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act.4

 今年の梅雨は思いのほか短期間で去っていき、七月に入る頃にはテレビの週間天気予報には晴れのマークが軒を連ねるようになっていた。開店前のがらんとした客席でひとつのテーブルについてテレビを見ていたわたしは、明日の最高気温を見て思わず上半身をテーブルの上に投げ出した。

「なにしとんのかと思えば。だらしないで、こんなとこで」

「まだ七月入ったばっかりなのに、もう三十度超えてるんですよ。ほんと信じられない」

 声のしたほうを顔だけ起こして見ると、客席を覗き込んでいる奥さんと目があった。和服の襟元が一瞬垣間見えて、それだけでわたしは脇が汗ばむのを感じた。

「別にそれくらい、ここ最近じゃ珍しくもなんともないやろ」

 なにをいまさら、と表情で訴えてくる奥さんがやけに眩しく感じられて、わたしは目を逸らした。

「……こんなに暑いのに、よく和服なんて着ていられますね」

 Tシャツ一枚でも暑いと感じるのに、和服を着て平然としていられる奥さんが少し羨ましくもあり、少し恐くもあった。

「これくらいの暑さでへこたれとるようじゃ、香苗ちゃんもまだまだやな」

 ほほほと笑いを振り撒きながら、奥さんは奥へと戻っていった。わたしはまたテーブルに突っ伏した。

 学生にとっては待望の夏休みを目前に控えて、朝夕街を歩いていると楽しそうに騒ぎ歩く中高生をよく見かけるようになった。大学の夏休みはもう少し先らしく、美鈴はそうやって浮かれる中高生を見ては文句を垂れている。わたしみたいなフリーターにとっては夏休みなど無縁の期間であり、毎日昼過ぎに起きたり毎晩遅くまで遊び歩いたりするようになることもなく、普段となんら変わらない生活リズムで日々が流れていく。

 そこは神棚ではないのだろうかと疑いたくなる位置に置かれたテレビから流れる映像は、天気予報からニュースに移っていた。ローカル番組特有のアットホームな雰囲気で、今日一日のニュースが語られていく。

 美鈴が午前中に出かけてしまったので、家にひとりでいてもすることがなかったわたしは、昼食を摂ってから夕方から始まるアルバイトの時間まで適当に街をぶらつくことにした。けれど屋外は予想以上に暑く、わたしは自分でも情けないなあと思いながら早々に断念して、数時間早く奥さんたちの元を訪れたのだった。いきなりやってきたわたしを、奥さんはさも来ることが分かっていたかのように落ち着いて招き入れてくれて、おまけにお手製のところてんまでご馳走してくれた。熱を持った身にとってはこの上ない贅沢品のように感じられて、わたしは「美味しい」を連呼しながら、一気に平らげてしまった。奥さんから「女の子がそんなにがっつかへんの」とたしなめられたことについては、正直その通りだと思うし、反省もしている。

 親父さんは急遽買い出しに出ているらしく、食後は奥さんとふたりで終始ドラマの再放送を見たりくだらない世間話をしたりしていたのだけれど、雇い主の家でこうもくつろいでいていいのだろうかと不意に不安に駆られて、わたしは下の店舗でいまこうして伸びている。開店前の店舗は当然ながら冷房も効いておらず、「ここにいたらええやん」と引き止めてくれる奥さんの手を頑なに振り払った自分を、いまさらになって呪った。

 窓から差し込む光は橙色を帯びてきている。こうしてだらけているのも癪に思えて、わたしは立ち上がった。


 営業中は店内の空調がほどよく効いているので、よほど忙しいときでなければ汗が流れることはない。訪れる客のための空調であるのは言うまでもないけれど、働く側としても非常に有り難いことだ。

 開店して間もなくやってきた常連の守口さん夫妻以外、店内に客はいなかった。守口さん夫妻は、少なくとも週に一度は来てくれる大切な常連だ。ふたりとも既に白髪で、もう何年か後には金婚式が控えているとかなんとか。夫婦揃って焼き鳥が好物で、長身痩躯の旦那さんはねぎまを、小柄でぽっちゃりとした奥さんは親鳥を好んで注文する。

 いつものように注文されたそれらを、ふたりの定位置である二人掛けの小さなテーブルに持っていったとき、守口の奥さんがひどく残念そうに「香苗ちゃん」と切り出したのだった。

「私たち、今度、田舎のほうに引っ越そうと思ってるの」

「田舎、ですか」

 当初事態が飲み込めなかったわたしは、ただ曖昧にうなずいていた。黙り込んでしまった奥さんを励ますためか、旦那さんは思いきり明るい声音で言った。

「俺たちもいい加減、いい歳やから。そろそろ落ち着いて暮らせる田舎に越そうかってな」

 奥さんは関東のほうからお嫁に来たのだと、以前教えてもらったことがある。奥さんは標準語を、旦那さんが関西訛りを話すものだから、最初のうちは違和感だらけで落ち着かなかったことはいまでもよく覚えている。

「そうなんですか。じゃあ、もうどこに引っ越すのか決めてあるんですか」

 旦那さんがねぎまを口にしていたので、代わりにというように奥さんが慌てて、

「具体的には決めてないんだけど、北陸のほうがいいかなって、私は思ってるんだけど」

 言うのと、旦那さんがうなずくのはほとんど同時で、些細なことだけれどわたしはそこに夫婦の仲の良さを感じた。

「もうこっちには戻ってこないんですか」

「戻ってこない、って決まったわけじゃないけど、落ち着いて余生を過ごしたいから引っ越すんだし、そうそう頻繁に帰ってくるつもりはないよ」

 常連の人はわたしにとって、親戚や家族にも似た存在だ。それも両親、そのまた両親の世代の人がほとんどで、親しくしてくれる常連の人たちは、みな自然とわたしを娘のように思ってくれる。地元に両親を残して都会に出てきたわたしにとっては、彼らと過ごすときが唯一、家族の温もりを感じられる瞬間だった。尤も、わたしはこれまで家族と過ごしていた間、まともに温もりを感じたことがないので、それが本当の温もりなのかどうかは分からないけれど。ただの慣れ合いかもしれないし、わたしが勝手にそう感じているだけなのかもしれない。

「なぁに、たまには香苗ちゃんの顔も見に来たるで」

「それは、どうも」

 旦那さんは右手にねぎま、左手に生ビールのジョッキを持ち、一目で機嫌がいいのだと分かるほど頬を緩めている。普段は寡黙でどっしりとした旦那さんも、アルコールが入ると途端に饒舌になる。対する奥さんはその逆で、普段の賑やかさが一転して無口になってしまう。

 これからしばらく守口夫妻に会えないのだと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。

 厨房の前まで戻って溜息を吐くと、営業中には珍しく、親父さんが「どうした」と声をかけてきた。奥さんの姿は厨房のなかには見当たらず、わたしはもう一度溜息を吐いた。

「そんなしけた面すんな」

「だって、守口さんたち、引っ越しちゃうんですよ。寂しくないんですか」

 すると親父さんは一瞬目を剥いて、わたしの肩越しに守口さん夫妻が座るテーブルのほうを見た。ややあってから、目線を落として「そうか」どこか残念そうに呟いて、手元でなにか作業をし始めた。厨房の外からでは手元が見えないので、なにをしているのかは分からない。わたしはただ厨房の前に立って、親父さんの様子を眺めていた。

「この店の信条、覚えてるか」

「え、はい、一応」

「あれは俺とあいつがこの店を始めたときに決めた信条でな、この店にとっての礎だ」

「それがどうかしたんですか」

「来る者は拒まず、去る者は追わず再来を促す。これはこれからも決して変わることはねえ」

 目の前に白い陶器の小皿が置かれた。小皿のなかには白魚の生姜醤油和えが綺麗に盛られている。きらきらと輝く半透明の白魚の体にはほのかに醤油が絡み、加えて生姜の黄色いアクセントが絶妙だ。生姜の存在感をしっかりと感じられるさっぱりとした匂いもさることながら、見た目にも十分に満足できる優れた一品だな、とわたしは思った。

「まあ、なんだ。上手く言えねえけどよ、とっておきの餞別だ、って持って行ってくれ」

「……はいっ」

 親父さんは親父さんなりに惜しんでいるのだろう。親父さんが背を向けて顔を隠すときは、大抵なにかしら感情を堪えているときだ。直接本人に言うと怒られるので、口のなかで、この頑固親父め、とわたしは言ってみた。

 守口さん夫妻のもとにそれを届けると、ふたりは最初驚いたものの、訳を話すと穏やかに笑って快く受け取ってくれた。

「うん、美味い」

 旦那さんはこれでもかというほど絶賛していた。その傍らで奥さんもちょこちょことつまんでは、目を弓にして唸るようにうなずいている。

「あとでお礼を言わないといけないね」

「せやなあ」

 空いた皿やグラスなどを受け取って戻ったとき、ちょうど入り口の戸が開いた。

 急いで流し台に置いて「いらっしゃいませ」と出迎えに行く。なに食わぬ顔で入ってきた男性を見て、わたしは動悸が微かに早まるのを感じた。

 伏目がちに入ってきた彼、藤川さんは「いつもの」と言いかけたところでわたしの顔を見ると、面倒臭そうに目線を逸らした。

「生と――」

「枝豆、ですよね」

 強引に被せるように言うと、藤川さんはじっとりと撫でつけるような目でわたしを睨んだあと、無言で奥のほうへと歩いていった。

 藤川さんの注文を訊くのは初めて注文を受けたあの日以来だったけれど、彼が最初に注文するのは生と枝豆だということは何故かちゃんと覚えていた。わたしは自覚があるほど物覚えが悪いのに、今回に限って覚えていたことに関しては自分自身驚いている。

 うなずいて、いつもの隅の席につくのを横目に見ながら、わたしは厨房へと急いだ。

「生と枝豆、入ります」

 僅かに親父さんの肩が動いたのを、わたしは見逃さなかった。わたしなどとは違い、店に入ってきたところを見ていなくても、注文内容で誰が誰か判別できるのだろう。

 親父さんにしろ奥さんにしろ、わたしにとっては恐れ多い存在で、天地がひっくり返っても絶対に敵わない、と生ビールをジョッキに注ぎながらわたしは思う。あらゆる面で尊敬できる存在であるのは確かだけれど、唯一、客を選りすぐる一面があることが気に入らなかった。

 でき上がってきた枝豆の皿を受け取りながら親父さんの目を強く見つめると、親父さんは強く睨み返してきた。その表情があたかも「お前になにが分かる」と言っているように思えて、わたしは結局黙って踵を返すことしかできなかった。

「お待たせしました」

 相変わらず気だるそうに煙草を吹かしていた藤川さんは、灰が残ったままの煙草を口の端に咥えたまま「どうも」と器用に言った。煙草を灰皿に押し付けるように揉み消して、ジョッキを傾ける。こくんこくんと波打つ喉仏や、意外としっかりとした二の腕、中身の減っていくジョッキを見ていると、わたしの視線に気付いた藤川さんが「なに」訝しげに尋ねてきた。

「いや、いい呑みっぷりだなあと思ったので、つい」

「あっそ」

 周りを見渡して奥さんの目がないことを確認してから、わたしは近くの椅子に座った。いまのところほかに客は守口さん夫妻しかいないし、厨房からも彼らの席からも、この辺りはちょうど死角になる。そういう計算高い自分が、少し嫌になった。

「なんか用? 店員さん」

 枝豆を口にしながら、藤川さんは「店員さん」をやたら皮肉の篭った口調で言った。ぎらぎらした双眸は健在で、目を合わせると引き込まれそうになるのをわたしは必死で覚えた。

「いつも生と枝豆ですよね」

「だからなに」

「いえ。好きなんだなあって」

 藤川さんは手に持っていた枝豆の皮で、わたしのことを指しながら「嫌いな物を金払ってまで食いたいと思うのか。店員さんは」変に教師っぽく説明口調で言った。それが高校時代にわたしたちのクラスの社会科を担任していた、厭味ったらしい男性教諭にそっくりだったものだから、わたしは内心でむっとした。

「それは、思わないですけど」

 皿の上では食べ終わった枝豆の皮が丁寧に選別されていく。大雑把に見える手つきなのに、その動作は恐ろしく正確で、どこか優しさが感じられた。

「だったら、俺がなにを食べようと俺の勝手だろう。金さえもらえればいい店員のあんたに逐一文句つけられる筋合いはない」

 喉元まで出かかっているのに、あと一歩「そんなことはない」と言う勇気が湧かなかった。お金をもらうためだけにこんな仕事をしていたら、きっと長続きしない。客ひとりひとりと親身になって付き合うことで、わたしはお金をもらうだけでなく、そのひとの人生観だとか物の価値観だとかを教えてもらったり、助言や励ましをもらったりもしているのだ。

「……そうですね」

 うなずいていて、何故だか急に悲しくなった。風船の空気が抜けるように、胸がしゅっと縮んでしまったようだった。

「それじゃ、こんなところで油売ってないで、ちゃんと働いたらどうなんだ」

「そう、ですね」

 お盆を手に、わたしは急ぎ足で取って返した。親父さんの目も気にせずに厨房の脇を通り抜け、店の奥の更衣室までたどり着くと、僅かに乱れた呼吸のなかに一度だけ溜息が混ざった。戻ってくる間にじんわりと滲んだ目元も、この場所にいると不思議と溢れることはなかった。

「あら、香苗ちゃん。なにしとん、こんなとこで」

「あ……」

 声のしたほうを振り返れば、手にビニール袋を提げた奥さんが呆気に取られたように立っていた。

「あんまり暇やからって、勝手に休憩はあかんで」

 それだけ言うと、くすくすと笑いながら、奥さんはすぐに更衣室を出ていった。ビニール袋の擦れる、かさかさした音を聞いて、夕方店内でぐったりしているときに、「ちょっと買い出し行ってくるわ」と言って出ていったのをわたしは思い出した。

 奥さんに深い詮索をされなかったことに安堵している自分がいた。あの場で根掘り葉掘り訊かれたら、きっとわたしは余計なことまで話してしまっただろう。鋭い奥さんはなにか察していたのかもしれないし、単に部屋が暗かったせいでわたしのことがよく見えなかっただけなのかもしれない。どちらにしろ、わたしは救われたような心地だった。

 店に戻ると、ちょうど厨房の前で守口さん夫妻が親父さんたちとなにやら話をしていた。四人の表情や雰囲気を見ているだけで、内容はそこはかとなく分かった。ここはわたしの出ていく幕ではない。それが肌で感じられて、わたしは邪魔をしないようそっと店内に戻り、いつものようにテーブルの拭き上げに勤しむ。なにも余計なことに囚われることがないためか、こうして掃除をしているときが最も気楽にいられる気がした。

「なあ、店員さん」

 不意に呼ばれて振り向くと、藤川さんが手招きしていた。「さっきは追いやっておいて、今度は軽々しく呼びつけるのか」と毒突きたくなりつつも、そこは店側の人間として堪える。

「はい」

 テーブルの上のジョッキは空で、皿の上の枝豆も皮ばかりになっているように見えたので、注文だろう、と思いメモをジーンズの尻ポケットから取り出して近寄ると、彼の口から出た言葉は「まあ座って」という予想外なものだった。

「あの、わたし仕事中なんですけど」

「さっきは自分から座ってたろう」

 精一杯皮肉を言ってやったつもりがこれまた皮肉で返されて、怒りよりも恥ずかしさでわたしは顔が熱くなった。耳を澄ませるとまだ四人の会話が聞こえていて、ひとまずわたしは椅子に深く腰掛けた。間髪を入れずに、正面から問いが飛んでくる。

「ちょっと訊きたいことがあるんだ」

「なんですか」

 自分でも意識しないうちに声が怪訝になる。さすがに初対面ではないものの、藤川さんはほかの常連と違って、話していても自分の顔に接客用の笑顔ですら浮かばない人だった。それが、わたしが彼に対して警戒心を抱いているからなのか、それとも信用していないからなのか、はたまた遠慮しているからなのか、自分でも理由はよく分からないけれど。

「店員さんは、女に生まれてよかったと思うか」

 わたしは反射的に「はあ」と訊き返した。問われたことについて考える以前に、どうしていまそんなことを尋ねるのか、と頭が錯乱している。互いに顔を知っている程度の間柄の人間にわざわざ訊くことではないだろう。

「どうしてそんなこと訊くんですか」

「ちょっと、参考までに」

 確かに特別答えづらい問いではない。けれど、この人には答えてやりたくない、という直感にも似たようなものが、わたしの変な自制心を働かせていた。わたしがそのまま沈黙を続けていると、藤川さんは意外にも文字通りあっさりと身を引いた。椅子の背もたれに大きく寄りかかり、「まあいいけど」力の抜けた笑みを見せた。

 妙に肩透かしをくらった気分だった。簡単に引き下がったことはもちろん、思いもよらぬところで笑顔が見られたことで、わたしの体の中に複雑な感情の渦巻きが生まれていた。わたしは藤川さんを心のどこかで毛嫌いしていたはずなのに、一瞬笑顔が見えたとき、既見感のようなものを感じたのと同時に、確かに心がざわめいた。

 ぼんやりしていたわたしを尻目に、藤川さんは早口で追加の注文をするものだから、わたしは焦ってメモを取り落としてしまった。

「すみません、もう一回お願いします」

 恐々見上げてみると、そこにはついさっきまであった笑みは消えていて、いつもの無愛想な無表情だけがあった。わたしは自分の愚かさにただただ嫌気が差した。

 面倒臭そうにしつつも注文を繰り返してくれる藤川さんの声を聞きながら、震える手で必死にメモを取る。聞き終わってから紙面を見ると、そこまで多い品数でもなかったけれど、メモに残していなければいまのわたしには覚えていられる自信がなかった。

 立ち上がって背を向ける。

 藤川さんの視線を、背中に感じた。


 昼間は三十度を超えている夏の暑い日でも夜は心持ち涼しくなるもので、たまに吹いてくる風は、汗ばんだ肌には嬉しい心地よさがあった。街道沿いの歩道を歩いていると、たまに通る車の排気ガスがそんな風に乗って吹き付けてくる。煙草と油の臭いにまみれている分、仕事帰りはいつも排気ガスの臭いですら新鮮に思えた。

 桜の花弁が散っていた歩道はすっかり見る影もなくなり、煙草の吸殻や投げ捨てられたゴミで汚れてしまっている。それを悲しいことだと思う自分がいるのに、決して自分の手で掃除する気にはなれず、またひどいことに頭のどこかで「誰かが綺麗にしてくれる」と呪文のように唱えている黒い自分もいた。

 誰ひとりとしてすれ違わないまま家の玄関前までたどり着く。時間が遅いこともあって当然といえば当然なのだけれど、やはり寂しさは否めない。

 鍵を開けて中に入ると、短い廊下の先にある居間からは光が漏れていた。

「ただいま」

 わたしを出迎えたのは、ほどよく冷えた空気と静寂だった。エアコンが比較的新しいものなので「音が静かでいい」と美鈴は言うものの、その静かさがいまでもわたしは無性に恐かった。

「あ、おかえり」

 居間にある全開にされた扉の奥に、パックで顔が骸骨みたいに白くなっている美鈴の姿があった。パックのされていない目元と口元だけがくり抜かれたように暗くなっていて、本当に骸骨に見えたことは心に秘めておくことにする。

 この家は居間にしかエアコンがないので、夏場は自分の部屋の扉を開けて居間から冷気を取り込むしかない。わたしも美鈴も、部屋が居間に面しているのがせめてもの救いだった。

 わたしは自室の扉を開けると、案の定、体にまとわりついてくるような生温い空気がどっと溢れ出してきた。窓を開けておきたいのはやまやまだけれど、犯罪が増加している昨今のことも考えると、二階とはいえそう簡単に開けたまま留守にすることもできない。セキュリティという言葉とは無縁の古びた集合住宅ゆえの悲しさだった。

 鞄を部屋に置いて、わたしがいつものように台所で麦茶を飲んでいると、パックで顔面骸骨の美鈴が、いつものように「あたしにも」と言いながらのそのそと部屋から出てきた。美鈴がいつも使うコップに注いで手渡すと、美鈴は食卓にしな垂れかかりながら器用にコップを傾けた。

「ねえ、美鈴」

 わたしが美鈴の向かいに腰掛けると、美鈴の白い顔のなかにあるふたつの瞳がぎょろりとわたしを捉えた。パックのおかげで、いつにも増して目元に迫力がある気がする。

「なに」

「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど」

 うなずきながらも、美鈴は大きく欠伸をした。眠いところを邪魔してまで訊くことではないような気もしたけれど、一旦言いかけたことを遠慮すると美鈴が機嫌を損ねるということは、これまで付き合ってきた間にわたし自身何度も経験しているので気にしないことにした。

 いまさっき麦茶を飲んでいたにもかかわらず、わたしの口のなかは厭な感じに乾いていた。

「美鈴は、女に生まれてよかったと思う?」

 わたしがそう言ったとき、一瞬確かに美鈴の目元が険の色を帯びた。けれど、まばたきをした次の瞬間にはもとの柔和な目元に戻っていた。

「またいきなり変なこと訊くのね」

「ごめん」

「別に怒ってるわけじゃないわ。香苗、いつもそんなこと口にしないから、ちょっとおかしくて」

 美鈴は小さく笑うと、「そうねえ」含み笑いのまま、しばらく口を尖らせながら考える素振りを見せた。細かい仕草がいちいち様になるのだから羨ましい限りだ。

「あたしは女に生まれてよかった、かな」

 はにかみながら頭を掻くと、美鈴は「まあ」とどこか自嘲気味に呟いて、

「女って、男と違ってなにかと面倒じゃない。こうやってわざわざ肌に気を遣わないといけないし、化粧だって、手間がかかるけどしないわけにはいかないでしょう。生理だってそう。あんなに邪魔なものはないわ」

 頬杖を突いて、後半は半ば吐き捨てるように言う。わたしも肌には気を遣っているつもりだけれど、美鈴みたいにパックなんて滅多にしないし、化粧だって美鈴ほど上手ではない。美鈴を比較対象にすると、いつだって劣等感しか残らなかった。

「でもまあ、女は女で楽しいこともあるし。あたしは女に生まれたことを後悔したことはないかな」

 そう爽やかに言い残し、美鈴は軽やかな足取りで自室へと戻っていった。

 わたしもあのとき、美鈴みたいにきっぱりと言えたらよかったのに。先程の居酒屋での光景が、ひとり残されたわたしの脳裏をよぎった。

 台所でコップを洗っていると、パックを取った美鈴が部屋からひらひらと歩いてきた。わたしの手元を見ると、慌てて近寄ってきて「ごめん」と申し訳なさそうに言った。

「いいって。コップがひとつ増えたところで、どうってことないし」

「そっか。ありがと」

 コップを水切り籠に入れて手を拭いていると、美鈴は冷蔵庫を開け閉めしてなにやら漁っているようだった。邪魔しないように後ろを通り抜けてソファに身を沈めると、一日の疲れと眠気がどっと押し寄せてきた。欲望に任せて目を閉じればすぐに眠れる自信がいまのわたしにはあったけれど、まだ化粧も落としていないし、シャワーだって浴びていない。

 ここで妥協をするから、だらしない女になってしまうのだ。こういうときこそ、しっかりとした美鈴を見習わなくてはいけない。

「――――」

 そのとき、いきなり冷たいものが頬に触れて、わたしはソファの上で飛び上がった。

「なにっ?」

「アイス、食べる?」

 見れば、目の前で意地悪い笑みを浮かべた美鈴が、棒アイスの袋をふたつ手にして腰をかがめている。そこでようやく、自分がうたた寝していたことにわたしは気付いた。

「……食べる」

「そんないじけないでよ。こんなところで可愛い寝顔を晒してるあんたが悪い」

「可愛くないです」

「はいはい」笑い飛ばしながら、美鈴はわたしの横に腰を下ろした。せめてもの抵抗にと、わたしはほんの少し美鈴から離れてみる。けれどそんなことはまったく気にした素振りも見せず、美鈴はアイスの袋を開けて子供みたいに舌を伸ばしていた。

 仕方なくわたしもアイスを口に運んでいると、美鈴はリモコンでテレビの電源を入れて、適当にチャンネルを回したあと、残念といった具合に電源を切った。

「最近面白い番組、やってないわね」

「そうかな」

「ドラマもバラエティも、どうもこうぱっとしないっていうかさ」

「わたしは好きだけどなあ。結構前、美鈴が見てたドラマあるでしょ。美鈴には不評だったやつ。あれ、次の週から見れるときは見てたけど、なかなか面白かったよ。この間終わっちゃったけど」

「ああ、あれね。あたし次の週から見てなかった。なんていうか、あたしなんでも第一印象で決めちゃうこと、多いじゃない。やっぱりそういうの悪いかなって思ってやめようとしたこともあるんだけど、でもなんていうか、こればっかりは根がしっかり生えちゃってるからか、変えようにも変えられないのよねえ」

 ソファにもたれながら、美鈴は指揮者が振るうタクトのようにアイスを弄んでいる。

「人間付き合いだってそう。第一印象が悪い人間とは、男女問わずそれ以上かかわりたくないのよね。一緒にいても不快感しかないし。大学とかバイトとかで、なんだかんだいってかかわらないといけないときもあるけど、そういうときは仕方なく我慢するしかないじゃない?」

 ふと、わたしの第一印象はどうだったのだろうと気になった。訊いてみたいのはやまやまだったけれど、あまり知りたくないような気もした。いまさら当時のことを知ったところで、どうこう変わるというものでもないだろう。

「ねえ、香苗」

「どうしたの」

 いきなり美鈴の雰囲気が変わって、わたしは軽く戸惑った。考えていたことが考えていたことだけに、声も少し上ずった。

「今週末、久しぶりに呑みに行かない?」

「あ、いいね。行こう行こう」

「バイトとか友達との予定とか、大丈夫?」

「土曜はバイトあるけど、日曜は休みもらってあるし、予定もないから」

「そっか。分かった」

 美鈴はアイスを平らげると、すっと立ち上がった。わたしはといえばまだ半分以上残っていて、おまけに端々が溶け出していたものだから、大急ぎで口に詰め込んだ。予想はしていたけれど、こめかみに内側から圧迫されるようなあの痛みが走る。

 苦痛に耐えながら顔を上げると、小馬鹿にしたように笑う美鈴の顔が視界の隅に映った。

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