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act.5

「ちょっと、なにもここで呑むことないんじゃないの」

「いいじゃない。たまには客として来てみると、新鮮味があっていいかもしれないし」

「あ、もう」

 美鈴はわたしの制止を振り切ると、率先して赤い暖簾をくぐっていった。

 日曜日。アルバイトは休みなのに、わたしは自分の職場に訪れていた。ただ、客として。

「あら、香苗ちゃん。お友達も一緒ね。いらっしゃい」

 颯爽と現れた奥さんは、驚いているのか喜んでいるのかよく分からない表情でわたしたちを出迎えた。

「すみません、お邪魔しちゃって」

「ええよ。今日はお客さんなんやから、くつろいでって」

「はい。ありがとうございます」

 見た感じ、客足は普段となんら変わりないように見えた。そこそこ賑わってはいるものの、忙しいとまではいかない、この店のいつもの雰囲気だった。

「やっぱりいいわね。この店」

「そうかなあ」

 カウンターの一角に腰掛けた美鈴は、感慨深そうに店内を見渡している。わたしはその隣に座ると、自然と目は厨房を覗いていた。親父さんは奥のほうでなにやら料理中のようだ。

「香苗はいつも働いてて、目が見慣れてるからでしょう。羨ましいような気もするけど、勿体ないような気もするなあ」

「どういうこと」

「こんな素敵な店で働けて羨ましいなあって思うけど、いつも働いてるせいでこの店をいいと思う感覚が麻痺しちゃってることが、勿体ないなあってこと」

 フラスコみたいな形をした醤油差しを手で弄びながら、美鈴は楽しげに呟いた。わたしにとってはただの薄汚れた醤油差しも、美鈴には新鮮なものに見えるのだろうか。それだけではなく、壁に貼られたジョッキを掲げる和服姿の女性のポスターにいちいち感動したり、使い古されてしわや油染みだらけのメニューを珍しいもののように扱ったりと、わたしにはその感覚がまったく分からない。けれど、美鈴が楽しそうにしているだけで、わたしも何故だか居心地がよくなった。

「そういうものかなあ」

「そういうものよ」

 わたしたちは生ビールで乾杯したあと、思い思いに注文しては皿を空にしていった。いつも運んでいる料理なども、食べる側になるとまた違った感じだ。

 顔馴染みの常連の人たちとも同じ客として顔を合わせると妙に変な気分で、いろいろな人から「一緒に呑もうよ」などと再三誘われるものだから、初めは丁寧に断っていたのも次第に強引になってしまって、仕舞いには美鈴に怒られる始末だった。「あれくらいきつく言わないと、あの人たちは聞き入れてくれないの」などと言い訳する自分が空しくて、わたしは自分が馬鹿馬鹿しくなった。それなのに、気付けば美鈴は自分のペースでぐいぐいお酒を呑んでいて、わたしは置いていかれているような気がして一層泣きたくなった。

「ここでバイトしてる子って、香苗だけなの?」

 すっかり顔の赤くなった美鈴は、不思議そうな面持ちで店内を見回している。そう忙しくはなさそうだったけれど、わたしがいない分、奥さんはせっせと厨房と客席を往復していた。普段は厨房に詰めっぱなしの親父さんも、たまにレジに立っている姿が見られた。

「うん。そのはずだけど」

「そうなんだ」

 美鈴はへらへらと笑いながら、海中で揺れる海藻のように左右に体を揺らし始めた。すっかりでき上がった証拠だ。わたし自身もそろそろ人のことを言えなくなってきているという自覚はあった。頭はふらふらするし、視界の端は変なフィルターがかかったように薄くぼやけ始めている。

「彼氏と別れたって、香苗に言ったっけ」

「――え、そうなの?」

 蛇口を捻れば水が流れ出るように、美鈴はさらっと言い放った。あまりの唐突さに、わたしは言葉がすぐに出てこなかったくらいだ。

「結構前なんだけどね。そっか、言ってなかったか」

「あの格好いい、年上の人だよね。爽やかな感じの。名前は、ええと、なんていったっけ」

「昔の男の名前なんていちいち覚えてないわよ。馬鹿ねえ」

「名前くらい覚えてるでしょ、普通」

 美鈴は目を剥いたかと思いきや、いきなり高笑いしだした。そして今度はきっと据わった目でわたしを捉えて「過去にはこだわりたくないの、あたしは。いまを生きるのよ」無駄に真面目な口調で言い放った。

 強くうなずく自信に満ちた美鈴を見ていると、わたしの考えていることなどほんの些細なことだと思えてきて、わたしは深く考えることをやめた。

「……まあ、金は持ってたし、気前もよかった。そういうところはいい男だったんだけど」

「だけど?」

「さすがについていけなくなっちゃって。ほら、香苗も一回会ったことあるでしょう」

 そう言われてわたしは、三人で鍋を囲んだ冬の夜を思い出した。その日、美鈴が彼氏と一緒に帰ってきて、いきなり「今夜は鍋よ」と言い出したときの衝撃はいつまで経っても忘れられそうにない。

 美鈴の彼氏に会ったのはそのときが最初で最後だったけれど、学部は違うものの同じ大学の先輩なのだとか、共通の友人の紹介で付き合うことになったのだとかいう、馴れ初めや惚気を散々聞かされた記憶がある。爽やかな好青年で、密かに羨ましいとわたしは感じていた。

「ついていけないって感じるほど、ひどい印象はなかったけど」

「まあ香苗とは初対面だったし、あのときはあいつもだいぶ猫かぶってたからね。気付かなくても仕様がないわ」

 ひとりで唸りながら首を縦に振ると、ふらふらと片手を上げて、猫撫で声で美鈴は奥さんを呼んだ。

「すいませーん。梅酒ロックでえ」

「美鈴、もうやめといたら」

「いいじゃない。呑めるときに呑んどかないと」

 呼ばれてやってきた奥さんも、心なしか心配そうな表情をしている。わたしにぎこちなく笑いかけると「ちゃんと見てたってね」そう小声で言い残して厨房へと戻っていった。

 幸せそうな顔で軟骨の唐揚げを頬張る美鈴を見ていると、何故か強く言うことができない。いまの美鈴には、毛糸の玉と戯れる猫のようなやんちゃさと愛らしさがあった。美鈴にとってその毛玉がこれ以上口にすると害をなすお酒や食べ物なのだとしても、わたしにはそれを奪い取るような残忍なことはできそうになかった。

「ほーら。香苗も、もっと呑みなって」

「ああ、うん。いいよ。わたしはもう、たくさん呑んだから」

「なに言ってるの。そんなこと言って、全然呑んでないじゃん」

「そんなことないよ」

 美鈴に無理矢理呑まされそうになっているところへ、奥さんが梅酒のグラスを持ってやってきた。「はいはい」穏やかに、かつ力強くわたしたちの間に素早く割り込み、美鈴の肩を掴んで押し止める。美鈴は不満げに口を尖らせつつも、目の前に置かれたグラスを見るや否や、すぐに顔に華を咲かせて手に取った。

「まったく。香苗ちゃんがそんなんでどうするん」

「それは、分かってますけど……」

「いいえ、分かっとらん。お友達、もうだいぶ酔っとるし、まだましな香苗ちゃんがしゃんとせんと、帰りが大変やろう。ふたりで酔い潰れてみ。この辺は人通り少ないから、なにかあったときに助け呼んでも誰も来えへんで。すぐにタクシー拾えればええけどな、やっぱりそう上手くもいかんで」

 奥さんの強い口調に、酔ったわたしはなにも言い返すことができなかった。ふわふわした意識のなかで奥さんの言葉が木霊して、わたしは無意識のうちに頭を縦に振っていた。

「お前、阿呆か」

 いきなり聞こえてきた野太い声に、わたしと奥さんは揃って厨房のなかを見た。そこで冷笑する親父さんは「ええか」と強い口調で前置きして、手にしていた穴開きおたまで奥さんを差した。

「タクシーくらい、店で電話して呼べば済む話やろうが。俺ら年寄りが若い奴らに口出しするもんとちゃうで。別に好きなだけ呑ましたれや」

「親父さん。あんた、いいこと言った」

「美鈴っ」

 正直なところ、すっかり調子に乗って声をかけている美鈴をたしなめる気力もそろそろなくなってきた。親父さんも親父さんで、奥さんに見えないようにこっそり親指を立てて自慢げにしてやったといった表情をしないでほしい。

 黙って親父さんの言葉を聞いていた奥さんは意外なことにもすんなり聞き入れて、「それもそうね」と肩をすぼめた。確かに親父さんの言うことも一理あるのかもしれないけれど、わたしは奥さんの言うことのほうが正しいという気がしてならなかった。

「……すんなって言われても心配すんねん。香苗ちゃんを若い頃の娘と重ねてまうから、余計に」

 初耳だった。いま考えてみれば、奥さんの年で子どもがひとりもいないというのも変な話か。わたしは曖昧に相槌を打った。

「そういえば、いままで娘さんの話って聞いたことなかったですね」

 親父さんはいきなりむすっとしたかと思うと、逃げるように厨房の奥のほうに行ってしまった。それを見て、奥さんはやれやれといったふうに吐息した。

「高校を卒業してすぐ、お嫁に行ってん。もちろんあの人は猛反対したけどな、私が三日三晩説得して無理矢理納得させたわ。当時は一時的に納得してたんかもしれへんけど、いまとなっちゃあの通り、全然納得しとらんみたいやなあ」

「奥さんは、反対しなかったんですか」

「娘が幸せになれるんやったら、それでええって私は思っとった。無責任な親やって思われるかもしれへんけど、なにより娘が決めた、この人と結婚するって意思を尊重したかってん。まあ自分で決めたことなんやから、自信と責任を持ってほしかったっていうところもあるけどな。正直心配でたまらんかったけど、相手の男性が若い割に誠実でしっかりした人やったから、これなら娘を任せてもええって思えたんかもな」

 懐かしむように目を細める奥さんを見ていると、本当はこの人が自分の母親なのではないかという錯覚に襲われた。わたしの母親も、これだけ自分のことを思ってくれる母親だったら、どれだけよかっただろうか。娘のことなんてほったらかしで、毎日のように友達とお茶だのパチンコだの、わたしが話しかけても気のない返事ばかりで、必要最低限の会話しかしてくれなかった。

「最初はどうなることかと思ったけど、いまとなっちゃ娘ももう二児の母。たまに家族で顔を見せに来るけど、いつも本当に幸せそうな顔しとるんやってなあ。私はそれだけで満足やわ」

 しばらく止んでいた奥さんを呼び寄せる声が再び挙がりだして、奥さんの浮かべていた微笑みは苦笑に変わっていった。

「注文聞いてあげんと皆うるさいし、そろそろ行くわ」

「はい」

「周り騒がしいけど、ゆっくりしてってな」

 和服の裾をひるがえしながら、奥さんは年齢を感じさせない元気さでせっせと働いている。わたしも負けていられないな、と思わずにはいられなかった。

「……美鈴?」

 ふと隣の席を見ると、酔い潰れて眠りこけている美鈴の姿があった。いつになく呑むペースが速かったせいもあるのだろう。ここまではしゃいでいた美鈴の姿を見たのは久しぶりで、静かに寝息を立てている穏やかな表情を見ているとわたしの頬は自然と綻んだ。寝顔を撮ってやろうかと思ったけれど、携帯を鞄から取り出したところで自制心が働いた。

 帰るときまでそっと寝かせておこうと思い、わたしはひとりで残っていた料理を少しずつ摘まんでいると、カウンター越しに視線を感じて、顔を上げると見事に親父さんと目が合った。

「どうしたんですか」

 注文が落ち着いたのか、ややリラックスした様子の親父さんはいつもの硬い表情を崩して白い歯を見せながら、「別にどうもしねえよ」頭の鉢巻きを取った。どこからともなく取り出した団扇で扇ぎながら、あちこちに目線を泳がせている。

「どうかしてるじゃないですか」

 わたしが笑いを堪えながら言うと、親父さんは途端に無愛想になった。わたしがしゅんとして謝ると、今度は「なんでお前が謝るんだ」と怒られた。

「なんなんですか、もう」

 自分でもつっけんどんな態度になっていることを自覚しながら、すっかり泡のなくなった生ビールを喉に流し込む。親父さんは、鉢巻きを頭に巻き直すと、またもどこからともなく缶ビールを取り出してきて、小気味のよい音を立ててタブを起こした。

「仕事中に呑んでていいんですか」

「あいつには秘密だぞ」

「ばらしますよ」

 缶に口をつけながら親父さんは不敵に笑った。ばらすつもりなど毛頭なく、わたしもジョッキに口をつけながら笑い返す。そうしていると、不意に横のほうから笑い声が挙がった。

「親父、また酒呑んでんのか」

「うるせえ。俺の勝手だ」

「ママに怒られるぞ。おー恐い恐い」

「そんなこと言ってねぇでさっさと帰れ。お前らがおると美味い酒も不味くなる」

「客に言うことじゃないだろ、それ」

 店中に、がははと男の笑い声が響き渡った。わたしはこの店のこういう空間が好きだった。店と客という関係を超えた親密さや、わざわざ遠慮などしなくていい気軽さが、その場にいるだけで当事者でなくても和ませてくれる。さすがに、一見客が居合わせると不快に思うところもあるだろうけれど、この店ならきっとすぐに馴染めるというなんの根拠もない自信がわたしにはあった。

「お前ら、仲良さそうやな」

 親父さんは缶に口をつけながら、顎でしゃくるようにわたしたちを交互に差した。わたしは隣で寝ている美鈴の肩を触れるか触れないかといった強さで叩き、「そりゃあ、高校からの大親友ですから」自慢するというよりも威張るくらいの気持ちで言うと、親父さんは「そうかそうか」優しくうなずいた。

「友達は大事にしねえとな」

「もちろん。美鈴は、わたしが一番気を許せて信頼できる唯一の、……っていうと大袈裟かもしれないですけど、とても大切な親友です」

「そいつはよかった」

「やべえ。親父、隠せ隠せ」

 小声で促してきた常連の声は堪えきれず、既に一部では笑いが巻き起こっていた。もうそんなことは気にしないとばかりに、親父さんは堂々と缶をあおる。そしてそれを見つけた奥さんが声を荒げたのと、客席のボルテージが最高潮に達したのはほぼ同時で、店内は一瞬にして建物が揺れるほどの声という声で溢れ返った。

 目の前で夫婦喧嘩が行なわれているのにわたしは不快に思うことはなく、むしろ微笑ましいくらいで、隣を見ればこの喧騒のなかでも眠り続けている美鈴がいて、このときわたしはなんとも言いようのない幸福感で満たされた。

「仕事中は呑まんって、約束したやろう」

「そんなこと言ったってな、周りの奴らが美味そうに呑んでんのに、俺だけこのくそ暑い厨房で料理作っとうなんて阿呆みたいやろうが」

「仕事中は呑まへんのが普通や!」

「俺は普通じゃないからなあ」

「そんなに呑みたかったら、店を閉めてから呑めばええやん」

「いま呑むから美味いんじゃねえか」

「とにかく、それ寄越し」

「あ、おい」

 親父さんから缶ビールを取り上げると、奥さんは肩を怒らせながら店の奥に消えていった。

 客席のあちこちから親父さんをからかう声が挙がり、親父さんは「あいつ頭かてえから」苦笑混じりに答えていた。

 常連は言わずもがな、あまりこの店に慣れていなさそうな客でさえ笑顔を見せている賑やかな店内で、ふと一部温度差があるところにわたしは気付いた。入り口近くのテーブル席で笑顔のえの字すら見せずに、怖いほどの無表情で黙々と枝豆を口に運んでいる藤川さんは、わたしの視線に気付くと自然な流れで目線を逸らした。

「いつもの席にいないのはどういうことだろう」と思い、その席を覗くと、あまり見ない顔の若いカップルがいちゃつきながら談笑している。いつもの席が占領されているから機嫌が悪いのだろうか。そんな単純なことで機嫌を損なうだろうか。それとも単純にこういう賑やかな状況が嫌いなだけなのだろうか。様々な憶測がわたしの脳内を駆け巡ったものの、結局ごちゃごちゃに絡まってしまって、なんだかよく分からなくなった。

 そのあとも舐めるようにお酒を口にしつつ、わたしはひとりで美鈴の食べ残しを片付けた。あまり遅くまで居座ると翌日に響くのはわたしも美鈴も同じなので、当初はさっさと食べて呑んで帰るつもりだったのだけれど、美鈴がここまで酔い潰れるとは思いも寄らなかった。おかげで気付けば午後十時を回っていて、周りもだいぶ静かになっていた。

「美鈴、そろそろ帰ろう」

 揺り起こすと、意外とすんなり美鈴は目を覚ました。けれど、放っておけばまたすぐに眠りだしそうなほどうつらうつらしていて、そしてあまりに無防備なものだから、わたしはつい悪戯したくなって携帯のカメラを向けた。美鈴の「やめて」と抑止する声も、携帯を抑え込もうとする動作もすべて緩慢になっていて、わたしは心のどこかで罪悪感を覚えながらもシャッターを切った。

「……あとで消しなさいよ。ちゃんと」

「はいはい」

 画面に映る眠そうな美鈴の顔をにやにやしながら保存して、わたしは携帯を鞄にしまった。再び眠ろうとする美鈴を横目にしつつ、厨房のなかにいた奥さんにお愛想を頼む。さすがに勝手に人の財布からお金を抜き取るのは気が引けて、わたしは全額ひとりで支払うと、もともと軽かった財布が一層軽くなった。

「生中一杯ずつ、サービスしといたで。ごめんねえ。それくらいしかできへんけど」

「いえ、ほんと、ありがとうございます」

「タクシー、呼ぶ?」

「そう、ですね」

 わたしたちは後ろのカウンターで眠っている美鈴の背中を見やり、揃って苦笑いした。

「ちょっと待っててもらえますか」

「ええよ」

 わたしは美鈴の元に駆け寄り、揺り動かしながら何度か名前を読んでみた。しかし今回はなかなか目を覚ます気配がなく、振り返ると奥さんが受話器を片手に目配せしてきたので、わたしは仕方なくうなずいた。

 待っている間、せめてもの手伝いにと食器を片付けておこうと思ったのだけれど、身体が重くて思うように動けなかった。

「気なんて遣わんでええのに。香苗ちゃんたちは、お客さんなんやから」

「すみません」

 わたしは申し訳なさそうに笑い、いつの間にか電話を終えた奥さんの手で目の前から運ばれていく食器たちを、ただぼんやりと目で追っていた。

 しばらく待っていると、外から短いクラクションが二度三度聞こえてきた。

「あら、もう来たんか」

 ちょうど近くを通りかかった奥さんが、クラクションと同じくらい短く言った。

「今日は忙しいのに、お邪魔してすみませんでした」

 立ち上がって頭を下げると、「もう、ええって」嬉しさと恥ずかしさを足して割ったような、穏やかな声が聞こえた。おかげで顔を上げたあと奥さんの顔を見るのが無性に恥ずかしくなって、わたしはずっと和服の帯ばかり見ていた。

「香苗ちゃんが休みの日は大体いつもこんな感じや。やっぱり人ひとりおらんだけでだいぶ違うけど、なんとかやっていけとうし、大丈夫や」

「あの、なんなら、もう少し休み減らしてくれても構わないですよ。わたし働く気はありますから」

「さすがに法律は破られへんて。いまでさえ目一杯働いてくれとうのに、これ以上無理させたら私らが捕まるわ」

「じゃあ、バイト募集したらどうですか。居酒屋って大学生にもフリーターにも、結構需要あるみたいですよ」

 すると、奥さんは「そうやねえ」と言葉を濁して考える素振りを見せた。しばらく経ってから、頬に片手を添えながら困ったふうに力を抜いた表情で、けれど強くはっきりとした語気で言った。「それは、まだ考え中」

「どうしてですか。人は多いに越したことはないと思うんですけど」

 奥さんは小さく溜息を吐いた。どうしてそんなに寂しそうな表情をするのだろう。

「酔いを醒ましてから、ゆっくり思い出し」

 わたしは奥さんに促されて美鈴を起こし、肩を支えながら入り口に向かう。寝惚けてぶつぶつとなにか呟いている美鈴にいつもの貫録はなく、いまわたしの肩にもたれかかってきているのは普通の酔い潰れた女子大生だった。

「もう帰っちゃうんだ」

 わたしが戸に手をかけたちょうどそのとき、横から深く沈んだあの声が聞こえてきた。多少の心構えはしていたつもりだったけれど、いざ声をかけられると、どきりとする。

「そうですけど」

「そうか」

 残念さの欠片もない言いように、わたしは少しかちんときた。それならわざわざ話しかけなくてもいいだろう、と言ってやりたい気持ちを押し殺して戸を開け放つ。すると、美鈴はするりとわたしから離れ、無言のままふらふらとおぼつかない足取りで店を出ていった。

「相変わらず、店員さんたちは仲がいいんだな」

 美鈴を追いかけようと一歩踏み出しかけた足が止まった。止められた、というほうが正しいかもしれない。

「相変わらず、ってどういうことですか」

 後ろから「やめとき」と小声で静止してくる奥さんを無視して、わたしは半ばむきになって尋ねていた。黒く蠢く想像が、わたしの頭のなかを跋扈し始めている。まさかとは思うものの、わたしはその想像を必死で抑え込もうとした。

「どういうことって、まあ見た通りのことだし」

 自分なりに凄みを利かせてにらみつけると、あたかも余裕ぶった笑みを返された。

「仲がいいってことはいいことだ。人間はひとりじゃ生きていけない生き物だからな。いつでも信頼できる友達ってのは、かけがえのない宝だと思うぞ」

 藤川さんがなにをいいたいのか、わたしはまったく分からずにいた。気付けば無意識のうちにぎらぎらした瞳に見入られていて、わたしはもう逃げずに自分から見つめ返した。

「なにが言いたいんですか」

「あいつ、案外すぐ酔い潰れるだろ。復活は早いんだけどな」

 わたしははっとして、暖簾の向こうに消えた美鈴の姿を目で追った。もうタクシーに乗り込んでしまったのか、近くにはいないようだった。「美鈴のこと知ってるんですか」

「質問ばっかりだな」

「……駄目ですか」

「ほら、また」

 からかわれているという自覚はあったけれど、決して感情を爆発させないようにすることで必死だった。ここで自分を見失うことは、きっとこの上なくみっともないことに違いない。

「久しぶりに顔見たけど、なにも変わってないみたいでなによりだ」

「香苗ちゃん、タクシー待っとうから」

 強く間に割って入ってきた奥さんによって、藤川さんはすっと顔を逸らした。わたしもそのまま強引に促されて、外に止まっていたタクシーに押し込まれた。見れば奥側の席には、美鈴が最初からそこにある置物のような自然さで座っている。振り向いて窓越しに見えた奥さんは口をきつく結び、首を小さく左右に振っている。窓を開けて訊き返そうとしたところ、運転席の中年のおじさんから面倒臭そうな口調で「どこまで」と問われて、わたしは言葉に詰まった。随分と待たせたから、機嫌を損ねてしまったのだろうか。

「鹿松住宅まで」

 いきなり隣の席から声が上がって、わたしは反射的に振り返った。シートに深く身を預けている美鈴は確かな意識があり、ちらりとわたしを見るとすぐに正面に目を向けた。

「起きてたんだ」

 そっと声をかけると、短く「うん」と返事が返ってきた。そろそろと動き出した車内に、しばらくの沈黙が降りる。交差点で信号待ちをしているとき、ふと美鈴が口を開いた。

「香苗、あいつと仲いいんだ」

「あいつって、誰」

 わたしはわざと知らないふりをした。美鈴には通用しないと分かっていても、こういうときだけやけに素早く嘘が付ける自分が怖くて、情けなかった。案の定、美鈴は口でこそ言わないものの目で嘘を見抜いていることを伝えてきて、わたしは肩身が狭くなった。

「あたしの元彼。店で別れたって話したじゃない。帰り際、入り口の近くで話しかけてきたあの男よ」

「ちょっと待った。わたしが知ってる美鈴の元彼と、店で会ったあの人とはまったく別人だよ。雰囲気も喋りかたも、人相だって――」回想が頭のなかを駆け巡り、しかしわたしは認めたくはないけれど認めざるを得ない現実を見た。「言われてみれば、確かにどこかで見たような……」

 美鈴はとても泥酔しているとは思えないほど饒舌だった。声にいつものような張りはないけれど、酔っている人だとは到底信じられない。

「目、だろうね」

 信号が青に変わり、車が走り出すのに合わせて美鈴は言った。

「目?」

「そう」

 ぎらぎらとしていて、見るものを吸いこまんとするあの深い瞳が、同じだったというのだろうか。三人で鍋を囲んだ夜、そんな目をしていた記憶はなかった。淀んでなどいなくて、もっと綺麗で澄んだ瞳をしていた気がする。淡々と語る美鈴はどこか寂しげで、ところどころ怒りのようなものも垣間見せた。

「どこまで関係が進んでるのかは分からないけど、あいつだけはやめといたほうがいい」

「そんな言いかた……!」

「あたしがそう感じたの。香苗には辛い思いをしてほしくないから」

 感情の赴くまま言ったわたしの言葉は、美鈴の理性で軽く押し潰された。

「必要以上にかかわりたくなかったの。呑んでる途中であいつが店に入ってきてから、いつになったら帰るんだろうってちょくちょく窺ってたんだけど、なかなか帰らないじゃない? 結局最後絡まれそうになったとき、……逃げちゃった。ごめんね。香苗には迷惑かけたね」

「別に、迷惑だとは思わなかったけど」

 わたしの知っている美鈴といえば、どんなときも人にあまり自分の弱みを見せたがらない、なかなかプライドの高い人物だ。同じ家に住むわたしにだって滅多に見せないくらいなのに。

 そもそも、よく店に入ってきたことに気付けたものだ。極端に出入りが激しいわけではなかったものの、客の出入りなど、普通はわざわざ注意するところではないだろう。店に踏み込んできたことまで分かるほど嫌っているのだろうかと、わたしは心なしか寂しくなった。

「美鈴なら別に絡まれても、すぱっと切ってやれるんじゃないの?」

 すると、美鈴はぎこちなく笑って頬を掻いた。

「そこはなにも言わず、目をつむってほしいところね。それだけ嫌い、って言えば伝わるかしら」

「……そっか」

「あたしさ、男と付き合ったのってあいつが初めてだったの。大学入るまでは男なんて所詮は体が目当てで、頭はいつまで経っても幼稚な唐変木だとばっかり思ってたから、誰とも付き合うことなんてしなかった。親しくしてた男の子もひとりやふたりはいたけど、一線を越えた関係にはならなかったし」

 そのとき、わたしたちのタクシーのすぐ脇を、物凄いスピードで原付が駆け抜けていった。原付とはあそこまでスピードが出るものなのかとひとり驚いていると、運転席から小さく愚痴のようなものが聞こえてきた。無愛想で口は悪いみたいだけれど、きっと根はいい人なのだろう。

「どうして美鈴は彼と付き合ったの?」

「きっかけは友達に紹介されたことだったかな。最初はいままでの男にしてきたように敬遠してたんだけど、なんて言うんだろ」

 美鈴の次の言葉を待っている間、車内はただ静かだった。

「がっつかずに、常に一歩引いたところから物事を見ている感じ、かな。ちょっと俺様な男だったけど、まあそこまで嫌になるほどじゃなかったし。さり気なくリードしてくれるところはまだ好感持てたかなあ」

 一緒に鍋を囲んだあの夜や、たまに彼が話題に上がったときの楽しそうな美鈴の顔を思い返すと、どうして別れてしまったのか、わたしには想像もつかなかった。ましてや別れた理由など、とても訊ける雰囲気ではない。

 美鈴は美鈴でなにかを抱えて生きていて、わたしはわたしでいろいろなものを抱えて生きている。それはとてつもなく重いときもあるし、拍子抜けするほど軽いときもある。どちらにしろ、自分以外の抱えるものに干渉することはその人が許さない限りとても容易ではなく、そしてそれを許すこと自体、そう簡単にできることでもない。

 許すということは、相手に自分の弱いところを晒すということだ。

「香苗は、いま付き合っている人とかいるの? 最近そういう話聞かないけど」

 暗い車内で顔を伏せられると、どんな顔をしているのかまったく分からない。声だけが淡々と響いて、静かに尋問されているような気分だった。

「いないよ。わたしあんまり外出歩かないから、高校卒業してからは出会いなんてないようなものだし」

「居酒屋でしょう。たまにはいい男来たりするもんじゃないの? ほら、やり手の若手社長みたいな奴とかさ」

 わざとらしく茶化す美鈴の口調に、わたしは思わず声を上げて笑った。

「そんな人来ないよ。本当、仕事帰りのお父さんとか、いい年したおじさんばっかりなんだから。若い男の子は来ても、仕様もない集団だったり彼女連れだったりすることが多いし」

「そっか。でもそれはそれで気を付けないと駄目よ。香苗、おじさん受けいいんだから」

「そうかなあ。顔馴染みの常連のおじさんたちとは親しくしてるけど、全然そんな感じじゃないし」

「そう? 今日だって、大勢に声かけられてたじゃない。あたし邪魔なのかなって思ったくらいよ」

「それは……、ごめん」

「いいって。気にしないで」

 家が近くなるにつれて、わたしたちは黙り込んでいった。けれどそれは少しも不快な沈黙ではなくむしろ心地いい沈黙で、美鈴もこう思っているのかどうかは分からないけれど、家に着いてしまうのがもったいないと感じるほどだった。

「帰ったら、先にお風呂もらっていいかな」

「うん」

 フロントガラスの先に、わたしたちの家がある集合住宅の灯りが見えた。


 大きな声では言えないものの、確かに藤川さんは逐一気に障る言動が目立つ。けれど、美鈴がそこまで毛嫌いする理由がわたしは分からなかった。美鈴自身、そんな彼と付き合っていたというのだからなおさらだ。付き合いだしてから豹変したのだとしたらそれはそれで納得できるけれど、美鈴ならそれくらい付き合う前に見抜けそうな気がする。

 あの晩以来、店で藤川さんを見かけると、わたしは変に意識してしまうようになっていた。

「やっぱり香苗は、淡い色が似合うと思うんだけど」

「――え、あ。そう、かな」

 ふと我に返ったわたしは、一瞬自分がどこにいるのかすら分からなかった。

「なに口開けてぼうっとしてるの。寝不足?」

「そんなことないよ」

 わたしは意識して口を閉じながら、目の前に広がるきらびやかな光景に目を向けた。

「そろそろ秋物買いに行こうか」という美鈴の提案で、わたしたちはいま週末の駅地下にやってきていた。何軒もはしごしていくうちに美鈴の両手には紙袋が続々と増えていき、いまではわたしの手にまで侵食してきている。たまにこうしてふたりで買い物に出かけると、なんにせよ決まって美鈴ばかりが大量に買い込んで、わたしはせいぜい片手で済む程度しか買わないということがほとんどだった。服にせよ雑貨にせよ、気に入ったものは手が届く限り即購入する美鈴とは違い、わたしは「自分に似合っているか」や「本当にいま必要か」などとあれこれ悩んで、結局買わずに終わることが多い。

 わたしは適当に店内を歩いていると、遠くから美鈴が小走りで近寄ってきた。

「これ、どうかな」

「美鈴なら、そう深く考えなくたって、なんでも似合うじゃん」

 目の前でベージュのトレンチコートを広げる美鈴は、わたしの発言を「なに言ってるの」と即座に一蹴すると、コートをわたしの胸元に押し付けた。

「香苗に勧めてるのよ。あたしはベージュあんまり着ないし」

「言われてみれば、そうかも」

 促されるままコートを持ち、これを着ている自分を、近くに鏡があるにもかかわらずなんとなく想像してみる。ぼんやりとしたイメージしか浮かばなかったけれど、いまいち上手く着こなせる自信がない。

「……わたしには、ちょっと。こういうのって、わたしなんかよりも美鈴が着たほうがずっと映えるよ」

「そっか。それは残念。似合うと思うんだけどな、こういうのも。でも、どうせだから一回試着してみたら? 意外としっくりくるかもしれないじゃない」

「そこまで言うなら……」

 美鈴に大きな姿見の前まで連れていかれて、わたしはコートを羽織った。その直後、わたしたちは「お」と声を揃えて呟いた。

「意外といけるかも」

「でしょう。だから言ったんじゃない」

「でも」

 わたしは値札を盗み見た。当然ながら、日中はまだ残暑の厳しいこの時期に秋物が安売りされているはずもなく、そこには素人の目から見ても妥当だと思われる金額が記されている。

「ちょっと高いよ。わたし、今月もうそんなに余裕ないし」

 すると、美鈴はひどく残念そうに肩をすぼめた。

「やっぱり高かったか。正直、勧めるのちょっと気が引けてたの。なんていうか、無理矢理押しつけてるみたいな気がして」

「別にどうってことないよ。安いコートくらい、他にいくらでもあるし」

「それもそうね」

 わたしたちはコートを元の場所に戻し、店を出た。ずっと店を渡り歩いているせいで、そろそろ足がだるくなってきている。荷物も増え続けているため、腕にも相当疲労が溜まっている感じがした。

 ヒールの高いミュールを履いている美鈴は、わたしなんかよりも遥かに足に負担がかかっているはずなのに、そんな様子は微塵も見せず、常に明るい笑顔を見せている。美鈴がいまこの時間を目一杯満喫しているのが傍目に見ていても伝わってきて、一緒にいるだけでわたしまで楽しくなって笑顔がこぼれてくるようだった。

「ね、喉渇かない?」

「言われてみれば、ちょっと渇いたかも」

「あそこでちょっと休んでいこうよ」

「うん。分かった」

 すんなり聞き入れてくれてわたしはほっとした。このままの勢いで買い物を続けられたら、きっとわたしの体が先に限界を迎えてしまう。

 冷房の利いた涼しい店内に入ると、背中に滲んでいた汗がゆっくりと引いていくのが分かった。席に着くと、わたしたちと同じくらいの年のウエイトレスが眩しいほどの営業スマイルでやってきて、美鈴は即答でアイスコーヒーを、わたしはやや迷ってからアイスミルクティーを注文した。

「随分とまた買い込んだね」

 美鈴の隣の椅子に置かれた紙袋たちを眺めつつ、冷たいおしぼりでわたしは手を拭いた。四人掛けのテーブルにふたりで着くと普段ならば広く感じるものだけれど、空いている椅子には色とりどりの紙袋がぎっしりと置かれていて、むしろ狭く感じるほどだった。しかもその大半は美鈴の買ったものだ。

「買い物自体久しぶりだったから。つい衝動買いしてしまいましたとさ」

「なにその言いかた」

 ふざけて笑い合っていても、美鈴の表情には「ちょっと買いすぎた」という後悔の色が窺えた。確かに、そう安い買い物ばかりでもなかった気がする。あまりお金に関する深い詮索はしないほうがいいのだろうとわたしは勝手に結論付けて、「暑いね、外」などと他愛もない方向に話を逸らした。

「そうね。少しは空調利いてるみたいだけど、やっぱり吹き抜けの下はとてもじゃないけど立っていられないわね」

 ここの駅地下にはいろいろと特徴があり、そのひとつに、天井がガラス張りの大きな吹き抜けがある。昼間は晴れていれば澄んだ青空が一望でき、夜は夜で溶け落ちていきそうなほど深い夜空が望めるのだけれど、夏場など日中は日光が容赦なく降り注がれるため、全体的に涼しい空間ではあるもののそこだけは非常に暑い。

「でもあの吹き抜けがあるから、地下でもだいぶ明るく感じられるんじゃないかな」

「それはそうだけど」

 美鈴は椅子から若干ずり落ちながら口を尖らせた。

「明るさって大事だよ。少し違うだけでもその場の雰囲気はがらっと変わるし、薄暗いよりもぱっと明るいほうが、購買意欲も掻き立てられるんじゃないかな」

「香苗のそういう考えかたができるところ、ほんと尊敬するわ。あたし、そこまで頭回らないもん」

 柔らかく微笑みながら、美鈴はわざとらしくやれやれと両の掌を天に向けた。何故だか恥ずかしくなって店内を見回すと、ちょうど先程のウエイトレスがわたしたちの飲み物を運んでくるところだった。

「お待たせ致しました」

 眩しい笑顔の女の子はわたしたちの目の前にそれぞれ飲み物を置くと、一礼して足早に去っていった。

 ブラックのままアイスコーヒーのカップに口をつける美鈴を見ながら、わたしはストローでミルクティーをかき混ぜていた。

「なに」

「なんでも」

 週末の喫茶店内は家族連れやカップル、わたしたちのように友達同士でやってきている客で賑わっている。みな思い思いにくつろいで笑顔をこぼし、店員もにこやかに働くこの空間が、わたしには一瞬まるで別世界のように思えた。

「なんか、いいよね。こういう雰囲気」

「なにが」

 スティックシュガーを手元で弄りながら、美鈴は真っ直ぐ訊き返してきた。

「辛いこととか悲しいこととか、厭な悩みを忘れられるくらい落ち着く感じっていうか。みんなリラックスしてるじゃない? こういう感じ、いいなあって」

「そう? 至って普通の喫茶店の雰囲気だと思うけど」

「……美鈴は薄情だね」

「失礼ね。自分ではごく一般的な感覚を持ってるつもりだけど」

「ごめんごめん」

 わたしはミルクティーを吸い上げながら、美鈴の様子を盗み見た。ややそっぽを向いてカップを傾ける美鈴は一見怒っているように見えるけれど、美鈴が少しからかった程度で腹を立てるほど短気でないことはわたし自身よく知っている。

「そういえば、就活はいつ頃から始めるつもりなの? そろそろそんな時期じゃない?」

「そうねえ。知り合いのなかにはもう始めてる子もいるけど、あたしはもう少しあとでもいいかなって思ってるの。やっぱり遊べるうちは遊んでいたいし」

「そっか。そうだよね」

「かと言って、就活もなんだかんだお金かかるからね。いまのうちになるべく貯めておかないといけないし、そこまで遊んでばかりもいられないのよね」

「へえ。でも大学生って、自由な時間が多いってイメージがあるなあ」

「休暇が長いから、そういう印象を受けるんだと思う。実際そこまで自由な時間多くもないのよ。バイトしてお金も稼がないといけないのに、レポートだとかまとめ資料だとか、とにかくいろいろあるんだけど、それを提出しろって頻繁に要求されるんだから。ほとんど単位取り終えたいまだからこそ笑って言えるけど、何回投げ出したくなったことか」

「経営学部も大変だねえ」

「まあ、勉強自体は好きでやってるから、特別苦でもなかったけどね」

 鞄から手鏡を取り出して丹念に覗き込みながら、美鈴は呟いた。化粧直しでも始めるつもりだろうかと勝手に想像して、けれど美鈴が人前で堂々と化粧直しをするような人物ではないことをすぐに思い出して、わたしは申し訳なく思った。

「――香苗は就職しないの?」

「え」

 ストローに指をかけたまま、わたしは反射的に訊き返していた。

 切り返しで放たれた問いは、恐ろしいほど正確にわたしの柔らかい部分を捉えた。

「だから、就職しないの、って訊いてるの。だっていつまでもフリーターでいるわけにもいかないでしょう。バイトじゃ保険も入れないし、病気とか怪我とかしたとき、いざというときに困るのは香苗自身なのよ。収入はどう頑張ったって正社員には及ばないし。バイトの給料じゃきっとそのうち限界が来るんだから、早めに考えておいたほうがいいと思うわよ」

 美鈴の言葉が終わったあとも、どうしてもわたしは二の句が継げなかった。このままフリーターのままでいることに限界があるということは、わたし自身遠い昔に気付いていたはずなのだ。収入面においても健康面においても、とにかく全ておいて美鈴が言うように不安要素が多すぎる。それにいままで蓋をして見て見ぬふりをしていたのを思いも寄らぬところから掘り返されて、わたしは恥ずかしさというよりも惨めさで顔が上げられなかった。

 同じようなことを、以前居酒屋の奥さんにも問われたことがある。そのときのわたしは将来のことなどまるで考えておらず、ただやみくもに大学に進学するよりも「社会に出たい」「自分の稼ぎで暮らしたい」という、改めて考えると安直でしかない考えの下で生きていた。そのため奥さんの問いには明確な答えを示さずに、ひたすら弁を濁しては先延ばしにして、奥さんが気に留めなくなるのを待った。そのときの自分を叱る資格は、当然ながらいまのわたしにはない。

 短い沈黙のあと、正しいことしか言っていない美鈴が「ごめん」と素っ気なく言った。

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