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act.6

 短く乾いた音が足元から聞こえてきた。ぼうっと見下ろすと、大小様々な白い破片が、床の上に散乱している。最近になってもう何度繰り返したことだろうか。ざっと回想したあと、その数にわたしは軽く眩暈がした。

「香苗ちゃん、最近どうしたん。どこか体の調子でも悪いんとちゃうん」

 しゃがみこんで破片を拾っていると、いつのまにか奥さんが近くに立っていることにわたしは気付いた。音を聞きつけてやってきたのだろう。閉店後の静かな店内では、皿の割れる音はほとんど騒音のようなものだ。

 見上げると、奥さんは眉をひそめてどこか沈んだ表情をしている。手にタオルを持っているのは、洗い物の途中で抜け出してきたからだろうか。

「すみません。手が滑っちゃって。体調のことでしたら本当になんでもないんで、気にしないでください」

 言いながら、情けなさを通り越して、どういうことか笑いがこみ上げてきた。

 一枚や二枚ならば即座に許しを乞うところだけれど、そんな生易しい数ではないところを考えると謝罪だけでなくそろそろ弁償も、とわたしは内心で覚悟していた。言われてからするよりも自分から言ってするほうが、わたしとしても奥さんたちとしても余計に気を重くせずに済む。わたしが申し出るのを待っているからか、はたまた既に諦めているからか、未だなにも言ってこない奥さんに甘えてずるずると流されるよりは、自ら話を切り出したほうが遥かにましなはずだ。

「……あの。お皿、なんですけど、さすがにもうわたし自身耐えられないので、その、近いうちに弁償させてくれませんか」

 わたしが言い終わるのを待っていたのか、奥さんは間髪を淹れずに言葉を発した。

「なに言っとん。ええよ、そんなん気にせんといて。年寄りの家は人数の割にやたらと食器がようさんあるからな。店で使っとう皿は、ほんの一部。やから正直な話、香苗ちゃんにいくら割られたって、断然平気なんやで」

 ほほほ、と懐の深さを感じさせるいつもの上品な笑いをこぼしながら、奥さんは破片の片付けを手伝ってくれた。わたしは唖然としてしまって、しばらく破片を拾うことを忘れて奥さんの指先を目で追っていた。

「若い女の子がな、下手に触って指でも切ったらどうするん」

「――い、いい年してお皿の破片で指なんて切らないですよ」

「ごめんなさいね。私のお節介は、もう癖みたいなもんやから」

 破片を拾い集め終えると、奥さんはわたしの目の前に両の掌を突き出した。お椀をかたどったその掌のなかには無数の破片があって、わざわざ尋ねずともその意味は汲めたけれど、わたしはどうしても躊躇せずにはいられなかった。ややあってから結局根負けして、わたしは渋々ながら破片を奥さんの手に渡した。

「今日はもうええから、帰ってゆっくり休み。また明日、しっかり働いてもらわなあかんのやから。な」

 わたしは無言のままうなずいて、しずしず更衣室に向かった。

 美鈴と買い物に出かけたあの日以来、「就職」という言葉がわたしの頭のなかでぐるぐると渦を巻き続けている。


 翌日。平日のラストオーダーである午後十一時半も回って、残っている客の数もまばらになってきた頃、久しぶりに藤川さんと話す機会がやってきた。ふと思い立ってここしばらく来ていなかった理由を尋ねてみると、わたしが想像していた答えとは遠くかけ離れた意外な答えが返ってきた。

「締め切りが近かったから」

「締め切り?」

 思わず敬語を忘れて訊き返してしまったけれど、藤川さんは大して気にした様子も見せず、ただただ疲れきった顔をしていた。以前見た顔よりも随分とこけた頬がどこか痛々しい。

「新人賞の締め切りだよ。先週末、ぎりぎりで間に合ったところなんだ」

「新人賞っていうと、小説とか漫画とか、そんな感じのやつですか」

「そう。ちなみに前者な」

「へえ。藤川さんって作家志望だったんですね」

「そんなところ。まだまだひよっこだけどな」

 自嘲気味に笑いつつも、藤川さんはどこか誇らしげだった。

 しばらく経ったあとも「小説」という言葉の響きがやけに頭に残っていた。もともと活字が苦手で、新聞はもとより本自体ほとんど読まないわたしにとっては、作家を目指す人はみな尊敬せざるを得ない。学生時代によく宿題として課せられた原稿用紙五枚程度の作文ですら、ひいひい言いながら書いていたのに、本一冊の文量などとてもじゃないけれどわたしは書き上げられる気がしない。既に作家という職業をこなしている人たちに至っては、もはや別の生き物のようにさえ思える。

 わたしは感動のあまり「へえ」を連呼していると、藤川さんは露骨に怪訝な表情で「なんだよ」と低く呟いた。

「いや、作家なんてわたしには無縁の職業なんで、そういう職を目指している人ってなんだか凄いなあって」

「確かに店員さんには似合わないな。どっちかといえば体育会系だろう」

 笑いながら、藤川さんは枝豆を手に取った。一粒一粒丁寧に食べるのが藤川さんの食べかたらしく、残った殻はいつも綺麗にまとめられている。

「そうですね。学生のときは体育が一番好きな授業でしたから。毎回仮病使って保健室に逃げ込む子の気持ちが分からなかったなあ。堅苦しい学校生活のなかで、唯一自由に体を動かせる時間なのに」

「俺も体育は好きだったけど、夏場は嫌で嫌で仕方なかったな。とにかく暑いのが駄目でさ。寒いのは厚着すればどうにか我慢できるんだけどな」

「それは分かります。冬場は長袖長ズボンにカイロを何個もポケットに忍ばせて寒さを凌ぐのが、なんていうのか女子の間では常識でしたね。いま考えると、毎回毎回よくあそこまでしたなあって思いますけど」

「そうなんだ」

「そういえば、高校ってどうして暑い時期に限って屋外で陸上競技するんですかね」

「さあ」

「運動好きのわたしでも、長距離の時間はさすがに休みたくなりましたよ」

「男は暑いとき頭から水かぶったりできるけど、女子はそうもいかないだろう」

「分かってくれますか女子の苦労を。特に夏場の体育は、授業が終わったあとがもう面倒で」

「俺の学校は男女別々に更衣室があったけど、知り合いから聞いた話じゃ更衣室なんてなくて教室で構わず着替える学校もあるらしいな」

「ええ、信じられない。わたしは更衣室があった学校だったので」

 喋りながら、わたしはいつの間にか藤川さんと自然に会話していることに気付いた。内容も他愛もないことだし、そこまで刮目することでもないのかもしれないけれど、わたしの心は不思議と弾んだ。その一方で相手が美鈴の元彼だという後ろめたさもあった。ふたりは別れているのにもかかわらず、あまり親しくすると美鈴から彼を奪ってしまったという錯覚に陥りそうになる。思い込みも甚だしいけれど。

 店が暇なことをいいことに、藤川さんの向かいの席にわたしは腰を下ろした。一呼吸してから、自分の行動の大胆さに息を呑んだ。

 何気なく視線が重なり、わたしは咄嗟に逸らそうとしたけれど、なぜか瞬時にそこに縫い付けられてしまったかのように逸らすことができなかった。

「まだふたりで住んでるのか」

 いきなり問われた内容に、一瞬言葉が詰まった。そこに秘められた意味を探そうとしたものの、すぐには見つけられそうになく、わたしは藤川さんの無表情な顔を見ながら黙って首を縦に振った。

 藤川さんの問いは即席のものだったのではないか。そこに秘められた意味などなく、ただ単に口から出ただけのいわゆる思い付きの問いなのではないか。わたしの返答になにも応じることなく、枝豆を口にしては時折ジョッキを傾ける一連の動作を繰り返すところをしばらく見ていると、そんなふうに思えてきた。

「覚えてたんですね。わたしのこと」

「まあ。最初会ったときは、美鈴の友達程度にしか考えてなかったけど」

 シャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、藤川さんはこなれた動作で一本を口の端に銜えた。灰皿の脇に置いてあった高価そうな銀色のライターで先端に火を点ける。藤川さんが息を吸うたび、その先端が赤く輝いた。

「それまで考えもしなかったけど、気付いたらここの店員さんなんだもんな。正直最初は目を疑ったよ」

 いまとなっても煙草は微塵も吸いたいと思わないけれど、居酒屋店員という職業柄、客席に漂う副流煙は嫌でも吸ってしまう。そのためいつの間にか煙草の煙に慣れてしまい、目の前で藤川さんの口から吐き出される煙も大して苦にはならなかった。けれど慣れているとはいえ、意識的に呼吸のペースを落としたり鼻ではなく口で呼吸したりしないと、そのうち必ず我慢できずにむせてしまう。それだけは相手に失礼なため、わたしは必死に抵抗していた。禁煙の店ならまだしも、この店は喫煙が許可されている店なのだから。

「すみません。わたしは奥さんから話を聞くまで、全然気付けなかったんですよね」

「無理もないだろ。初めて会ったときからだいぶ時間も経ってたし、それからもいろいろあったし」

 藤川さんの言う「いろいろ」に美鈴と別れたことも入っているのだろうか、とわたしは気になって仕方がなかった。無論実際に尋ねる勇気もない。

「これもなにかの縁なのかもな」

「そうですね」

 そのとき、藤川さんの笑顔をわたしは見た。それも、ただの笑顔ではない。まとっている雰囲気や髪形はまるで違っていたけれど、あのときに見た笑顔となにひとつ変わらない笑顔だ。以前は美鈴に向けられていた笑顔だけれど、いまその笑顔はわたしだけに向けられている。二十年以上生きてきて初めて感じる種類の背徳感に、わたしの胸は静かに高鳴った。

「そういえば藤川さんって、いまなんの仕事してるんですか。確か、わたしのふたつ上でしたよね」

 以前美鈴に教えてもらった情報を頭の隅から掘り出して尋ねると、藤川さんはなに食わぬ顔で「無職」と答えた。ふたつ年上なので、留年さえしていなければとうに社会に出ていてもおかしくはない。そういう目算だったのだけれど、その言葉にわたしは思いがけず出鼻を挫かれて、自分でも気付かないうちに口調が早まっていた。

「無職って、就職しなかったんですか。美鈴と同じ大学でしたよね。あそこなら、そうそう困ることもないような」

 わたしの訊きかたが不味かったのだろうか。つい先程まで穏やかだった藤川さんの表情に、ほのかに険の色が混ざった。枝豆を口に運ぶ頻度が高くなり、見る見るうちに殻の山が築かれていく。

「別にさ、就職しようがしまいが、そんなことあんたには関係ないだろう。これは俺の人生なんだ。誰かに強要されてする仕事なんて、……俺は操り人形じゃないんだ」

 不満を撒き散らす藤川さんの言葉は、話していることとは裏腹にやけに幼稚で飾りすぎているように聞こえた。

 焦っていたのはわたし自身だったはずなのに、いつの間にかその立場は逆転していた。自分のペースが保てなくなっている人の前では、それまでどれだけ取り乱していてもすぐに冷静さを取り戻すことができる。そんなわたしの性根は、きっとどうしようもなくひねくれている。

「じゃあ違うところに就けばよかったんじゃないですか。その、強要されるような職じゃなくて、もっとほかの職に」

「できるならとうの昔にそうしてるさ」

「じゃあ、どうして」

 数秒の沈黙のあと、舌打ちすると同時に少し残っていたジョッキの中身を藤川さんはすっと飲み干した。

「親父は、自分の会社を継ぐのは息子の俺だって勝手に決めつけてるんだ」

 父親が社長。確かに純粋な驚きもあったけれど、そんな高尚な家庭環境が送る生活風景など、どこにでもあるような三流家庭で育ったわたしには到底想像もつかなかった。テレビや友人の会話など、なんだかんだよく耳にすることだけれど、実際に身近なところにそれがあると分かると、わたしは事態を呑み込むのに相当時間がかかるらしい。あまり長い間無言のままでいるのも無視しているように思われる気がして、わたしは驚きを無理矢理腹の底に押し込めて先を促した。

「それでさ、就活で企業に面接受けに行こうとすると、親父の奴うんざりするくらい口出ししてくるんだよな。ろくに知りもしないのに『やめておけ、そんな名前も聞いたことないような会社』なんて言ってさ。自分の会社だってそう大した会社でもないのに。でも大学出てすぐだったかな、それも押し切って一回就職したんだよ、俺。そうしたら親父、どうしたと思う」

「え、っと。その就職先に嫌がらせ、とか」

「いくらあの親父でも、そんな姑息なことはしない」

 藤川さんは表情では薄く笑いながらも、ふたつの目だけはまったく笑っていなかった。

「賄賂だよ。それも俺に」

 賄賂などという普段の生活ではまったくと言っていいほど使わない言葉を耳にして、わたしの知りうる常識の範囲から徐々に遠のきだしているこの場の雰囲気を、わたしは本能的に感じていた。

「それで、どうしたんですか。藤川さんは」

「最初の半年くらいは、給料と親父が寄越してくる金で、それはもう社会人一年目にしては豪勢過ぎる日々だったな。知り合いは少ない給料を真面目にやりくりして生活しているのに、俺はやたらと高いマンションに住んでみたり、服とかアクセサリーはブランド一色にしたりしてたんだよな。でもまあ、なんだ、その」

 話していて気持ちが昂ってしまったのか、若干どもっていたけれど、藤川さんは自らを落ち着けるかのように一旦言葉を切った。

「そういう生活って俺には向いてなかったみたいでさ、すぐ飽きちゃったんだよな」

 いまはわたしが口を出す場面ではない。そんな気がして、わたしは黙ってひたすら相槌を打っていた。

「仕事に不満は微塵もなかったけど、給料は到底親父が送ってくる額に及ばなかった。だからって言うと変かもしれないけど、俺、そのうちだんだん働く意味が分からなくなってきてさ」

 一生懸命働いた上で手に入る給料の額よりも、働かずとも手元に舞い降りてくるお金の額のほうが大きいとなると、確かに藤川さんが言うように仕事に対する意欲が失われるのも仕方がないのかもしれない。やはり人間は、楽をしてお金を得るということが非常に難しいことだと分かっているだけに、どうしてもそういったところで揺らいでしまうのだろう。

「それで結局、辞めたんだ、仕事。情けない話、親父の思う壺ってやつだな」

「……そう、なんですか」

「自分の弱さを実感したよ。強がっているのは外面ばっかりで、いざというときに限ってすぐぼろを出すんだって」

 唇をきつく結び、右の掌に視線を落とす藤川さんの面持ちは、他人のわたしが見ても感じられるほど自分を強く責めていた。

「あの、でもこれって、お父さんからお金を受け取らなければ済む話じゃないんですか」

「親父が勝手に俺の口座に振り込んでくるんだよ。嫌になるほど確信犯だろう」

 仕事を辞めたことがお父さんの思惑通りだったとしても、お父さんはそれで本当に息子が自分の会社を継いでくれると思っていたのだろうか。継ぎたくないという意思は嫌でも聞かされていただろうに、それでもなお賄賂としてお金を送り続けるお父さんの心境は、わたしにはまったく理解できない。

「それでも、会社は継ぎたくないんですよね」

「当たり前だろう。そんなの。自分の好きなことできないんだぞ。言われた通り社長になったとして、俺がすることは当然ながら親父がしていたことと同じだ。それのどこがいいと思う。自分の望んだ仕事でもなんでもない、ただそこにあるからっていう理由でこなす仕事のさ」

「でも、そもそも会社を継ぐっていうのはそういうことなんじゃないんですか。お父さんがしていた社長っていうポジションを引き継ぐ以上」

「それが嫌なんだよ」

「それなら、自分から新しいことを始めたらいいじゃないですか。お父さんが社長をしていたときには考えもつかなかったような、新しい方針を示すとか」

 瞬間、藤川さんの視線に異様なまでの力が加わった。それは単純に見開いただけではなく、あたかも人ではない何者かが彼に乗り移ったかのような、暗く強烈な印象を受けた。そして自分でも感覚として捉える前に体が委縮してしまい、次に言おうと用意していた言葉のなにもかもが頭のなかから吹き飛んでしまった。

「たとえそうしたとしても、それじゃ親父のレールに新しいレールを継ぎ足しているだけにすぎないだろう。俺は俺のレールを敷いていきたいと思っている。下世話だとかガキっぽいとか、あんたもそういうふうに思うんならそれでもいいさ。自分自身、それは自覚してるつもりだしな」

「別にそんな――」

 財布やら煙草やらといった荷物をまとめると、とても二十代の動作とは思えないほどゆったりとした動作で藤川さんは立ち上がった。「お愛想」と言われてもしばらくの間、わたしは金縛りに遭ったかのように体が動かせなかった。数呼吸したあと、やっとの思いで立ち上がり、既に歩きだしている藤川さんの後を追って急いでレジに向かう。

 藤川さんの手から五千円札を受け取り、何気なくわたしはその表面に視線を落とした。どこからどう見てもごく普通の五千円札だ。別にひどく汚れているわけでも、ひどく臭うわけでもない。それなのに、何故だかあまり触れたくない感じがして、わたしは急いでレジに放り込んだ。

「これも、お父さんのお金なんですか」

 お釣りを返しながら恐る恐る尋ねると、返ってきた答えは予想していたものとは真逆のものだった。おもむろにお釣りを財布に収めながら、「これは俺の金」ぶっきらぼうに藤川さんは言った。

「仕事を辞めてから、親父の金に手を付けるのもやめたんだ。この金は俺が自分で稼いだ金」

「さっき無職って」

「馬鹿かあんたは。確かにそうは言ったけどな、いくらなんでも多少の貯蓄はしてる」

「あ、そうか」

「あと無職っていうのはちょっと言い過ぎた。フリーターっていうほうが正しいか。なにせあんまりがつがつ働いてないからさ、正直ほとんど無職みたいなものなんだ」

 藤川さんの言葉を聞いて、わたしは胸が痛んだ。藤川さんは小説家という目指すものがあるけれど、わたしにはそういう目標がなにひとつとしてない。ただ淡々と日々を過ごしているだけだ。藤川さんみたいに、フリーターでも目標に向かって努力しながら送る日々とは、量は同じでも質が根本的に違う。「大学なんて遊ぶところ」などと戯言を吐いて就職して、それでも結局辞めてフリーターになったわたしは、詰まるところ自分を甘やかしているだけだった。

「それじゃ。今日も美味かったって言っといてくれよ」

 引き止めたい、けれどできない。わたしは心のなかで手を伸ばす。そんなことを知る由もない藤川さんは、戸を開けてこちらを振り返ることもなく一歩外へと踏み出していく。

 声をかけて、あとを追って、肩を掴んで、振り向かせて。

 視界の先で、戸は耳障りな音を立てながら閉められた。


 最近、日が暮れると日中の暑さもすっかり身を潜めるようになった。今年も秋がもう目の前まで迫ってきていることを肌で感じながら、わたしは家路を行く。

 家に帰ると居間の電気は消されていたけれど、台所の電気だけが煌々と灯っていた。光に吸い寄せられる虫のように、わたしは荷物も手にしたままふらふらと台所へと足を運んだ。

 美鈴が消し忘れたのだろうかと思い、スイッチに手を伸ばすと、冷蔵庫の扉に小さなメモが貼ってあることにわたしは気付いた。

『おかえり。夕飯少し作りすぎちゃったから、余り物でよかったら温めて食べて。フライパンに入ってる』女の子にしては角ばっている美鈴の字で記されたメモを剥がし、フライパンの蓋を取ると、甘辛い匂いが台所にふわりと広がった。

 麻婆茄子だった。

 疲れていることと遅い時間ということもあって、アルバイトのあとは普段あまり食べないのだけれど、その匂いに誘われたわたしの胃はいつの間にか受け入れる準備を始めているようだった。炊飯器を開けてみると、大量に昇る湯気の底に艶々としたご飯があり、まだ炊き上がってから数時間しか経っていないことが分かる。荷物を部屋に置いて部屋着に着替えて戻ってくる頃には、あらかじめ火を点けておいたフライパンはほどよく温まっており、温められたことで増した匂いと音でわたしの食欲は異様なまでに膨れ上がっていた。

 一度箸を付けると、それからあとはあっという間だった。自分でも驚くほどの早さで箸は進み、気付けば目の前には空のお皿と茶碗があった。部屋のなかはエアコンを起動させるまでもない涼しさだったけれど、わたしの額や鼻頭には玉の汗が浮かんでいた。

「ごちそうさま」

 卓の上に箸を置いて手を合せると、思わず息が漏れた。

 眠っているのだろう。美鈴の部屋の戸はきっちりと閉められている。余ってしまっただけだとしても、すぐ食べられるように用意しておいてくれた美鈴の気持ちは純粋に嬉しかった。

 片付けを済ませたあと、わたしはすぐに自室のベッドに潜り込んだ。食後とはいえ、まださすがに眠気は催していなかったけれど、仕事の疲れもあってひとまず身体を横たえたかった。

 豆電球すら灯っていない室内には、どこまでも続いているような深い闇だけがある。目の前に手をかざしても、わたしの目には映ることなく黒に溶けてしまう。この闇に身を浸していると、時間や仕事、人間関係など、とにかくこの世の全てから隔離された別の世界に移動してしまったかのような錯覚に陥った。それでも、背に触れる布団の感触や部屋の匂いに意識を向ければ、ここが自分の家の自分の部屋で、そして自分のベッドの上にいるのだとわたしは認識できた。

 すっと瞼を閉じると、思いがけないことに藤川さんの姿が浮かんだ。

 最初は奥さんの言いように影響されて悪い先入観ばかり持っていたけれど、少しずつ会話を交わしていくうちに、そこまで悪い人ではないとわたしは感じ始めていた。確かに言葉遣いや仕草に多少乱暴なところは見受けられるものの、見ていられないほど極端に酷いというわけではない。ただ不器用なだけで、お酒が入ると抑制が利かなくなってしまう質なのだろう。食べ終えた枝豆の殻の置きかたを見ていると、根は几帳面な人なのだろうと予想がついた。

 藤川さんは作家を目指しているという。とにも角にもわたしには到底手の届かない世界だ。やはりなにかを目指して努力している姿は、人の目には自然と眩しく映るもので、今回自分の目標のなさを知って改めて現実を突き付けられた。

 高校受験の際、奇跡的にも推薦をもらったわたしは、もともと志望校だった、地元でも有数のとある進学校の面接を受けた。「普通入試では難しいかも」と担任言われていただけに、推薦がもらえたとき、それだけで泣きそうになったことはいまでも覚えている。当時のわたしにとって、推薦というものは普通入試とはまるで別物で、ほぼ確実に受かるある種の裏口入学のようなものだった。そのため再三予定されていた面接の練習も、あまり気を入れずにこなして本番に臨んだわたしは、当時では予想外に、いま冷静になって思えば案の定泣きを見た。

「この学校を卒業したあとのことはどう考えていますか」

 お約束とも言えるそんな単純な問いかけに、当時のわたしは答えることができなかった。まだ特にビジョンがないのであれば、「大学進学を考えている」と無難に答えておけばいいところなのに、わたしは情けないことに三人の面接官の前で黙り込んでしまった。落とされたのは大方それが原因だろう。面接で黙り込むことは、最もやってはいけないことだ。それくらい、いくら対策不足だったわたしでも分かっていたはずなのに。

 闇に耐えきれなくなって、わたしは起き上がって部屋の電気を点けた。視界が急に明るくなって、目がちかちかした。

 再びベッドに横になると、明るくなった枕元の棚に並んだ、いくつもの写真立てが目に入ってきた。そこにあるのは中学時代のものからごく最近のものまで、友達数人で撮った写真ばかりだ。右にいくほど新しくなる写真のなかで、ちょうど中心辺りからわたしの隣にはいつも美鈴がいる。高校に入ったばかりの頃の写真からになるだろうか。いま思うと、推薦に落ちて仕方なく一般入試で駅前の私立高校に進学していなければ、美鈴と出会うこともなかった。そう考えると、いまとなっては推薦に落ちてよかったと思えるけれど、志望校に落ちて仕方なく滑り止めのこの高校に進学した美鈴にとっては、きっとなにひとつ喜べる要素はないのだろう。わたしと出会ったのも、「たまたま」で片付いてしまうことかもしれない。

 もしかしたらその頃から、いまのわたしの生きかたは確立されていたのかもしれない。その日その日を無難に過ごし、楽しむときは楽しんで、辛いことや苦しいことは見て見ぬふりをして遠ざけて。逃げていることすら認めずに、甘えられるときは盛大に甘える。

 藤川さんは自分のことをよく自覚した上で、そのイメージを払拭するための努力をしているのだ。一瞬でも似た者同士だと思ってしまった自分は、藤川さんの目には一体どれだけ無礼に映ったことか。

 変わりたい。

 そのとき初めて、わたしのなかに確固とした意識が生まれたように思えた。

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