう。そろそろ朝ご飯できるから、もう少し待ってて」
「あ、うん。今日は早いのね」
「そうなの。自分でも驚くくらい、やけに目覚めがよくて」
「今日は雪かしらね」
「降りませんよー」
「冗談よ」短く鼻で笑い飛ばすと、大きく欠伸をしながら美鈴は洗面所のほうへと歩いていった。食卓の上に全て並べ終えるのに合わせたかのようなタイミングで美鈴は戻ってくると、そのまますとんと椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
美鈴と一緒に朝食を摂るのは意外と久しぶりだった。ここのところ起きたときにはもう美鈴は出かけていて、たまに作っておいてくれる朝食か、それがないときは昨夜の残り物や卵かけご飯をひとりで食べていたから、誰かと朝食を摂るということがとても新鮮に感じられた。
いつものきりっとした表情ではなく、寝起きのぼうっとした美鈴でコーヒーをすする美鈴の視線は、朝の爽やかな明かりが射し込む窓のほうに向けられている。わたしも釣られてその方向を見ると、閉め忘れていたらしく僅かに開いた隙間から吹き込む風が、白いレースのカーテンを緩やかに揺らしていた。
「この頃、急に涼しくなってきたと思わない?」
「そうだね。お盆過ぎた辺りから、朝晩は寒いくらいだし」
ふたりともTシャツや薄手のパジャマ一枚で十分だったのが、いつの間にか、上になにかしら羽織るか長袖の服を着るかしないと過ごせなくなっていた。いま、美鈴は高校のときから着ているシンプルな紺のカーディガンを羽織り、わたしはいつぞや買ったよく分からない英語の羅列がプリントが施された薄桃色のトレーナーにすっぽり収まっている。
「今日は学校? 美鈴」
小さな口でトーストにかじりついていた美鈴は、小さく頭を振った。
「今日はバイト。ほんと、バイトの前ってどうしてこうも憂鬱になるのかしら」
「憂鬱かあ。頑張らないとなあって気にはなるけど、わたしそこまでは思わないな」
美鈴は近所のファミレスでアルバイトをしている。最初その話を聞いたときは、わたしは正直信じられなかった。家にいるときはまだしも、普段の美鈴は「お洒落な女子大生」というレーベルが実にしっくりくる人物なだけに、働くとしたら、飲食関係というよりもアパレル関係の仕事のほうがお似合いだろうとわたし個人は思っていたのだ。
確か働くことを決めた理由は「制服が可愛いから」だ。初めは友人の紹介だったそうだけれど、制服の可愛さが終始渋っていた美鈴の背中をひと押しした要因だったらしい。そのことを踏まえると、美鈴らしいといえば美鈴らしいのかもしれないけれど。
「香苗はバイト先に不満がないからそう言えるのよ」
フォークでサラダをおもむろに突っついては、気だるそうな動作で美鈴はレタスを口に運んでいる。その様子を見ていると、やはりレタスだけのサラダは少し味気なかったなと申し訳なくなった。粉チーズくらい振りかけておけばよかった。
「別に不満がないわけじゃ」
「いいよね。ああいう穏やかな雰囲気の職場って」
手にしていたフォークを置くと、美鈴は椅子に座ったまま背伸びをするように大きく仰け反った。「バイト先交換しようよ香苗ー」
「そんなに嫌なの? バイト」
美鈴の働いているところは何度か直接見たことがあるけれど、忙しいときもそうでないときも実に生き生きとしていて、とても不満を持って働いているようには見えなかった。わたしの姿を見つけると隙を狙って「いらっしゃい」と若干恥ずかしそうにしつつもわざわざ言いに来てくれるほどだ。
また、自ら制服が気に入って始めたと言っているだけに、美鈴のウエイトレス姿は「ウエイトレス」という型に見事にはまっているように思える。可愛らしくて、なおかつ大人っぽい。そんな美鈴は密かにわたしの誇りで、憧れでもあった。
「最近接客する客が態度悪い客ばっかりでさ、もうね、やる気を出そうにも出ないの。それはいい人たちも多いわよ。でもどっちかと言ったら、やっぱりいい印象よりも悪い印象のほうが影響しやすいじゃない?」
「そんなこと言ったって、ファミレスは接客業なんだから仕方ないじゃん、厨房で料理作ってるんならまだしも。そりゃお客さんも人間なんだし、皆が皆いい人っていうわけにはいかないよ。言いかた悪いけど、感じ悪い人も実際にいるんだから、我慢するしかないじゃん。接客は受け入れることだって、あの居酒屋でわたし教えてもらったもの」
美鈴は苦笑しながら肩をすくめた。
「自分より接客業歴の長い人からそういうこと言われると、なんていうか妙に納得しちゃうから怖いわね」
「そう、かな」
見当違いかもしれないけれど、わたしはなぜだか褒められた気になって、思いがけず顔が火照った。体ごと横を向いて未だに揺れているカーテンを眺めながら、わたしはいつの間にかぬるくなってしまったコーヒーを喉に流し込んだ。
「ごちそうさま。普通に美味しかったわよ」
声に引かれて振り向くと、とろとろとコーヒーを飲んでいるわたしを尻目に、美鈴はいつ食べ終えたのかすっかり空になった皿やコップを重ねて台所へ向かうところだった。
「あ、ちょっと」
「分かってるわ。自分の分くらい自分で洗う」
「そういうことじゃなくて」
わたしは残っていたサラダと一口分のパンを急いで平らげて、洗い物を始めている美鈴の元に駆け寄った。
「バイト、辞めないでね」
そう言うと、美鈴にぽかんとした顔で見つめ返されて、わたしはなにか変なことを言っただろうかと急に不安になった。とりあえず食器をシンクの脇に置き、もう一度表情を窺うと、美鈴は無表情で洗い物を続けていた。
「香苗は発想が飛躍しすぎよ。別に不満があるからって、辞めたいとまでは思わないし。近頃気分が悪くなるようなことが多いのは確かだけど、ファミレスはファミレスで楽しいこともあるから」
一瞬だけこちらに向けられた笑顔はごく自然なもので、わたしは胸の奥でわだかまっていた靄のようなものがすっと晴れていくのを感じた。
「あ、そうそう。香苗も今日、バイトだよね。確か」
「うん、そうだけど」
「うちのバイト仲間連れて行ってもいいかな」
「別に断る理由はないけど、どうして?」
「どうしてって訊かれると答えづらいものがあるけど、まあ強いて言えば自慢みたいなもの、かしらね」
「自慢……」いやいや、とわたしは慌てて手を振り否定した。「自慢になんか、ならないでしょ」
「なに言ってるの。あんなにいい店、紹介しないでどうするっていうの」
「――うん、まあ」
いい店だということはわたしも十二分に承知しているつもりだけれど、わざわざ知人に勧める必要があるほど特別だとは思わない。どこの街でもあるような、ほんの少し義理と人情味に富んでいる程度の小さな居酒屋だ。それでも、自分の勤め先が評価されていることを知ると、そこはかとなく気分がよくなる。
「とにかく、夜、何人か連れて行くから。よろしくね」
弾んだ声で語る美鈴を見ていると、闇雲に返事を濁している自分が馬鹿馬鹿しくなり、わたしは余計なことを考えないようにすると、「分かった」という了承の言葉は思ったよりもなめらかに口にすることができた。
その日の夜、美鈴は言った通りバイト仲間らしき男女数人を引き連れてやってきた。
「ごめん。誘ったら予想以上についてきちゃって」
「いいって、そんなの気にしなくても。奥の座敷使って。多分ぎりぎり入ると思うから」
「うん。ありがと」
何度か顔を見たことがある美鈴の友人がちらほら見られるなか、高校生くらいに見えるポニーテールの可愛らしい女の子もいた。女の子がほとんどのグループのなかに男の子は二、三人で、グループの一番後ろを歩いてきたのはやたらと体格のいい男の人だった。目の前を通り過ぎていく際、皆にこやかな表情で挨拶をしてくれて、その笑顔の眩しさにファミレスの従業員とはこうも明るい人ばかりなのだろうかと、一抹の疑念をわたしは抱いたくらいだ。
「あの人たちが香苗ちゃんの言っとった?」
ひとまず厨房に戻ると、先程の様子を見ていたのか、奥さんまでもがにこやかな表情で話しかけてきた。見れば親父さんはその脇で、汗を流しながらせっせと焼き鳥を焼いている。
「はい。友人が勤め先の人たちにこの店を紹介してくれたそうで、そうしたら、今度皆で行こうって話になったらしくて」
「あらあら。嬉しいなあ」
カウンター越しに奥さんから渡されるでき立ての品々をお盆に載せつつ、わたしは相槌を打つ。しかし、いま自分が浮かべている笑みは愛想笑いなのだと、わたしの頭のなかにいるもうひとりの冷静なわたしは気付いてしまった。
どうしてだろう。
ついこの間、いまのままではいけないと決意してからというもの、この居酒屋での仕事にわたしはあまり身が入らなくなってきている。もちろん働くことが厭になったわけではないのだけれど、これまでのようにずっとここで働き続けたいとは到底思えなくて、また、この場にいるだけでわたしの思考は無意識のうちに「いまのままでいいのか」と脳の奥深くに沈み込んでしまいそうになる。
日々の楽しみや癒しの役割をも果たしていた仕事の面影は、気付けば塵となって風に消えていた。いまわたしが感じているものと美鈴が感じている不満とは、どう取り違えたとしても交わることのないものだけれど、不思議とどこか重なる部分があった。
「三番テーブルですよね。行ってきます」
「はい、お願いね」
いつもとなんら変わらない仕事中の遣り取りだけれど、わたしの言動は、なかに人が入っていないのに動く奇妙な着ぐるみのように感じられた。外見は可愛らしく整えていても、なにより大切な心がそこにはない。
会社員らしきお父さん三人組の元に料理を届け終わり、ほっと息を吐いたところで美鈴たちファミレス軍団から呼び声が掛けられた。知り合いを接客するのは無駄に気恥ずかしいものがあるけれど、余計な気を遣わなくていいためか、普段の接客よりも気疲れせずに済むのは確かだ。
「とりあえず生七つと、この子にはウーロン茶で」
何気なくリーダーシップを執っている辺り、実に美鈴らしい。
「はい。分かりました」
「どうしたの、そんなに畏まっちゃって」
「いや、なんとなく」
「……変なの」
ふたりしてにやにやと笑い、そしてどちらともなく笑うのをやめてそれぞれの場所に戻る。わたしは仕事に、美鈴は仲間との談笑に。別れ際、なぜかわたしは言いようのない寂しさに襲われた。
「ちょっと、休憩もらってもいいですか。三十分でいいので」
わたしの申し出に、奥さんは小首を傾げつつも了承の意を示した。「体調悪いんなら、早めに言いよ。ひどくなってからじゃ遅いで」
奥さんの優しさが、いまのわたしには重荷にしかならなかった。胸に刺さる痛みを堪えながら廊下を行き、暗い更衣室で椅子に腰を下ろす。お尻から伝わってくる椅子の冷たさで、わたしの意識はかろうじて保たれている、そんな気がした。
ふと意識を戻すと、いつの間にかわたしの手には携帯電話が握られていた。開けられた画面のなかには、実家の電話番号が煌々と表示されている。
「……いまさら虫がよすぎる、か」
以前散々追い返しておいて今度は自分から寄っていくなど、身の程知らずもいいところだ。これはわたし自身が招いた罰なのだから、ほかの誰でもない、わたし自身が解決させなければ意味がない。隙あらば誘惑してくる甘えを振り切って、わたしは携帯電話を鞄の奥底に押し込んだ。
店のほうからは賑やかな笑い声が聞こえてくる。若い女性によく見られる甲高い声と、それに負けじと、男の人の太くて低い笑い声が入り混じったものが頭に響いて、わたしは耳鳴りすら覚えた。
早く戻らなければ。もし注文が一度に殺到していたら、夫婦ふたりだけではさすがに店を回すことは困難だろう。わたしが自分の勝手で抜け出して、それが原因でふたりに迷惑をかけると思うと気が引けた。
「――行こう」
こんなところでうじうじ考えていたところで、いつまで経っても埒が明かないのは当然だ。考えるなら働きながら考えよう。わたしは店に向かうため、脚に力を込めて立ち上がった。
楽しそうに過ごしている美鈴たちを、遠巻きに眺めていることしかできない自分はなんだか情けなくて、「わたしは仕事なんだから仕方ない」と納得させる自分は殊更ひどく惨めだった。そこに加わって、一緒にお酒を酌み交わして、馬鹿みたいに騒ぎ散らかせたら、どれだけ楽しいことだろうか。暇があればひたすらそんなことをわたしは考えていた。
ゆったりと落ち着いた店内を見渡していると、布巾を手にした奥さんが近寄ってきた。
「香苗ちゃん、あんたやっぱりおかしいで。ここ最近、様子変やなあって思ってたけど、心配事でもあるんなら、遠慮せずに話しや。私なんかでも、聞いたることくらいできるし」
「いえ、本当になんでもないんです。ちょっと寝不足なだけで」
もの言いたげな奥さんの視線にはわざと気付かないふりをして、わたしはわざとらしく見えないようにそっぽを向いた。「そう」と残念そうな呟きが聞こえたかと思うと、肩を落として去っていく奥さんの背中が逸らした視界の隅に映り、わたしは後悔と罪悪感を覚えずにはいられなかった。
美鈴たちから「お愛想」の声が掛かったのは、二時間ほど経ったあとのことだった。
通路から室内を覗いてみれば、皆いい感じにでき上がっており、溢れる笑顔もアルコールの影響であろうほんのりと赤に染まっている。そんな大人たちに紛れて、あのポニーテールの女の子は楽しげにしつつもどこかぎこちない笑みを浮かべていた。いつも見ている従業員たちの酔った一面を初めて見たのか、呆れと怯えを足して二で割ったような様子で座布団の上に縮こまっている。お酒の美味しさも怖さも知らない、そんな初々しい時期がわたしにもあったのだろうけれど、いまとなってはどうにも思い出せない。
美鈴は相変わらずリーダーシップを発揮しているようで、「ほら、行くよ」などともたつく他の皆を促している姿が見られた。
「レジで待ってるね」そう告げると、美鈴は手を合わせて苦笑し「ごめん」と口で形だけ作って見せた。
言った通りにしばらくレジについて待っていると、座敷のほうから若者たちがぞろぞろと歩いてくるのが目に入った。みな揃いも揃ってへらへらとした笑顔でわたしの前を通り過ぎ、店の外へと出ていくなか、最後尾を歩いてきた美鈴はやや疲れを感じさせる表情でわたしの前で立ち止まった。
「楽しかった?」
「まあね。正直疲れたけど」
「なんとなく分かる気がした。まとめるのも大変だもんね」
「本当、そう」
疲れを吐き出すように息を吐きながら、美鈴は財布からお札を数枚取り出した。
「皆から適当に徴収しておいたんだけど、足りるかしら」
「あ、うん。じゅうぶん」
お金を受け取り、お釣りを返す際、美鈴の背に隠れるようにして立っている人影にわたしは気付いた。それがあのポニーテールの子だということもすぐに分かって、わたしは何故だか頬が緩んだ。
「その子もファミレスで働いてる子?」
眉をひそめたのは一瞬で、美鈴はすぐに悟ったかのように顔の力を抜いた。ちらりと後ろを振り返って「なんだ、いたの」妹にかけるような緊張の欠片もない声で呼びかけた。
「みんな酔っ払ってくるといつもと違う人みたいで、ちょっと怖くて」
ポニーテールの子が言い終えると、美鈴はスイッチが入ったかのように高笑いした。
「確かにみんな別人よね。多恵ちゃんが怯えるのも分かるわ」
「へえ、多恵ちゃんっていうんだ」
「そう。最近働き始めた高校一年生。なんてったって、若いんだから」
まるで自分のことのように胸を張って言う美鈴と、自分のことなのに他人事のように一歩引いた位置で微笑む多恵ちゃんは、あたかも本当の姉妹のようで、何故だかわたしは胸の奥がほっこり温まるような穏やかな気持ちになれた。
「赤城さんも、まだまだ若いじゃないですか」
「多恵ちゃんに比べたらもうおばさんよ。あ、ちなみにこの子あたしの友達ね。一緒に住んでるの」
「自己紹介して」と美鈴に目で訴えられて、わたしは反射的に怖じ気づきながらも「吉崎です」と名乗って精一杯の笑顔を作った。「よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。吉崎さん」
「吉崎さんって呼ばれるの、なんか久しぶりだなあ」
「大体名前で呼ばれてるもんね、香苗」
「うん」
苗字で呼ばれていたのは高校時代が最後のように思える。卒業後はほとんど家と居酒屋を往復する生活で、確かに他のアルバイトをしていたときは名字で呼ばれているところもあったけれど、長続きしなかったせいかあまり印象に残っていない。
「じゃあ、私も香苗さんって呼んでいいですか」
「うん。好きに呼んで」
唇を真っ直ぐ横に結んだまま、多恵ちゃんは遠慮がちに笑った。チークをのせていない自然な頬の赤らみや、くっきりと現れたえくぼがとても若々しくて可愛らしい。全体的に幼い印象を受ける多恵ちゃんも、よく見れば睫毛が長く、非常に整った顔立ちをしている。艶のある綺麗な黒髪は既に大人の女の色気を醸し出しており、結わずに下ろしてきちんと化粧をすれば相当な美人に化けるだろう。
「香苗さんも大学生なんですか」
なんの前触れもなく尋ねられた内容に、わたしは軽く眩暈を覚えた。けれど、答えないわけにもいかない。
「違うよ。いまはフリーター、かな」
それを聞いてどこか残念そうにうなずく多恵ちゃんは、いま一体なにを考えているのだろうか。美鈴たちとわたしを比べて、可愛い顔をしていても内心では嘲っているのではないか。
やたらと負の妄想が膨らんでは弾け、わたしは自分自身の愚かさに泣きたくなった。
「みんな待ってるから、あたしたちそろそろ行くわね」
はっとして顔を上げると、美鈴は既に入り口のところにいて、こちらを振り返って微かに首を傾げている。もう出ていってしまったのか、多恵ちゃんの姿はどこにも見当たらなかった。
「うん。今日は来てくれてありがとう」
「こっちこそ、美味しい料理とお酒、ありがと」
わたしはうなずいてから、首を横に振った。
「それよりも、気をつけて帰ってね」
「ええ。香苗こそ、気をつけて帰るのよ」
そして戸はゆっくりと閉められ、美鈴たち若者の喧騒は徐々に遠ざかっていった。