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act.3

 地元の両親から電話があったのは翌日の夕方のことだ。

 その日も夕方からはいつものように居酒屋でアルバイトの予定だったけれど、美鈴のことが気がかりで、わたしは奥さんに無理を言って休みをもらった。

 ベッドに引き籠った美鈴はいつまで経っても出てくる気配すら見せず、たまに水分を摂るときに端から手を出す程度だ。大抵の時間、わたしは地蔵になったかのように傍らでじっとしていた。その間、わたしは布団の盛り上がりをぼんやりと眺めたり、それに飽きたら美鈴の部屋にある漫画を勝手に読んだりしていた。そうしているとき、不意にわたしの携帯が震えた。「間が悪いなあ」なんてひとりごちながら美鈴の部屋を出る。ディスプレイを見ると、実家の番号が表示されていた。

「……もしもし」

『もしもし香苗? ちゃんと生きてるんでしょうね』

 電話の向こうからは母親の声が聞こえてきた。久しぶりに聞く母親の声は相変わらずの早口で、聞くたび聞くたびやたらと苛立っているように聞こえる。自分ではそんなつもりはないと以前教えてくれたけれど、わたしにはどう聞いても苛立っているようにしか聞こえなかった。

「生きてますから。失礼な」

『最近なんの連絡も寄越さないから、お父さんとふたりで心配してたのよ』

「そっか。ごめんね」

『ごめんね、で済む話じゃないの。そもそも、一体いつになったらこっちに帰って来るつもりなの? お父さんが、せっかく就職先紹介してやるって言ってるのに』

 またその話か、とわたしは内心で溜息を吐いた。

「そんなことお母さんには関係ないでしょ。反対するお父さんを説得してこっちに行かせてくれたの、お母さんじゃない。それなのに、いまさら手のひら返して戻って来いだなんて、理不尽だとは思わないわけ」

『私は、香苗のことを思って言ってあげてるのよ? 確かに都会に行かせたのは私だけど、あのときは私もどうかしてたんだわ。人間なら、誰だって間違いを犯すことくらいあるじゃない』

「どうかしてたんだわって……」

 次第に自分の声が険しさを帯びていくのが、やけに冷静に感じられた。

『香苗にはいい経験になったでしょう。都会がどんなところか、もういい加減分かったんじゃない? 進学でそっちにいった赤城さんに、香苗は金魚の糞みたいについてっただけ。ただ単にね。やりたいことを見つけるため、だったっけ? そんなの、遊びに出ていったようなものよ』

「もういいよ」

 声が震える。携帯を押し当てる耳がじんじんと痛んだ。

『私もお父さんもあなたが心配なのよ。そっちでも、どうせどうでもいいような仕事に就いてるんでしょ? こっちでまともな仕事に就いたほうが、よっぽど待遇も環境もいいんだから』

 どうでもいいような仕事、と言われてかちんときた。左の頬が引きつり震える。携帯を投げ捨てたい衝動をどうにか堪えて「わたしは、そっちには帰らないから」平静を装うと、声は自然と低くなった。自分でもこんな声が出せるのか、とわたしは内心で驚いた。母親が電話の向こうで息を呑む雰囲気が伝わってきた。

 沈黙が降りる。

 美鈴が寝返りでも打ったのか、背中に衣擦れの音を聞きながら、わたしは「切るよ」と短く告げた。それから十秒経っても二十秒経っても返事はなく、無意識のうちにわたしは今日の夕飯はなにを作ろうかなどと考えていた。

「……じゃあね」

 思考を止めて、そっと通話終了のボタンを押した。表示されていた通話時間は、ものの五分足らずだった。

 携帯を握りしめたまま、ふらふらとソファに近寄り倒れ込む。ほんの少し電話していただけなのに、全身が長距離を走ったあとのようなひどい疲労感に襲われた。

 悲しげに鳴く烏の鳴き声が耳に流れ込んでくる。窓から射し込む夕日に照らされながら無機質な白い天井を見上げていると、少しずつ、本当に少しずつだけれど、昂っていた気持ちが落ち着いていく気がした。

「香苗、まさかまた親と喧嘩したの?」

 いきなり声をかけられて、びくりと背筋が震えた。足のほうから美鈴が近づく気配が漂ってくる。わたしはなぜかそのほうを見ることも、体を動かすこともできなかった。

「いつ、起きたの?」

「ついさっきだけど」

 美鈴の口調には「そんなことより質問に答えて」という無言の圧力が込められていた。わたしはあっさりとその圧力に負けて、「喧嘩なんて大したものじゃ、なかったけど」とそれはもうひどく言い訳じみた言いかたでわたしは言った。美鈴の吐き捨てる嘲笑にわたしは泣きそうになった。

「喧嘩じゃなかったとしても、香苗は親とそういうことができるだけいいじゃない」

 しかし美鈴の声は弱弱しく、またいまにも泣き出しそうなほどに潤んでいた。

「美鈴」

「……ごめん、なんでもない」

「そんなことよりさ、体のほうはもう平気?」

 自分でもあからさますぎる話の転換に嫌気が差した。一層美鈴の顔が見られなくなり、わたしは誰もいない虚空に視線を泳がせた。

「大丈夫、と言いたいところだけど、正直まだきつい。一昨日香苗と呑んだばかりだし、自分でもここまで呑むつもりはなかったんだけど」

「そっか」

 それ以上なにを言っても気休めにしかならない気がして、わたしは口を開けなかった。そのうち美鈴の足音が台所のほうへと向かっていった。冷蔵庫が開け閉めされる物音が聞こえたかと思うと、「お茶、もうなかったんだっけ」と不満そうな物言いが流れてきた。

「ごめん、沸かすの忘れてた」

 お茶がもうなくなりかけていたことに気付いたのは、昼食に昨日奥さんからもらった芋煮を食べていたときだった。新しく沸かすために茶葉と水を張った鍋を用意したことは覚えているのだけれど。

 起き上がって急ぎ足で台所へ向かうと、案の定コンロの上には水を張った鍋があり、その傍らには茶葉の袋を摘まんでゆらゆらと揺らしている美鈴が呆れ顔で立っていた。

「ここまでしておいて忘れるのって、逆にすごいよね」

 恥ずかしさで言葉も出ない。急いで火をつけようとして手を伸ばすも、「いいよ」と美鈴の手に遮られた。わたしは諦めてすごすごと後ずさった。

 冷蔵庫からアクエリアスのペットボトルを取り出すと、美鈴はコップになみなみと注いで、そしてそれを二息ほどで空にしてしまった。

「呑んだ次の日って、どうしてこうも喉が渇くのかしら」

「なんでだろうね」

 美鈴があまりに美味しそうに飲むものだから、わたしも無性に飲みたくなって、食器棚からコップを取り出して差し出すと、美鈴はさも面倒臭そうにしつつも、「しょうがないわねえ」と同じようになみなみと注いでくれた。

「あ、美味しい」

「あたしが注いであげたんだから、当然よ」

「なにそれ」

「注ぎかたが上手なのよ。こう、空気を含ませるように、勢いよく注ぐっていうか」身振り手振りで再演してくれるものの、美鈴はどこか冗談めいた笑いを浮かべていたので、適当に言っているのだということが容易に分かった。

 静かな室内にふたり分の笑い声が響く。大したことをしているわけではないけれど、こうして美鈴と一緒にぐだぐだと過ごしているときが、ほかのなによりも一番心安らぐ気がする。

「ねえ美鈴。昨日、なにかあったんじゃないの」

 いまなら訊ける。そんな身も蓋もない自信に駆られて、昨晩から気になっていたことをわたしは尋ねた。ところが美鈴は、笑顔をだんだんと乾いた無表情へと変えていき、なかなか答えようとはしてくれなかった。

「話したくないことなんだったら、無理に聞かせてくれなくてもいいけど」

 言ってしまってから、わたしははっとした。いくら同じ屋根の下で暮らす家族同然の人間でも、むやみに干渉するべきではない問題もあるのだ。そんなこと、とうの昔に分かっていたはずだったのに。自分の発言の図々しさに眩暈すら覚えた。

「ごめん」

 美鈴は顔を背けた。

 わたしと美鈴の間にあるたった一メートルほどの空間には、なにか重い壁のようなものが横たわっているように思えた。それはこれから先もきっと、そう簡単には崩すことも乗り越えることもできないのだろう。

「香苗。今日のことだけど、もしわたしのことが心配でバイト休んだんだとしたら、それは余計なお世話よ。こうして自分で立って歩けるし、食事だって自分で用意できるから。わたしのことは気にしないで行ってきて。いまからでも十分間に合うでしょう」

「え、でも」

「いいから」

 コップを握りしめる美鈴の指が、爪の先まで白くなっていることにわたしは気付いてしまった。

「……いまは、ひとりにして。お願い」

 もう選択肢は残されていなかった。黙ってうなずいて、美鈴の後ろを通り抜ける。

自室で着替えを済ませて戻ってくると、美鈴はまだ台所に立っていた。

「壁側のコンロに置いてある鍋。昨日もらってきた煮物が入ってるから、食べられたらでいいから食べてね」

 必死で笑顔を作ってみたものの、うまく口角が上がらなかった。

 玄関の戸を後ろ手に閉めたあと、それを契機になぜか涙がどっと溢れた。


 無理を言って休みをもらったにもかかわらず店に現れたわたしを見た奥さんは、いつもとなにひとつ変わらない上品な笑顔で出迎えてくれた。

「ほーら、もうすぐ店開けるで。急ぎ」

 逐一事情を尋ねてこないのがさすがというかなんというか、なにも喋っていないのにすべてを悟っているかのような余裕の佇まいは、わたしには奥さんと同じくらいの年になる何十年とあとでもきっとできないと思う。いつものように厨房で下準備に勤しんでいる親父さんも、低い声で「はやく準備してこい」とだけ言った。

 言われるがまま大急ぎで着替えを済ませて店に戻ると、ちょうど奥さんが暖簾を店の前に出して戻ってきたところだった。

「いろいろと、すみません」

「どうして香苗ちゃんが謝るん。私たちとしては、出勤してくれたことがなにより有り難いんやから。裏にどんな理由があるんかは、知らんけどね」

 小言を言われる覚悟はできていたのだけれど、奥さんの口から出てきた言葉は予想に反して温かいもので、店側としてはそういう捉え方をするのだなと考えを改めさせられた。確かに親父さん夫妻とわたしは雇い主と従業員の関係だ。奥さんがそう考えるのは雇い主として当然のことだろう。ただ、勘違いだとしても、いまはそれが奥さんと親父さんの優しさに思えて、わたしはぐっと下唇を噛んだ。

「それより、昨日のお芋、どうやった。味染みとった?」

「美味しかったですよ。まだ芯まで染み込んではなかったですけど、味はじゅうぶんついてましたし」

「そう。それはよかった。全然染み込んどらんかったらどうしようって、心配やってん」

 うふふ、と口元に手を当てて笑う奥さんを見ていると、わたしまで心地いい気分になってくる。ついさっきまで流していた涙も、少しも気兼ねなく笑い飛ばせるようになった気がした。

 ふたりで他愛もない話をしながら客席の拭き上げをしていると、耳障りな音を立てて戸が開き、今日最初の客がやってきた。

「いらっしゃいませ」奥さんとふたりで声を張り上げる。


 昨日とは打って変わって、静かでゆっくりとした時間が流れていく。

 昨日が昨日だっただけに、奥さんも親父さんも終始呆気に取られたように苦笑していた。

「いつも通りといえばいつも通りなんやけどねえ。ちょっと拍子抜けやなあ」

「まったくだ」

 厨房からは夫婦のそんな会話がちらほら聞こえてくる。わたしは客が帰っていったあとの後始末をしつつ店内を見渡すと、よく見かける常連のおじさんや、男女のカップルがちらほら見られた。混みすぎているわけでも、空きすぎているわけでもない丁度いい混み具合だ。これくらいがわたしは好きだった。暇を持て余すこともなく、過度な忙しさに追われることもない。

「おうい、香苗ちゃん。焼酎おかわり」

「はい。ちょっと待っててくださいね」

 常連のなかにはそうやって名前を呼んでくれる人もいて、最初は戸惑ったけれど次第に気にならなくなってきて、いまとなってはそんなアットホームな雰囲気がとても気に入っていた。

 厨房の奥さんに伝え、あっという間に用意されたグラスをお盆に載せ持っていく。へらへらと笑う顔を赤くした常連のおじさんに手渡し、空になった皿やグラスを受け取り厨房へと引き返す。なんてこともない単純作業だ。けれどそれゆえに余計なことを考えずに済むので、ひょっとしたらそれがこの仕事を好んで続けられている所以かもしれなかった。

 片付けも簡単な掃除もあらかた終わらせてしまうと、途端にすることがなくなってしまい、わたしは店内に置かれている小さなテレビに映るドラマに目を向け、奥さんの目を盗み盗み仕事をしているふりをしていた。親父さんは基本的になにも言ってこないのだけれど、奥さんは意外と厳しい。暇なときでもなにかしら動いていないと、笑顔のままできつく怒られる。

 ドラマがなかなかいい場面だったのだけれど、入り口の戸が開いたのでわたしはそこに目を向けた。暖簾を潜って入ってきたのはひとりの若い男性だった。着ている白いシャツはよれよれで、顎には無精髭、堀の深い目元には正面からわたしを見据えるぎらぎらとした瞳がある。疲れているのか、全身から気だるそうな雰囲気を醸し出していた。

「いらっしゃいませ。おひとり、ですか」

 男性は無言でうなずくと、そのままわたしの脇をすり抜けて、最初から狙っていたかのように店の隅にある席へと足早に向かっていった。なにか気に食わないことを言ってしまったのだろうかと不安に思いつつ、その姿を目で追っていると、厨房で奥さんと親父さんがなにやら小声で話し合っている姿が目に入った。

「どうかしたんですか」

 厨房に近寄って声をかけると、親父さんは背を向けて鍋を掻き混ぜ始め、奥さんは「いや、ねえ」眉根を寄せて言葉を濁した。

「香苗ちゃんも、昨日見たやんな。あの人、本当によう来てくれるんやけど」

「昨日……、ああ」

 脳裏に遅くまで居座っていた男性の姿が思い起こされた。

 奥さんの声音だとか表情だとかを見ていると、なんとなくではあるものの言いたいことが分かった気がした。奥さんも親父さんも、あの男性のことをよく思っていないようだ。理由まで詳しくは分からないけれど、わたしが感じたものと同じなのであれば、きっと間違いではないのだろう。あの男性には、普通の人間にはない、どこか浮世離れした違和感のようなものが感じられる。

「悪いけど、香苗ちゃん。注文訊いてきてくれへん?」

「はい、分かりました」

「ごめんね」

 謝られる理由がよく分からないまま、わたしはメモを手に男性のもとに向かった。

「いつもの」

 わたしが駆け寄ると、男性はぼそりと呟いた。

「……すみません。わたしまだその辺、詳しくなくて」

 ここで働き始めて約半年くらいになるけれど、わたしは未だに常連ひとりひとりの好み傾向を把握できていない。以前受けた「そんなもん、別に覚えてやらんでええよ」という奥さんの励ましも、励まされているというよりその裏で「それくらい覚えなさい」と拍車を掛けられているのではないかと気が気でならなかった。

 彼に恨めしい目で睨みつけられて怖気づきそうになる自分を、わたしは必死で奮い立たせる。それでもさすがに根負けして、一歩だけ後退ってしまった。やはり彼の目を正面から見つめるのはどことなく苦しい。彼は面倒臭そうにぼりぼりと頭を掻いた。

「生と枝豆だよ。ほら、さっさとしろ」

 わたしは半ば追い払われるようにして厨房へと戻った。その途中で、テーブルの角や椅子の足にあちこち体をぶつけた。痛さからか悔しさからか、涙腺が綻びそうになる。

「生と枝豆、入ります」

 声の震えをできるだけ隠して言うと、どこか思いつめた顔で出迎えてくれた奥さんは短い返事で応じた。どちらも用意にそう時間のかかる品物ではないため、厨房の前ででき上がるのを待ちつつ、そっと彼を窺ってみた。頬杖を突き、大きな口を開けて欠伸をしている。目測ではわたしよりも年上なのだろうと想像がついたけれど、彼の仕草というか言動というか、それともまとう空気だろうか、目には見えないどこかに幼さを感じさせた。

 奥さんたちが彼を遠ざける理由が、現段階ではわたしにはまだよく分からなかった。

 でき上がってきた品物を運び、再び厨房に戻ると、奥さんが顔を寄せてきた。

「最近はめっきり影を潜めてたんやけどねえ。昨日からまた急に再発、っていうと聞こえが悪いけど」

「どういうことですか」

 わたしはひとり身構えた。

「端折って言えば、問題客なの。彼」

「問題客、ですか」

「藤川さん、っていうらしいんやけどな、香苗ちゃん、知らんよなあ」

 頭のなかで「藤川藤川」と反芻してみたものの、藤川という苗字の知り合いは誰ひとりとして思い浮かばなかった。美鈴の好きな野球チームにそういう名前の野球選手がいたような、そんな気はするのだけれど。

「知らないです」

「……せやなあ」

 腕を組んで深く考え込む仕草をする奥さんと、そのすぐ傍で身を硬くして立っているわたし自身を、斜め上から俯瞰している光景がなぜか一瞬視界をよぎった。

 事実を知っても、わたしの頭は不思議と冷静だった。寛容で温厚なあの奥さんが理由はどうあれ一個人を毛嫌いしている、というもうひとつの事実を知って、わたしのなかにある奥さんの像が崩れていったせいかもしれない。

「酒癖が悪くてな、なんかあるとすぐほかのお客さんに突っかかって騒動を起こすから、ほんと困りもんやで。それでもお金はちゃんと払ってくれるし、根は悪い人じゃないんやろうけど」

「親父さんはどう思ってるんですか。彼のこと」

 顎に指を添えてしばらく思案顔をしたあと、奥さんは一瞬だけ厨房の奥でなにやら作業をしている親父さんのほうを振り返って、それからわたしの目は見ずに顔を伏せて「そうやな」低い声で搾り出すように呟いた。

「よくは思っとらんやろなあ」

 柄にもなくわざとらしく人を避ける夫婦の姿勢を見ていると、腹の底から沸々と湧き上がってくるものがあった。

「来る者は拒まず、去る者は追わず再来を促す。これがこの店の信条だって、奥さん、わたしがここで働き始めた頃、よく言ってくれましたよね」

 ばつが悪そうに顔を逸らしたまま、奥さんは和服の袖をきゅっと握っている。


 家に帰ると居間の電気が点いたままになっていて、恐る恐る覗き込めばソファの上でテレビを見ている美鈴の姿があった。膝を抱えて小さくなっていた美鈴は、わたしに気付くと「おかえり」と軽快な口調で迎えてくれた。表情や声音にいつもの雰囲気が戻ってきていて、ふっと息を吐くと身体の強張りが取れていくのをわたしは感じた。

「なに見てるの?」

「新しいドラマ」

「面白い?」

「どうだろう。キャストはやたらと豪華なんだけど、シナリオがありきたりすぎ」

「そっか」

 鞄を降ろし、台所で冷えた麦茶を渇いた喉に流し込むと、火照った身体が内側から冷やされて、疲れもどこかへ流れ去っていくように思えた。片付けをしようとしていたところに「あたしにもちょうだい」と声がかかったので、手を止めてコップに注ぎ、そうしていたらわたしもなんとなくもう一杯飲みたくなって、結局ふたつのコップを手にわたしは台所を出た。

「ありがと」

「どういたしまして」

 手渡すときに美鈴が場所を少し開けてくれたので、わたしは遠慮なく腰を下ろした。

 美鈴が見ているくらいだからそれなりに面白いのだろうと思い、しばらく一緒になって見てみるものの、途中からではいまいち話の筋が分からないし、感情移入もできない。

 どうも手持ち無沙汰になってしまい、わたしは麦茶を傾けながら、ドラマに見入っている美鈴の横顔を横目で覗き見る。疲れかストレスか、詳しいことは分からないけれど、頬が普段よりも幾分こけた印象を受けた。

「なに」

「なんでも」

 高校時代に知り合ってからこれまで、美鈴とは約六年間の付き合いだ。小学中学でも仲のいい友人はいたけれど、ここまで深く長く付き合ってきた親友と呼べる友人は、美鈴ただひとりだった。

 三年間同じクラスだった高校在学中は元より、卒業後はこうして同じ家で暮らしているのだから、美鈴のことはほぼ理解できているとわたしは信じていた。友人付き合いのことだとか、恋愛のことだとか、将来の夢のことだとか。でもそれは、ただの思い込みの幻想であり、わたしのエゴなのだと痛感した。

 ドラマがCMに入ったのを見計らって、わたしは頭を下げた。

「今日はごめん。わたしが、その、浅はかだった」

 言った途端、美鈴は吹き出しながら盛大にむせた。わたしは引っ張り上げられるように顔を上げると、笑いながらも苦しそうにむせる、涙目になった美鈴と目が合った。

「――ごめんごめん。ちょっと驚いただけだから、そんな怖い顔しないで」

「別に怖い顔なんか」

「分かった分かった。分かったから、落ち着いて」

 残っていた麦茶を流し込んでから、美鈴は自らを落ち着けるように一度深呼吸をした。わたしはコップを両手で包んだまま顔を伏せた。

「まったく、急に変な言葉遣いしないでよ」

「わたしなりに言葉選んだんだけど」

すると、美鈴は「まあまあ」と優しくわたしの肩を叩いた。

「あたしが言いたいのは、どうして香苗が謝るのってこと。なにも悪いことなんてしてないでしょう」

「したよ」

「そう。あたしはされた覚えがないけど」

 さっぱりとしつつも穏やかな声にはっとして見ると、美鈴は再開したドラマに目線を戻していた。美鈴としてはあまり納得のいく出来ではないドラマらしいけれど、その横顔はどことなく楽しんでいるように見えた。

これ以上邪魔するのも気が引けて、「お風呂、先もらうね」小声で言い残して静かに立ち上がる。ややあってから「どうぞ」という生返事が聞こえた。

 美鈴のほうが何枚も上手だ、とわたしは服を脱ぎながら思う。

 奥さんといい美鈴といい、どうもわたしの周りには器の大きい人が多い。

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