表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

act.2

 昼過ぎに美鈴が家を出るのと一緒に、わたしは思い出してシャワーを浴びた。お風呂には一日入らなかっただけなのに、もうずいぶんと入っていないような気がした。

 身も心もさっぱりすると、不意に現実味がぶり返してきてひとり憂鬱になる。

 いまでも、美鈴のように進学ではなく、就職の道を選んだことが間違いだとは思っていないけれど、もし進学をしていた場合はいまと違う現実があったのだろう、と思う。でもそれが、いまよりもいいものかどうかは分からない。

 去年の冬、高校を卒業してから勤めていた会社を辞めた。これといった明確な理由はなかったのだけれど、ある日突然、なんとなく就いた仕事にこれからの人生を捧げることはできないように思えて、そう思い始めると一気に仕事に対するモチベーションが上がらなくなり、次第に職場の雰囲気に溶け込めなくなり、そして辞めた。その当時は、あのとき進学しておけば、と後悔したこともあったけれど、やはり将来の目標がないまま大学に進学するのはお金も時間も無駄だろうというところに落ち着いて、そしていまのフリーター生活に至る。いくつかアルバイトをかけ持ちしていた時期もあったけれど、さすがに身が持たず、四月に入った頃に当初からお世話になっていた居酒屋一本に絞った。

 美鈴がいると若干狭く感じる部屋も、ひとりになると心なしか広く感じる。家にいるときは大抵共に過ごすダイニングルーム兼居間は現在、物寂しいだだっ広い空間だった。

 引っ越した当初に近所の家具屋さんで買った傷だらけの木製の食卓には、これまでわたしたちが生活してきたという雰囲気が、傷や染みとなっていたるところに残っている。窓際に置いた淡い水色のソファには、美鈴と並んで座って、どうでもいい話によく花を咲かせている。この部屋で暮らし始めるときに美鈴が実家から持ってきた小さなテレビは、いまはぽつんと立つわたしと部屋を暗く映していた。淡いクリーム色の可愛らしい壁紙も、テレビのなかではくすんだ灰色になっている。

 身支度を簡単に済ませて、わたしは見えない圧力に押し出されるようにして家を出た。


 五月も目前にすると街道沿いに並ぶ桜はもうほとんど散ってしまっていて、鮮やかな葉桜に変わりつつあった。薄闇のなか、住宅街の狭い路地を抜けて街道沿いの歩道を歩いていると、道に散った桜の花弁が歩道の脇にちらほらと落ちていた。行き交う車の喧騒を右から聞きながら、この鼻を突く排気ガスのなかで生きる桜の木はなんて健気なのだろうと感傷に浸っていると、西の空に濃い灰色の雲が浮かんでいるのが目に入った。風がほのかに湿っぽい。帰る頃には雨が降っているかもしれない。傘を持ってきていないことに不安を覚えつつ、ガソリンスタンドの角を曲がって再び路地へ。曲がってすぐの軒先にぽつんとぶら下がった赤ちょうちんが店の目印だ。

 建付の悪い木製の引き戸を開けると、相変わらずの耳障りな軋みがわたしを出迎えた。店先に出す前の赤い暖簾をくぐり、当然ながらまだ人気のない、がらんとした店内を抜けて店の奥に向かう。途中で覗いた厨房には、紺の和服姿の親父さんがいた。もうすぐ還暦だというのにとてもそうは見えない若々しい威勢と、見ている側の気も引き締まるような捻り鉢巻きが印象的だ。

「こんにちは」

 こちらに背を向けてなにかを煮込んでいる様子だった親父さんは、振り向きもせずに短く「おう」と、よく通る低い声で言った。

「なに作ってるんですか」

 甘いような香ばしいような、よく分からないけれどいい匂いが厨房に漂っていた。

「焼き鳥用の新しいタレや。同じもんばっかじゃ客も飽きるかと思ってな。まだ自信持って店に出せるほどじゃねえが、なかなかいい具合に仕上がってきとう」

 短く刈り上げた白髪が輝いて見えるほど、親父さんの頭や首筋には汗が浮かんでいる。鍋を掻き混ぜる手は止まることなく、ゆっくり、ゆっくりと、愛でるような手つきにわたしは息を呑んだ。親父さんの背丈はわたしと大差ないほど小柄なのに、その背中は遥か大きく、到底手の届かない場所にあるように思える。

「よかったら、味見てくれや」

「え、いいんですか」

「別に構いやしねえよ。店のモンにすら認めてもらえへんかったら、売りモンとして客に出せるわけがねえ」

 親父さんはのっそりと振り返ると、タレの入った小皿をわたしに無愛想に差し出した。滑りやすい厨房の床に気をつけながら近づいて、わたしはおずおずと小皿を受け取った。小指の先に少しだけ取って、恐る恐る口に含む。見た目がこってりした感じだったのでそれなりの味を予想していたのだけれど、思った以上にさっぱりしていて、後味がさらりとしていた。ほのかに柑橘系の香りがする。

「……美味しい」

 親父さんは一瞬驚いたように目を見開いてから、顔中に刻まれた皺をより一層深くして、にっと笑った。

「せやろう。隠し味に酢橘を入れてみたんやけどな、分かるか」

「あ、酢橘だったんですか。蜜柑みたいな柑橘系の香りがすごくよくて。飲み込んだあとにふっと鼻から抜けていくような感じとか、予想以上にさっぱりしてて」

 親父さんは腕を組んで満足げにうなずくと、再びわたしに背を向けて鍋に手をかけ始めた。わたしは洗い場に小皿を置いて、入ってきたときと同じようにそろそろと厨房を出た。

「失礼します」

 返事はなく、代わりに左手がゆらゆらと振られた。その手が下がるのを見届けてから、わたしは店の奥の狭い更衣室で着替えを済ませて、トイレで化粧を軽く直して店に戻ると、親父さんの奥さんと廊下でばったり出くわした。奥さんは親父さんと同じ紺の和服姿で、とても六十代とは思えぬ肌は相変わらず羨ましくなるほど艶やかだ。アップでまとめた黒髪はところどころに白髪が見られるけれど、それすらもいいアクセントになっている。主張しすぎない上品な薄化粧は見習いたい。

「こんにちは」

 会釈つきで挨拶すると、奥さんは歳を重ねた人特有の落ち着いた口調で「こんにちは」と言い、目をすっと弓にした。

 普段は目立っていないけれど、笑ったときに現れる目尻の皺が、奥さんの経てきた年月の長さを感じさせる。年を取ったらこういう女性になりたいとつくづく思う。無理に気張らず、そこにある生活のリズムに合わせた、無欲でゆったりとした生きかたの女性に。

「あ、そうそう香苗ちゃん」

 開店前の準備をするために客席に向かおうとすると、奥さんに襟首を掴むように呼び止められた。わたしが「なんですか」と尋ねると、奥さんは人懐っこい笑顔で近寄ってきた。

「昨日お芋を煮たで、今日また持って帰ってな」

 思春期の少女のような、純粋で瑞々しい視線を投げかけてくる。わたしは嬉しさで飛び跳ねそうになるのを堪えてぎこちなくうなずいた。奥さんの表情が更に華やぐ。

「二階の居間にあるから、いつもみたいに持って帰ってくれればええわ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 この居酒屋で働きはじめたばかりの頃、奥さんが作ったジャガイモの煮付けを味見させてもらったことがある。それが素直に美味しかったので、「美味しい、美味しい」と連呼していたら奥さんは時折作ってこうして分けてくれるようになったのだ。奥さんの煮付けは美鈴にも好評で、いまでは二人でわざわざ食べに来るほど、わたしも美鈴もすっかり虜になっている。

「じゃあ、帰りにまた、お願いします」

「ええ」

 奥さんは至極満足そうに厨房へと消えていった。しばらくして、なにか話し声が聞こえてきた。きっとあのタレのことだろう。奥さんはわたしなんかとは違って舌が肥えているから、きっともっと的確な意見を述べているに違いない。

 ふと夫婦の会話を盗み聞きしているような申し訳ない気になってきてしまって、わたしは急いでその場を離れた。いつものように客席のテーブルの拭き上げをしていると、いきなり遠慮なく引き戸が開いて、中年の男性客の顔が暖簾を捲って店内を覗き込んできた。

「まだ店開けないのかい」

 あまりに唐突だったので、肺が痙攣したかのように呼吸が一瞬止まった。できるだけ平静を装って、営業用の気持ち高い声で微笑みかける。

「ごめんなさい。もう少し待ってもらえますか」

 すると顔が暖簾から引っ込んで、「もう少し待ってくれだと」と仲間らしき人に言う、子どもみたいに弾んだ声が聞こえた。あまり間を開けずに再び顔が覗きこんできて、「俺たち外で待ってるから、準備できたら呼んでくれよ」歯を剥いた笑みで言い残し、戸は勢いよく閉められた。

 どうしてそこまでせっかちなのだろう、と思うと自然と溜息が漏れた。いつまでも待たせているのも悪いので、大急ぎで拭き上げを終わらせ、厨房の親父さんと奥さんに店を開けてもいいかどうか指示を扇ぐ。

「……まったく、物好きな奴らやなあ」

 親父さんは誰が来たのかを把握しているようで、鬱陶しさと嬉しさを足して二で割ったような苦笑を浮かべつつ、「入れてやれ」とわたしに向かって持っていた箸で追いやるような仕草をした。

「あなた。人に箸を向けるなって、何度言えば分かるん。いい加減歳なんやから」

 厨房の奥のほうでなにか別の作業をしていた奥さんが鋭い声を投げかける。親父さんは小さくなって、黙って肩をすぼめた。

 いい夫婦だなあと微笑ましく思いながら暖簾を表に出すと、脇でなにやら話をしていた先程の男性を含むサラリーマン風の男性三人組が気付き、飢えたライオンのようにゆったりと、しかししっかりとした足取りで暖簾をくぐっていった。

 相変わらず路地に人通りはなく、そう離れているわけではないのに遠くに見える街道を車が何台も走り抜けていく。隔離でもされたかのように、路地には不思議と車の喧騒が届いてこない。

 見上げた空はいつの間にか吸い込まれそうなほどに深い黒になっていて、空気はじっとりと体にまとわりついてくるような湿り気を帯びている。

 雨の匂いがした。


 夜も更けるにつれて、店内にいつもの活気が満ちてくる。

 カウンター席は常連の指定席、というのがこの店では暗黙の了解になっていて、その他の客は座敷かテーブル席に通される。座敷を好む常連もいないこともないけれど、ほとんどの常連はカウンター席で親父さんや奥さんと世間話に花を咲かせながら杯を酌み交わしている。そこにはもう「店と客」という関係ではなく、「家族」という関係に近いものがある。だからかといって、一見客には過度に冷たい態度というわけではない。違いがあるとすれば、互いをよく知らないために多少なりともぎこちなさが生じてしまうということくらいだ。接客態度に卑賤はない。

「香苗ちゃん。一番のお座敷にこれとこれ、あとこれも、お願いね」

「はい、分かりました」

 わたしの仕事内容としては客の注文を聞いて回って品物を運ぶ程度のことなのだけれど、単純に見えてこれが意外と大変だったりする。狭い店内にはテーブル席と座敷、カウンター席も合わせると結構な席数がひしめいていて、カウンター席は厨房から直接手渡しできるからよしとしても、当然ながら残りのテーブル席と座敷には直接運ばないといけないため、注文が一度に殺到すると頭では把握しきれなくなるのだ。もちろん紙に記すようにはするものの、そこにはある種の理屈ではないものがある。

 湯気を上げるいくつもの美味しそうな料理が載ったお盆を厨房にいる奥さんから受け取り、座敷に向かおうと向き直る頃には次の注文の品物が続々とでき上がってくるのが視界の隅に見えて、毎度のことながら軽く鬱になりそうになった。

「お待たせしました。だし巻き卵と揚げだし豆腐、あと山芋の鉄板焼きです」

 会社帰りの飲み会だろうか。座敷では十人前後のスーツ姿の男女が騒いでいた。一番通路に近いところに座っていた、まだスーツを着慣れていない感じの若い男の子にそっとお盆を手渡すと「ありがとうございます」と遠慮がちに言われ、わたしが思うのもおかしいけれど、初々しさに自然と顔が綻ぶ。おそらく年はわたしよりもひとつふたつ上といったところだろう。ただ少し伸びた髪がその印象を幼く、大人しいものにしていた。空になったジョッキやお皿を受け取って、厨房まで急ぎ足で引き返す。その途中で更にいくつもの注文を受け、頭のなかはもう崩壊寸前だった。

 日付も変わる頃。閉店間近になって、ようやく客足が引いてきた。

 何度厨房と客席を往復したことだろうか。想像もつかない。注文を受けていれば他の客から注文の声が挙がるし、品物を一度に運ぶ量もいつもは片手に一皿ずつの二皿で十分なのに、何皿もお盆にまとめて載せて持っていかなければ追いつかないほどだ。普段から汗かきの親父さんは風呂上がりかと勘違いするほど汗にまみれ、奥さんも穏やかな笑みの節々に濃い疲労の色が見える。いつもは常連がほとんどで、止まってしまったのではないかと思うほどゆったりとした時間が流れるのに、今日に限っては嵐のように激しく、あっという間に流れていった。

「お疲れさん」

 ふうと吐息しながら奥さんがお冷をくれた。汗ばんだ肌にガラスのコップのひんやりとした肌触りがとても心地いい。

「久しぶりに忙しかったですね。いつにも増して、お客さんの出入りが激しかったというか」

「そうやねえ。おしゃべりしてる暇がなかったもんねえ」

 店内にお客の姿はまばらだ。注文の波も衰え、複数客のところは食後の談笑に入っている。わたしは奥さんと一緒にカウンター席の隅に腰掛けていた。営業中はこうして休むのはご法度なのだけれど、今日ばかりは奥さんからもやむを得ないという無言の了解があった。厨房を覗くとむっとする熱気が目に見えるようで、そのなかで親父さんは汗を流しながらひとり黙々と鍋やら皿やらの後始末をしていた。

「あなた。片付けは私があとでするから。洗い場にそのまま置いといて」

 奥さんの声にいつもの張りがない。当然だろう。厨房で親父さんの手伝いをしたり、自ら料理を客席まで運んだり、加えてお愛想まで。労働量が本当に洒落にならない。わたしですら足腰が枷をつけられたかのように重いのに、その倍は動いていたはずの奥さんは確かに疲れが見えるものの、まだどうにか平気そうな印象を受けた。マラソン選手の持久力と一般人のそれとでは大きな差があるように、奥さんはこの仕事を長く続けている分、わたしと違って疲れかたも違ってくるのだろうか。

「なんていうか、さすがですね」

「どうしたん、いきなり」

 奥さんは可愛らしく小首を傾げて、口元を隠しながら上品に微笑んだ。厨房から親父さんの太くて逞しい、そして毛深い腕がぬっと伸びてきて、わたしと奥さんの前に白いおしぼりを置いた。奥さんと二人で声を揃えて「ありがとう」と言うと、親父さんはふて腐れたように黙って背を向けて厨房の奥へと帰っていった。

「恥ずかしがり屋やからなあ、あの人」

「知ってます」

 女二人でくすくす笑っていると、厨房の奥から「お前ら仕事せぇや」という怒声が飛んできた。ただ、怒声は怒声でもどこか微笑ましくなるような怒声だったので、わたしたちはおしぼりで声を殺して笑いあった。ひんやりとしたおしぼりの冷たさが火照った身体の内側にまで浸透してくるようで、わたしはしばらく頬や額におしぼりを押し当てたままじっとしていると、奥さんが心配そうに力を抜いた表情で覗き込んできた。

「気持ちは分かるけど、そんなことしてるとお化粧取れてまうで」

 同じ女性としての気遣いは、やはり的確で鋭い。おしぼりを少し下にずらして窺えば奥さんの化粧も数時間の奮闘のお陰ですっかり浮いてしまっていた。でもそれをわたしみたいに拭わないのは、彼女なりのプライドなのだろうか。

「いいんです。もう何時間も前に諦めてたので。あそこまで忙しくなると、途中から化粧のことなんてどうでもよくなっちゃって」

「でも、やっぱり若いってええなあ。もうこの歳になると、化粧してるときとしてないときじゃ、まるで別人やし」

「そんなことないですよ。わたしだって化粧してないときは別人ですから」

「香苗ちゃんはまだまだ若いやん。二十一やんな? 化粧なんてせんでも男は振り向いてくるんちゃう」

「そんな無茶苦茶な……。わたし、十代の間はちょっと出かけるくらいならすっぴんでも気にならなかったんですけど、二十歳超えてから急に肌に自信がなくなってきちゃったんですよね。艶というか張りというか、いろいろなものがだんだん失われていくのが、目に見えて分かるようになってきた気がして」

 十代に戻りたいなんて、当の十代の頃はまったく思いもしなかったのに、いざ二十歳を超えてみるとその気持ちがよく分かる。明確にこれといえるものは思い浮かばないのだけれど、夜更かしがあまりできなくなったり、なにかあるたびに肌へとダメージが来るようになったり、そういう点では十代の頃が懐かしくもあり、羨ましくもある。

「そんなこと言っとったら、私はどうなるん。香苗ちゃんの倍以上生きとんのに」

 奥さんは寂しげに肩を落とし、遠くを見るように目を細めて厨房のほうを眺めながら、手にしたおしぼりを所在なさそうに弄んでいる。完全に言葉を選び間違えた。いまさら言い直したところで、奥さんには追い討ちにしかならない。もともと大らかな人だけれど、奥さんも女性なのだ。

「……ごめんなさい」

「どうして香苗ちゃんが縮こまるん。もしかして私が傷ついたとでも思ったん?」

 恐々見上げると、そこにはいつものにこやかな奥さんの顔があった。化粧が浮いていても、髪の毛が若干崩れていても、そこには働く女性の鏡みたいに輝く奥さんがいた。

「だてに六十年近く生きてへん。そんなちっぽけなことで頭にきとうようじゃ、こんな商売続けてられへんよ」

「そう、ですよね」

「昔、どうしようもない飲んだくれによう言われたわ。もっと若い美人を出せー、って」

「その飲んだくれは、一体どこを見てるんでしょうね」

「やろう? こんな美人がお酌してあげとうのにねえ」

 ひとりで心配していた自分が、愚かで惨めに思えた。わたしの心ない失言も笑い話に変えられるほど、奥さんの器の大きさは並大抵のものではない。それは重々承知していたつもりだったのだけれど。

「ほら。お化粧、落とすんならちゃんと落としてき。直すなら直せばええし。もう忙しくならへんやろうから、いまのうちにな。今回は許すけど、次はないで」

 おしぼりの表面には化粧の残骸が迷彩柄のようになってへばりついていて、わたしは自分の顔の惨状を想像したところ、流れる音が聞こえそうなほど勢いよく頭から血の気が引いていくのが分かった。

「すみません」

「いってらっしゃい」

 わたしは返事をしながら席を立って、足早に更衣室へと向かった。鞄のなかから化粧道具の入ったポーチを引っ張り出して、すぐに引き返す。更衣室で直せれば一番いいのだけれど、部屋自体が薄暗く、置いてある鏡は小さくて役に立たない。誰にも顔を見られないように化粧室に駆け込み、ふうと息を吐く。目の前の鏡にはわたしの上半身が丸々映っている。ひどい顔だった。特に目元。マスカラやシャドーが混ざり合い、滲んでいて、できの悪いパンダみたいな顔になっている。店内を駆け回っていたときから既に、汗を拭うたびに若干黒いものが混ざっていたのをふと思い出して、わたしは軽く眩暈を覚えた。

「そこまで厚化粧したつもりはないんだけどなあ……」

 そんなことをひとりでぶつぶつ言いながら、ひどい目元から重点的に落としていく。瞬く間にまっさらになった自分の顔を見て、さすがに眉が根元しかないのは居たたまらなくて急いで書き足した。それ以外はもう仕方ないので「自分はまだ若いのだ」と自分に催眠をかけて目をつむることにする。

「戻りました」

 化粧を落としたことで、肌に触れる空気が幾分冷たくなった気がする。奥さんは立ち上がってテーブルの拭き上げをしていた。さすがに客の姿はもうほとんど見られない。

「わたしがしますよ」

 声をかけると、奥さんはゆったりとした動作で顔を上げた。わたしの顔を見るなり、その表情がぱっと華やいだ。

「綺麗やん、香苗ちゃん」

「……いきなりなにを言い出すんですか」

 布巾を受け取る際に面と向かって言われ、わたしは火照る顔を隠して拭き上げを始めた。奥さんが立ち去らずに傍で立っているものだから、わたしはなぜだか緊張して、テーブルの端にある爪楊枝立てをつい落としてしまった。プラスチックの容器が硬い音を立てて床に跳ねて、なかにつまっていた爪楊枝が辺りに散らばった。

「相変わらず、分かりやすいなあ」

 わたしが固まっていると、奥さんは「しょうがないなあ」と苦笑しながら床の爪楊枝を拾い始めた。黙々と拾う奥さんの背中を眺めていたわたしは、しばらくしてからようやく我に返った。

「ごめんなさい」

 奥さんの横にしゃがんで爪楊枝を拾う。こうして肩を並べると、奥さんがひどく小さく感じられた。いや、実際小さかった。爪楊枝をひとつひとつ丁寧に拾う指先は、わたしの手よりもずっと小さく、小枝みたいに華奢だ。

「もっと自信持ってええ。香苗ちゃんは、自分が思っとうよりも綺麗や。周りにどんな美人のお友達がおるんか知らへんけど、謙遜はせんでええ」

 子どもを諭す母親のような、穏やかで包容力のある奥さんの言葉に、しかしわたしはなにも言えなかった。曖昧にうなずいて、ひたすら爪楊枝を拾い続けることしかできなかった。

 ふたりで拾い集めるとそう時間はかからず、散乱していた爪楊枝は案外すぐに集まった。

「謙遜じゃないんです。自分でも、自信を持つっていうことがよく分からなくて」

 見れば奥さんは柔和な笑みを浮かべていた。「ちょうだい」と言われて、わたしは自分が拾った爪楊枝を奥さんに手渡す。

「大丈夫。そのうち気付くで。自分自身の魅力に」

「そうでしょうか」

「ええ」

 そう言うと、奥さんは踵を返して、どこか楽しげな足取りで厨房のほうへと向かっていった。客席にひとり残されたわたしは、ひとまず手を洗ってからテーブルの拭き上げを再開した。

 自分に魅力があるなんて、いままで一度も思ったこともなかった。これといった特徴や長所なんてなにひとつ思い浮かばないし、派手か地味かと問われれば確実に地味な部類に入る。高校時代は親しくしていた美鈴と並んで歩けるよう、自分なりに努力して身なりを取り繕ってみたり、口調も流行っている言葉を使ったりしてみたりしたものだけれど、所詮付け焼刃の所業だった。卒業後は結局元の鞘に収まって、こうして地味に暮らしている。無理をして自分を良く見せるのは疲れるだけだ、と高校生だった当時のわたしは身をもって痛感した。

 わたしは、この布巾のように真っ白だ。ほかの色で染めようとすれば簡単に染まってしまうけれど、ひとたび洗い流せばまた白さを取り戻す。ひょっとしたら無色のほうが正しいのかもしれない。きっと美鈴なら、自分の色をちゃんと理解していることだろう。わたしとは違って自分に自信を持っているように見えるし、自分を綺麗に飾ることを自然に楽しんでいる。このあと帰ったら、一度訊いてみてもいいかもしれない。

「――香苗ちゃん、お愛想したって」

「あ、はい」

 どこからともなく奥さんの声が聞こえてきた。おそらく厨房だろう。

 レジのほうを見れば、座敷に陣取っていた、あの会社帰りの団体客が賑やかに談笑しながら待っていた。レジのもとに急ぎながら、なんとなくあの若い男の子を捜すと、彼は困ったような顔をした先輩らしき男性に支えられるようにして、辛うじて立っていた。どうやら泥酔しているらしい。ネクタイはだらしなく緩められ、白いワイシャツは見る影もなくしわくちゃになっている。

 真っ赤な顔をした初老の男性から代金を受け取って、お釣りを返す。一瞬触れた男性の掌は異常なほど熱く、汗かなにかでひどく湿っていた。初老の男性は代表らしく、先頭になって皆をまとめると、わたしに向かって「いい店だったよ」にんまりと笑いながら手を振った。全員が店を出ると店内が急に静かになった。

 のろのろと客席に戻り、先程の団体客がいた座敷を見ると、ちょうど奥さんが片付けをし始めたところだった。

「これまた派手に呑み散らかして……」

 近寄ってみると、机の上はひどい有様だった。一昨日に美鈴とふたりで呑んだときのテーブルの散らかりようなどまるで比べものにならない。机自体が皿であるかのような状態で、残った食べ物やお酒が入り乱れていて、これはある種の惨劇だった。

「黙って片付けや。これも私たちの仕事のうち」

 奥さんの声は冷淡だった。わたしは呆気に取られてしばらくなにもできないでいると、ふと視界の端になにかが目に入った。座敷の隅に、スーツの上着が無造作に落ちていた。なんの根拠もなかったけれど、わたしは自分でも驚くほど素早く持ち主が誰であるかの見当がついた。

「さっきの若い男の子……」

 本当は支えていた先輩が持っていたのかもしれない。上着を着ていない人は他にもいたのだから、その誰かのものという可能性も大いにある。けれど、わたしの頭のなかでは既に、その上着は若い男の子のものと決め付けられていた。

「わたしちょっと、忘れ物届けてきます。まだそう遠くには行ってないと思うので」

 なんの前触れもなく言ったためか、奥さんは目を丸くしてぽかんとしていた。

「あ、ああ。持ってったって」

 畳んだ上着を小脇に抱えて店を飛び出す。

 湿った空気のなかを大急ぎで走り、街道に出ると、先程の団体客がちょうど解散したところらしく、散り散りに帰っていくところだった。タクシーを拾う人やバス停で待つ人、二次会に向けて張り切っている人たち。思いのほか、一向に若い男の子が見つからない。もう帰ってしまったのだろうか。

 とりあえず一番近くで楽しそうに話していた二人組の男女に、上着が忘れられていたということを伝え手渡すと、受け取ってくれた男性はにこやかだったけれど、女性のほうは眉をひそめて露骨に嫌そうな顔をした。わたしは女性のほうをあまり見ないようにして会釈した。

「わざわざありがとう。心当たりあるから、そいつに渡しとくよ」

「はい。失礼しました」

 ここで余計な話をするのは、さすがに野暮というものだ。わたしは足早にその場を離れた。女性の憎しみの篭った視線が、いつまでも背中に突き刺さっているような気がして、わたしは店に戻るまで振り返ることができなかった。いい雰囲気だったのに邪魔をしてしまったのだろう。男性のほうは特に気にした様子もなかったけれど、女性のほうはあからさますぎだ。折角いい雰囲気だったのによくも邪魔してくれたわね、と傍に吹き出しがあるかのようだった。自分も女だというのに、つくづく女という生物の怖さを思い知る。

 店の前に掲げた暖簾を持って店に入ると、レジに奥さんが立っていた。その表情は無表情に近いものの、どこか落ち着かないといった様子。疲弊しているのとはまた違った感じだ。

「持ち主、見つかった?」

「本人は見つからなかったんですけど、仲間の人に預けてきました」

「そう。そんなら安心やね」

「はい」

 戸の裏側、つまり店内側に暖簾を掲げて、戸に鍵をかける。この戸の鍵は古いもので、細い棒状の金具を、戸と戸が重なったところにある穴に差し込む。正直これだけで防犯になるのだろうかと不安になるけれど、レトロな店の雰囲気には合っていた。

「ごめん、香苗ちゃん。まだ鍵はかけんでええ」

「え、どうしてですか」

 疑問に思いながらも鍵をはずし、振り返ると、奥さんが店の奥を見るようにと目線で訴えてきた。見れば隅の二人掛けの小さなテーブルに、ひとりの男性がまだ居座っている。

「まだ帰らないんですか、あの人。もう営業時間終わるっていうのに」

「香苗ちゃん、あの人のこと知らなんだっけ」

「はい。……ひょっとして、あの人も常連ですか。空間に馴染んでいるというか店に慣れているというか、そんなふうに見えますけど」

「そうやねえ。結構頻繁に来るから、一応、彼も常連になるんやろうか」

 ふたりでそんなことをぼそぼそ話していると、男性がこちらをじろりと睨みつけてきた。ひどく酔っているのか、眼差しは虚ろで、その瞳には暗く儚い炎が浮かんでいるようだった。わたしは堪らず視線を外した。視線を交わしているだけで生気が吸い取られてしまうような、そんな気がして。

 奥さんも困ったように顔を伏せていた。わたしは奥さんの言った「一応」という言葉がやけに耳に引っ掛かって、いつまでも腑に落ちない感じで満たされていた。


「今日はもう帰ってええよ」と奥さんに言われ、ひどく疲れていたせいもあって、わたしは大人しく帰り支度を済ませた。日付が変わってから、もう少しで一時間が経とうとしている。

 四畳半程度の更衣室には小さな白いテーブルと荷物を置くための棚、ほとんど使われていない古いテレビがある。それらを押し込めているせいもあって、四畳半は実質半分の二畳ほどの広さしかなかった。

 わたしはぼうっと椅子に座っていると、部屋の静けさと薄暗さのお陰で、いつの間にか船を漕いでは椅子から落ちそうになって目を覚まし、落ちそうになっては目を覚まし、ということを繰り返していた。

「……ああ。寝るなわたし、寝るなわたし」

 などと呪文を唱えるように自らに言い聞かせ、頬をぺちぺちと叩く。仕事が終わったあとにここまで眠くなったのは、ここで働き始めたばかりの頃以来だった。

 わたしが初めてこの居酒屋を訪れたのは美鈴と二人で呑みに来たときだ。お互い二十歳を迎えたということでお祝いでもしようということになり、最寄りの居酒屋だったこの店に、怖いもの見たさの好奇心のようなもので入ったのだった。そのときに感じた店の温かい雰囲気や、当時はまだよく知らなかった、親父さんや奥さんの温かさ。それに惹かれて、わたしは好きな人に告白するときと同じような緊張を抱きながら、ここで働きたいのだと申し出た。いまでもどうして雇ってくれたのか、理由は分からない。もともと夫婦二人で経営していて、アルバイトは募集していなかったみたいなのだけれど。

 働き始めを思い返すと、素直に楽しいと思う反面、素直に疲れるという面もあった。それも要領を覚えていくうちにだんだんと力みも抜けて、無駄に疲れることはなくなっていった。

 そっと窺うようにドアが開けられて、奥さんの顔が覗き込んできた。

「お待たせ、香苗ちゃん」

 わたしの姿を見つけて、奥さんの顔が緩やかに綻んだ。やはりどことなく、疲れが見える。

「お芋、いま持ってくるで、少し待っとってな」

「あ、待ってください。わたしも行きます」

 奥さんの様子があまりにも疲れきっているように見えたので、わたしは焦って立ち上がった。鍋なんて重いものを持たせたら倒れてしまうのではないかなど、余計な心配かもしれないけれど。

 奥さんは一瞬目を見張って、しかしすぐに口元に手を当ててくすっと笑った。

「大丈夫や。鍋のひとつも運べんほど老いぼれてへんよ」

「そう、ですか」

 立ち上がったものの、奥さんにそう言われてどうしようもなくなってしまい、わたしは大人しく椅子に戻った。奥さんは再びくすりと笑うと、手をひらひらと振りながら出て行った。古い家だからだろう。階段を上っていく奥さんの足音が、この部屋までよく響く。

 一分も待たないうちに奥さんは戻ってきた。まったくもって要らぬ心配だったようだ。

「煮込み始めてからまだ日が浅いでな、ちゃんと味が染みとうかどうか怪しいけど。もし薄かったら、もう一日くらい置いとくとちゃんと染みるやろうから」

 テーブルの上に置かれたいつもの使い古された小鍋からは、醤油の香ばしい香りが微かに漂ってきている。蓋を開けてひとつ摘みたい衝動を堪えつつ、わたしはうなずいた。

「香苗ちゃんらが食べてくれるから、私としても作り甲斐があるってもんや。まあ、香苗ちゃんらが食べてくれへんかったら、そもそも作る機会もないんやけどなあ」

「親父さん、これ嫌いなんでしたっけ」

 向かい側に腰を下ろした奥さんは、頬杖を突いて鍋に視線を落としながら、どこか不満そうに言った。

「せやねん。甘い芋なんて芋やない、なんて言って食べてくれへん。あの歳にもなって、食わず嫌いもいいところやで。ほんま」

 奥さんは心底困ったように眉尻を下げた。「変なところで子どもやから」呟いて漏れた溜息には、苦笑の色が感じ取れた。

「わたしは、好きですよ」

 醤油ベースの甘い出汁で煮込まれたこの里芋は、ご飯のおかずにもお酒の肴にも、一品料理にもなる万能な料理だ。癖がなく、後味もさっぱりしていて、非常に食べやすい。こんなに美味しいものを嫌う親父さんの気持ちは、わたしにはよく分からなかった。

「ありがとう。いっつも食べてくれて」

 奥さんから面と向かってお礼を言われたのはこれが初めてで、わたしは顔がかっと熱くなるのを感じた。

「わたしは、ただご馳走になってるだけですよ」

「そんなこと言わんとって。自分の作った料理を食べてくれた人に美味しいって言ってもらうんが、私にとってはなにより幸せや。……やからって、別にいまそう言えって強制しとるわけやないで」

 料理を作ること自体に幸せを感じる人もいれば、作ったものを誰かに食べてもらうことで幸せを感じる人もいる。どちらかといえばわたしは前者だ。自分の作ったものに自信がないと、食べてもらったときに幸せを感じることはできないように思える。わたしは美味しさ云々よりも、作るという過程そのものが好きだった。食材の下準備から、味付け、果ては盛り付けまで、味に自信はなくとも自分なりに努力した結果、でき上がった料理がお皿の上に現れるとこの上ない達成感に満たされる。

「そういえば、香苗ちゃん」

「なんですか」

「今日って傘、持ってきとう?」

「いや、持ってきてないですけど」

「雨降っとうから、うちの傘貸したるわ」

「え、あ、はい。すみません」

 言われてからよく耳を澄ませてみると、屋根を打つ雨音が微かに聞こえるような気がした。

「女の子ひとりで夜道出歩かせんのは、本当にいつも心配なんやけどなあ」

「大丈夫ですよ。この辺は人通り少ないですし、車に気を付けてさえいれば」

 奥さんは額を押さえながら溜息を吐いた。

「人気が少ないから、万一襲われたときに誰も気がついてくれへんのやで? そういう輩とって人気が少ないってことは、絶好の状況やと思わん?」

「そうか。言われてみれば、そうかもしれないですね」

「……呆れるくらい呑気やんな。心配して損したわ」

 いままで考えたことがなかったけれど、確かに危ない状況なのかもしれない。ただそれも疲れがあったせいか、あまり深刻に受け止めることはなかった。

 奥さんに見送られて軒先に出ると、外は本当に雨が降っていた。土砂降りというわけでも小雨というわけでもない、けれど打たれていればすぐにびしょ濡れになってしまうだろうと思われる雨脚だった。

「お鍋、落とさんようにな。傘差しながらやと不安定やろ」

「大丈夫です。これでも手先は器用なほうなんですよ」

 奥さんは声を上げて笑った。「そうかい」含み笑いで言い、「ちょっと前までよくお皿を割ったり料理をひっくり返したりしてたんは、一体誰やったろうか」

「あれはその、自分でも反省して……。だから最近はそんなことしてないじゃないですか」

「香苗ちゃんが、自分なりに努力しとうことくらい、分かっとう分かっとう」

 小首を傾げてこちらを見据えてくる奥さんの目には、どこか子どもっぽく悪戯めいた怪しい光が見えた。そんな目に見つめられていると、反論しようとする意欲が不思議なことに蓋をされたかのように湧いてこない。

「それじゃ、帰ります」と口にしようとしたとき、いきなり店の奥から怒声が轟いた。奥さんはなぜか悲しそうな顔をして一度だけ店内を振り返って、ふうと短く息を吐いた。

「気にせんでええ。さ、今日はもう遅いから早く帰り」

 その語気には有無を言わせない力強さがあり、わたしは黙って歩き出すしかなかった。


 家に着く頃には膝から下がぐっしょり濡れてしまっていた。大した雨ではないと高をくくっていたらこのざまだ。スニーカーなんか履いて行くんじゃなかった、といまさら後悔した。

 ドアの取っ手に手を掛けると、わたしはその異変に気付いた。鍵が開いていたのだ。

「おかしいな」

 わたしも美鈴も鍵を持っているので、常日頃、先に帰っていても防犯のために鍵は掛けるようにしている。出かけるときに掛け忘れたのかもしれないと思うと、疲れでぼんやりと熱を持っていた頭も瞬く間に血の気が引いて冷め切っていき、その代わりに動悸が狂ったように早まりだした。震える手で再び取っ手を掴み、ぐっと押し下げる。

「……なんだ」

 狭い玄関に脱ぎ捨てられていたミュールを見つけて、わたしは安堵するのと同時に違和感も覚えた。美鈴は履物を脱ぎ散らかすなんてことをしないはずなのだけれど。それでもやはり安堵したことで緊張が解け、糸が切られた操り人形のように崩れ落ちそうになるのを必死で堪えて、下駄箱の上に鍋を置く。水に濡れて重くなったスニーカーを脱ぎ、転がるように家に上がる。靴下を洗濯機に放り込んでから部屋に入ると、まず床に転がっていた美鈴のエルメスのバッグが目に入った。いつも大切に扱っており、床に投げ出すなんてことは決してしなかったバッグが今日に限ってどうしてだろう。心のどこかで「まさか強盗では」という思いが生まれつつあった。家のなかは涼しいくらいだったけれど、手は汗でじっとりと湿っていた。

「美鈴?」

 呼びかけに返事はなかった。部屋のなかに別段荒らされた形跡は見られないものの、動悸は落ち着くことを知らない。

 バッグを拾って恐る恐る部屋の奥へ行くと、ソファの上にうつ伏せで伸びている美鈴の姿があった。

わたしは気が抜けてしまい、「美鈴ぅ」などとふざけて呼びかけてみたけれど、眠っているのか美鈴は返事をしない。小さく上下する肩を見てようやく、普通に眠っているだけなのだと分かった。出かけて行ったときの服装のままでいるので、よほど疲れていたのだろうか。

 日頃から溜まっていた対抗心で、わたしは自分の部屋からタオルケットを持ってきて美鈴の背に掛けてやった。その薄い背中を、軽い優越感に浸りながら、子どもをあやすように優しく撫でる。しばらくそうしているうちに鍋を下駄箱の上に置いたままにしていることをふと思い出して、わたしは重い体に鞭を打って立ち上がろうとしたところ、タオルケットの下から伸びてきた手に、まさぐられるようにして羽織っていたカーディガンの裾を掴まれた。思いきり意表を突かれ、わたしは自分でも呆れるほど間抜けな声で「ひゃっ」と仰け反ってしまった。

「――お、起きてたんだ美鈴」

 むくり、と起き上がった美鈴は腫れぼったい目でわたしを見上げてきた。折角のメイクも髪型も、すっかり見るに堪えないものになってしまっていた。

 比較的色白な美鈴の顔が、いまは異常なほど赤くなっている。わたしは急にむせそうになった。美鈴の息が、というよりむしろ美鈴自身が酒臭いことに、いまさらだけれど気付く。部屋がそこまで酒臭くないので、どうも外で呑んできたようだった。美鈴は両手でわたしのカーディガンの裾を握りしめると、うつむいてもごもごとなにか口にしているようだったけれど、なにを言っているのかまったく聞き取れなかった。

 膝を折って美鈴の背に手を回し、とんとん、と叩いてあやしてみる。

「どうしたの、美鈴。大学でなにかあったの」

 たった二言。それを言うだけなのに、何度も言葉に詰まりそうになった。

 美鈴はゆっくりと顔を上げると、ぐしゃぐしゃの表情でわたしの名前を呼んだ。いつもの力強く澄んだ声は、弱弱しくかすれた声になっていた。気が狂ったのかと思うほどに、何度も何度も美鈴はわたしの名前を呼んだ。何度も何度もわたしは返事をした。

 仕事柄、酒臭い息には慣れているつもりだけれど、いまの美鈴はさすがに強烈だった。カーディガンの袖で流れる涙を拭ってあげると、美鈴は声を上げて泣き出した。カーディガンの袖が、ほんの少し黒くなった。

 どうしたらいいのか、わたしはまったく分からずにいた。

 もっと頼ってほしい。もっと力になりたい。そう思う気持ちがあるにもかかわらず、わたしは機械のようにひたすら背を叩いて、ぎこちなくあやすことしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ