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act.1

 目が覚めたときにはもう日は高く昇っていて、昨晩共に飲み明かしたはずの美鈴の姿は家のどこにも見当たらなかった。寝起きで乾ききった喉に台所でコップ一杯の水をぐいと流し込んでから、わたしはお酒の空き缶やら食べ残した肴やらで散らかったテーブルの上を見て、久しぶりの深酒だったなあなどと呑気なことを考えつつ、椅子に座って残っていたサラミをひとつふたつ摘んだ。昨晩の記憶はほとんど残っていなかった。

 いい加減片付けなければと思うものの意欲がまったく湧かず、肴の残りをつまむ手だけが進む一方で、缶の底に僅かに残っていたお酒をあおるも当然ながらぬるく喉越しは最悪だった。カーテンの隙間からこぼれる陽光はほのかに温かく、二日酔いで弱った身体を優しく包んでくれた。

 なかなか酔いが醒めないのは部屋自体が酒臭いからだとなんの根拠もないことを思い、手近な窓を開け放つと、春の陽気を含んだ風がなめらかに吹き込んできた。微かに香るこれは草の匂いだろうか。やはり部屋に一晩こもった空気よりも外の新鮮な空気を吸ったほうが、酔いは早く醒めていく気がする。ふと目に入った日捲りカレンダーの赤字を見て、ようやく今日が日曜であることを思い出した。

 外は今日が日曜日とは思えないほど静かで、時計の秒針が進む音だけが室内に響いていた。周りが住宅街なので、週末はほとんど子供たちの騒ぎ声で目が覚めるようなものなのだ。騒がしいのは勘弁だけれど、こうした無音に近い状況も静寂が頭に響く。とりあえずテレビでも点けようかとリモコンを探すものの一向に見つからず、結局は頭痛をより一層ひどくするだけに終わった。諦めて、貝ひもをひとつ口に放り込む。

 昨晩は美鈴と二人でこの部屋に暮らし始めてからちょうど三年目を迎えるということで、記念に一杯呑もうかという予定だったのだけれど、お酒が入ったせいでいつの間にか互いに仕事や大学の愚痴を言い合うようになり、気がついた頃には翌日の昼下がりという有様だ。美鈴もわたしも大してお酒に強いわけではなく、むしろ下戸であって、そのくせ発泡酒やチューハイの缶をいくつも空にしたものだから、それはもうひどいことになっている。美鈴に至ってはそれに加えて焼酎も何杯か呑んでいた。本来なら祝いの席であるべきところは、酔った女二人のお陰で薄汚い井戸端会議所となっていたのだった。

 封の開いていた肴の残りを一通り食べてしまうと、すぐに軽い胸焼けがして、いまさらになって食べたことを後悔した。ベッドまで行くことすら億劫で、部屋の隅に置いてあるソファに仰向けになると、頭痛や胸焼けも気にならなくなるほどの強い睡魔が襲ってきた。このまま寝ると丸一日完全に無駄にしそうで怖い。その思考さえも、途中で途切れて消えていた。


 笑い声が徐々にフェードインしてきて目が覚めた。狭いソファの上で寝ていたせいか、身体の節々が錆び付いてしまったかのように軋んだ。

 部屋にはコーヒーの香りがほんのりと漂っていて、染み込んでくる香ばしさと共に見慣れた美鈴の姿が目に入ってきた。

「……あれ、帰ってたの。おかえり」

 だいぶ醒めてはきたものの、酔いはまだ頭の奥のほうに残っていた。バラエティ番組かなにかは分からないけれど、テレビから流れる笑い声が頭に響いて鬱陶しい。ベッド代わりにしていたソファは寝汗で若干しっとりとしていて、これはちゃんと拭いておかないとあとあと面倒なことになるなあと寝惚けた頭で思い、食卓の椅子に座る美鈴の姿を見れば珍しくスーツ姿だったので、わたしは自分のスウェット姿を見下ろすと、いろいろと悲しくなった。

「ただいま。にしてもよく寝てたね。何回起こしても全然起きないんだもん」

 前髪をあげて広い額が露になっている美鈴の顔はまだきっちりとメイクがなされていて、ただでさえ大きな目はより一層大きく見えた。それなのに、いまのわたしはメイクのメの字すら見られないすっぴんであり、一応違う人間とはいえメイクをしているのとしていないのとではこうも違うものかとひとり打ちひしがれた。十代の頃は割とすっぴんでも平気だったけれど、二十歳を超えた途端その自信は一瞬にして風化してしまった。どうせデマだろうと高をくくっていたものの、あまりに厳しい現実にわたしはわたしを疑った。けれど、それももう回想にできるほど昔の話だ。徹夜明けの肌の状態に逐一騒いでいた二十歳のわたしは、いまとなってはもういない。それは良く言えば許容であり、悪く言えば諦めだ。

 カップを傾ける美鈴の視線はテレビに向いていたけれど、わたしは頭を下げた。

「ごめん」

「べつに謝ることじゃないでしょう。それより香苗、夕飯まだだよね」

「夕飯」という単語を耳にした途端、大して空腹でもないのに見計らったような間合いでわたしのお腹が鳴った。

「うん、まだ」

 美鈴は眉尻を下げて微笑むと、手にしていたカップをテーブルに置いて立ち上がった。そのときになってようやく、あれだけ散らかっていたテーブルの上が綺麗に片付いていることにわたしは気付いた。無性に申し訳なくなってきて、とりあえず姿勢を正しておく。

「なにか食べたいものある? 冷蔵庫見てみないとなんとも言えないけど、あるものでよければなにか作るよ」

「珍しいね。美鈴が自分から作るなんて」

「そうかな。まあ、たまにはいいじゃない。なんでもいいから、作りたい気分なの」

 台所で冷蔵庫のなかを漁る美鈴の後姿をぼんやりと眺めながら「じゃあ半熟の目玉焼きがいい」と言うと、ややあってからくぐもった不満が返ってきた。

「またそれ? たまにはほかに食べたいものとかないの?」

「それなら、美鈴に任せる」

「はいはい」

 半熟の目玉焼きは幼い頃に母がよく作ってくれて、毎日のように食べていても飽きない美味しさにわたしはすっかり虜だった。美鈴と一緒に暮らすようになってから基本料理は当番制だけれど、目玉焼きひとつとっても上手なのは美鈴のほうなので、わたしが当番のときでもそれだけ作ってもらうことはしょっちゅうある。特にレシピを教えたわけでもないのに、それがもう母の作ってくれた味とそっくりなものだから、初めて美鈴に作ってもらったときは思わず「お母さん?」と口にしてしまったほどだ。そのあと笑われたことは言うまでもない。

「そういえば、なんでスーツなんて着てるの?」

 まな板の上で小気味の好い音を立てながらなにかを刻んでいる美鈴の背中に声をかけると、再び不満げな呟きが聞こえた。

「朝、っていっても昼前だったけど、出かけるときに言ったでしょう。サークルの新人歓迎会だって。香苗、返事してたじゃない」

「そうだっけ」

 まったく身に覚えがない。昨晩いつ寝たのかすら覚えていないのだ。

 美鈴はこの近くのそれなりに名高い大学に通っていて、本人から聞いた話によれば、成績優秀で教授や友人からの信頼も厚いのだという。たまに家まで友達を連れてくることもあって、そういうときは大抵お酒を飲んだり食事を振舞ったりするのだけれど、わたしはどうにも皆の輪に入れず自室に篭っていることが多い。美鈴に無理矢理引きずり出されたときは諦めて付き合うものの、わたしが、年齢が近い相手とはいえ面識がほとんどない人たちとすぐに打ち解けて話せるほど社交的な人間でないことは、わたし自身がよく理解しているつもりだ。そんなときは大抵必死で人当たりのいい外面を作ってやり過ごすのだけれど、解散したあとには決まって美鈴からの糾弾がある。

 せっかく皆来てくれたのに、どうしてわざわざ距離を取ろうとするの。話しかけられても曖昧な返事ばっかりだから、嫌われてるんじゃないかって心配してる子もいたんだよ。

 確かに美鈴の友人たちは年も近いし、人としても信頼できるいい人たちだ。ただ、わたしと美鈴では彼らと共に過ごした時間が違いすぎる。一緒にご飯を食べたり、お酒を飲みながら話したり。そんな他愛ないことすらしたことのない人に、わたしはどう転がっても気を許すことができなかった。

「まあ、どうせ夢心地だったんでしょう。声がふにゃふにゃしてたし」

 包丁がまな板を叩く一定のリズムを背景に、美鈴の呆れた声が聞こえた。「ごめん」と呟いた自分の声は、自分でも聞き取るのに苦労するほど小さかった。

 ソファから椅子に移ってぼんやりとテレビを眺めていると、最近人気があるらしい若手芸人が必死にアピールしている姿が目に入った。それは見ているこちらがなだめたくなるほど声を張り上げ、切羽詰った形相をしているものだから、わたしは、そこまでする必要あるのかなあなんて冷めた意見を持ってみたり、そうかこの人たちはこれが仕事なんだよねと勝手に納得してみたりして、そして結局なにがしたいのだろうかというところに落ち着いた。本当、なにがしたいのだろうか。

「まあ、香苗らしいといえば香苗らしいかもね」

「そうかなあ」

 炒めものを始めたらしい軽快な音が台所から聞こえ始めた。目覚めたばかりのときは食欲など無に等しかったのに、その音を聞いていると次第に空腹感が増していくのを感じた。

「その、歓迎会だっけ。楽しかった?」

「それなりにね。でも歓迎会っていっても大したことしてないし」

 フライパンを揺すりながら答える美鈴の声はやや自嘲気味で、どこか怒っているようにも聞こえた。なにか面倒なことでもあったのだろうかと働かない頭を懸命に働かせてみたけれど、深く考えようとするだけで、後頭部に細い針を刺し込まれるような鋭い痛みが走る。直接訊くのはどうも気が引けた。

 わたしがそんなことをしていると、「それがね」と美鈴自ら話を始めた。やっぱり尋ねて欲しかったのかなあなどと思いながら、わたしは「うん」と先を促した。

「集合は午後四時だったんだけど、主役の新人が三人とも揃って遅刻してきたの。一時間半も。お陰で予定が大きく狂っちゃって、皆怒りを通り越して呆れてたわ。もちろん、あたしもそのひとりだったけど」

「そうなんだ」

「最近の若い子って、本当に時間にルーズよね。最初はその辺で適当に遊んでから居酒屋でも行こうかって話だったんだけど、新人たちのお陰で、居酒屋で飲み食いして騒ぐだけになっちゃったし」

「美鈴もじゅうぶん若いじゃない」と口にしかけて、わたしは慌てて飲み込んだ。

「それでも歓迎会にはなるんじゃないの。とりあえず親睦が深まれば」

 でき上がったらしい料理が湯気を上げながら運ばれてきた。小皿に乗っていたのはリクエスト通りの半熟目玉焼きと、ニラともやしの簡単な炒め物だった。味付けはどちらもわたしの好きな塩コショウだった。なんだかんだ言ってもちゃんと作ってくれる辺りが美鈴らしい。申し訳程度に盛られたご飯は、ほのかに湯気を上げている。

 わたしが黄身の見事な半熟具合に目を輝かせている間に、美鈴は茶碗に控え目に盛ったご飯を持ってきてくれた。冷蔵庫から冷えた麦茶を出してくるのも忘れない辺り、美鈴は人一倍気が利くの一言に尽きる。自分のコップもちゃっかり用意しているところは、抜け目がないとでも言うべきか。

「ありがと」

「いえいえ」

 美鈴が立ったままコップを傾けているのを横目に見つつ、箸で黄身を割ると周りの白身の上に黄色がじんわりと広がっていった。コショウの香ばしい香りが鼻の奥をくすぐる。美鈴はコップを手にしたまま、部屋の隅にあるソファにどっと疲れを溢れさせながら体を沈めた。足を組むと、膝上丈のスカートから白く細い太腿が覗く。美鈴がいきなり「それは違うよ」と声を上げたので、密かにその足に見惚れていたわたしは、不本意にもぎくりとした。

「それでもとか、とりあえずとか、そんな曖昧じゃ駄目。細かいところまで組まれた予定じゃないにしろ、決められた時間に遅刻してくるようじゃ、いざ社会に出たとき通用しないのよ。時間を守ることは最も基本的なマナーでしょう」

「ああ、そういうこと。いきなりどうしたのかと」

 美鈴は真顔で教師みたいなことを言って真っ直ぐ見つめてくるものだから、そんななかで食べるのは悪い気がして、わたしは目玉焼きを口にできずにいた。早く食べないと冷めてしまう。やはりできたてが一番美味しいのだけれど。

「それはそうだと思うけど、その遅刻してきたっていう新人の子たちにもなにかしら理由があったんだろうし、一回遅刻したからって厳しく咎めるのも酷なんじゃないの。人間誰だって失敗はするし」

 言いながら、わたしは耐え切れずに再び箸を入れた。滑らかな白身に半熟の黄身を絡めて口に含むと、卵のほのかな甘さのなかに塩コショウのスパイスが効いていて、自ずと顔の筋肉が緩んでいくのを感じた。

「まったく……。香苗はやっぱり、香苗ね」

 口のなかにまだ卵が残っていたので、目で「どういうこと」と訴えると、美鈴は足を組み替えてから、コップを手で弄びながら「そういうどっちつかずな性格。なんでもはっきりさせずにぼかすっていうかさ」偉いお役人みたいに、堂々とふんぞり返るとまではいかないものの、どこか人を小馬鹿にしたような態度で言った。それにテレビの笑い声が重なったものだから、わたしはぼんやりとした思考のなかで、身勝手だとは思いつつもいつになく頭に来て、わざと大きな音を立てて箸を置いて立ち上がった。美鈴の眉が微かに動いた。また喧嘩になっちゃうのかな。美鈴との間では、わたしはなぜかそうなる気配みたいなものが分かる。大人しく言われていたほうが事は穏便に収まるんだろうなあという予想はできたけれど、一度喉元までせり上がってきた不満はありったけ吐き出してしまわないと気が済まなかった。

「どっちつかずだったり、ぼかしたり、それのなにがいけないの」

「なにも否定はしてないでしょう。香苗らしいね、って言っただけじゃない」

 美鈴はあくまで態度を変えるつもりはないらしく、むしろ挑戦的になって言い返してきた。次の言葉を考えようと思考を巡らせるだけで、撞木で突かれたような重く鈍い衝撃が頭の奥深くに走る。美鈴の視線はわたしを見上げているはずなのに、見下ろしているみたいに威圧感があった。

「直接言わなくても、態度が、そうじゃない」

「……香苗?」

 不満を吐き出していたはずなのに、いつの間にか熱を持った別のものがすぐそこまでこみ上げてきていた。咄嗟に台所まで行こうとしたものの、足が面白いくらいにもつれてしまい二、三歩程度歩いたところで視界が転げた。床で戻してしまうことを堪えるので精一杯だったせいか、あちこちぶつけたはずなのに体の痛みは不思議と感じなかった。

「香苗っ」

 美鈴はすぐに傍まで寄ってきてくれて、そっとわたしの背に触れた。その手と声についさっきまでの険悪さはなく、普段の包み込むような柔らかい優しさがあって、わたしはもうなにがなんだか分からなくなった。

「大丈夫? 立てる?」

 嫌な汗が頬を伝うのを感じる。

 美鈴の手が両肩を掴んで立たせようとしてくれて、有り難いと思うのだけれど、「やめて、触らないで」と頭が、全身が訴えている。

「――――」

 声に出そうとするも叶わず、わたしはそのまま床に戻してしまった。

 頭のなかが真っ白になる。

 何度かえずいている間も、美鈴は無言でずっと背中を擦ってくれていて、恥ずかしさや情けなさ、そしてなにより辛さ苦しさに押し潰されて、わたしは子供みたいにしゃくり泣いた。

「本当、馬鹿ね……」

 口から出るものはすべて出し切ったらしく、胃が引き攣る不快感と口内の酸味はまだ残っていたけれど、胃が軽くなったお陰で心持ちすっきりした気がした。目の前の光景から目を背けるようにのそのそと体を起こすと、美鈴が力を抜いた笑みで支えてくれて、その表情を見た途端どうしようもない申し訳なさに襲われた。

「ごめ、ん」

 自分の声が恐ろしいほどに枯れていて一瞬背筋が凍りついた。口を隠すつもりで手をかざすと鼻を突く酸っぱい臭いがして、見れば手にもそれが張りつくようにしてこびりついていたものだから、思わず服で拭き取ろうとしたのだけれど美鈴に素早く手を掴まれ止められた。

「なに子供みたいなことしてるの。拭くならティッシュがあるから、ほら」

 美鈴はテーブルの上にあったティッシュを箱ごと手に取ると、躊躇いなくごっそり取り出してわたしに押し付けた。あまりの量の多さに戸惑っていると、美鈴はわたしに構うことなく残りのティッシュをすべて使う勢いでそれの片付けを始めた。わたしが口を出すのを遮って、美鈴は至って無表情な声で「シャワー浴びられるなら浴びてきたほうがいいよ」と言い、それきりわたしがなにを言っても聞いてくれようとしなかった。

 後ろめたさに押し潰されながら居間を出て、ふらふらとおぼつかない足取りで洗面所に行った。冷水で顔や手を洗い、口をゆすぐ。あらかた綺麗になったはずなのに、まだ微かに臭いが感じられた。顔を上げて鏡を見ると自分でもぎょっとするほど顔色が悪く、着ていたスウェットもところどころ汚れていたので、わたしは汚れていた個所を水で適当に洗ってから上下とも洗濯機に放り込んだ。この際だから、洗濯籠に入っていた服や下着もまとめて入れてスタートボタンを押した。洗剤と柔軟剤を入れていると美鈴がやってきて、わたしの姿を見るや否や肩を落として溜息をついた。

「籠に入れておいてくれればあとはやっておくのに。香苗、顔色悪いし、今日はもう寝たほうがいいよ。それに、いつまでもそんな格好してると風邪引くし」

「でも、自分の始末くらい自分でするよ」

 わたしがまだ小学校にも上がっていないくらい幼かった頃だっただろうか。インフルエンザかなにかでひどく体調を崩したわたしは、ろくにベッドから起き上がることもできずに、両親に何日間もつきっきりで世話をしてもらった。食事はもちろん、身の回りのことまでなにもかも。確かに仕方ないことだったのかもしれないけれど、それはわたしが幼かったから許された甘えだ。いまはもう子供ではない。自分の世話くらい、いい加減自分でしなければ。ましてや二日酔いなどという自分で招いた災難だ。いくら家族同然の美鈴でも、そこだけは甘えられない。

「本当、馬鹿なんだから」

 声の平淡さとは裏腹に、美鈴の目は優しい光を湛えていた。見つめられているだけなのに心が癒されていくような気がして、わたしは美鈴に目の前まで近づかれても気付かないくらいぼうっとしてしまっていた。

「貸して。あとはやっておくから」

「――え、あ、はい」

 ほとんど奪われるようにして、柔軟剤のボトルとキャップを美鈴に渡す。傍から見れば荒っぽい動作なのかもしれないけれど、そこに強引さはまったく感じられず、むしろ優しさだけがあった。既に回りだしていた洗濯機に柔軟剤を入れる美鈴の脇で、わたしはただ呆然と立ち尽くしていた。

「いつまで下着姿で突っ立ってるの。子供じゃあるまいし。本当に風邪引いても知らないからね」

「……ごめん」

 声音はまったく怒りの色を帯びていないのに、わたしはつい反射的に謝ってしまう。

 美鈴はふうっと大きく息を吐くと、「もう、分かったから、あんたはさっさと寝なさい」頭を掻きながら目を背けた。「いつまでもそんな格好されると、逆にこっちが恥ずかしくなってくるじゃない」

「あ、うん」

 乾いた笑いを浮かべながら、わたしは逃げるように洗面所から出た。吐くだけ吐いたせいなのか喉が恐ろしく乾いていた。かといってまた美鈴にお小言をもらうわけにはいかないので、自室で適当に着替えてから台所でコップ一杯の水を飲んだ。たった一杯でも、喉から食道、食道から胃へと水が流れていくのが分かり、わたしは自分の体が相当乾いていたのだと思い知った。

 コップを洗っていると部屋着に着替えた美鈴がやってきた。美鈴は、さっきまでのしゃんとしたスーツ姿とは打って変わってネズミのキャラクターがプリントされたTシャツにジャージ姿というラフな格好に着替えていたけれど、それにもかかわらず大人びて優雅な印象を受けるのは、やはり本人が服装に影響されないだけの魅力を持っているからなのだろう。

「じゃああたし、お風呂入ってくる」

 気だるそうに言い残し、美鈴はすぐに脱衣所へと消えた。聞こえていないだろうとは思ったけれど、無視するのも気が引けて、一応短く返事をしておいた。

 自室に戻るときに見た現場はもう跡形もなく片付いていて、わたしは胸の奥を大きな手で鷲掴みされたような息苦しさを覚えた。なにもかも押し殺してベッドに横たわると、豆電球のほのかな明かりが視界にぼんやりと映った。

 風呂場から水音が聞こえ始めた。


 翌朝の目覚めはまたも美鈴のほうが早く、わたしが居間に入ると、台所のほうからはいつものように香ばしいコーヒーの香りが漂ってきていた。ぼうっとする頭を抱えてテーブルについて、とりあえず手近にあったリモコンでテレビの電源を入れると、朝のニュース番組の星座占いが可愛らしい動物を背景にして流れていた。おうし座は何位かと目で追ってみれば最下位の一歩手前で、こんな中途半端な順位なら最下位がよかったと複雑な心境でわたしはチャンネルを変えた。

「あ、うお座まだ出てきてなかったのに」

「じゃあビリだね。おめでとう」

「めでたくなんかないわよ。あたしは順位よりも、そのあとの補足のほうが気になってたのに」

「美鈴って占いとか気にしないタイプに見えるのになあ」

「失礼ね。占いを信じるかどうかなんて、あたしの勝手でしょう」

 わたしは若干いい気になりながら、カップを二つ持ってきた美鈴に小さく笑いかけた。ブラックのまま一口飲んでみたけれど、やはり甘みが恋しくなって角砂糖を三つ放り込んで、ミルクも少しだけ入れた。そんなわたしを見下すように、美鈴は含み笑いでブラックを傾ける。反応したら負けの気がして、わざとそれに気付かない振りをしつつ、すっかり甘くなったコーヒーをわたしは口の中で転がした。

 互いに一息吐いてから、わたしたちは二人で別のニュース番組を無言で眺め、時折面白いトピックがあると声を揃えて笑ったり、政治家の怠慢が報道されると「高い給料もらっているくせに」と口々に不満を漏らしたりした。

「お腹空いたでしょう。パンでも焼こうか」

「うん。ありがとう」

 テレビはニュース番組が終わって、いつの間にか通販の番組が始まっており、身体に優しいとやたらと主張されている青汁には興味がなかったので、適当にチャンネルを回してみるものの、どこも似たような番組ばかりで、わたしは諦めてテレビの電源を消した。

「あれ、どうしたの?」

 焼けたトーストを持ってきた美鈴は不思議そうに椅子に座り、二枚の小皿に一枚ずつ取り分けて差し出してくれた。

「面白い番組がなくて」

「そう」

 それからしばらく無言が降りて、わたしは無心になってトーストをかじった。薄く塗られたマーガリンのまろやかな塩味が絶妙だ。美鈴は、こういうわたし好みの味の加減が本当に上手い。

「そういえばさ」

「なに」

「一昨日の晩って、一緒に呑んでたよね?」

「うん」

 いまさらなに当然のことを、という表情でこちらを見返してくる美鈴は、トーストの最後の一片を小さな口に含むと、数回の咀嚼のあと、コーヒーでこくりと流し込んだ。

 昨日から薄々思っていたことだけれど、わたしと同じ、むしろわたし以上に呑んでいたはずの美鈴が、どうしてこれほどまでに平気な顔をしていられるのだろう。

「二日酔い、しなかったの?」

「……馬鹿ね。しないわけがないじゃない」

「え?」

 昨日の様子ではまったくそんな素振りすら見せなかったはずなのに。狐に包まれるとはこういうことを言うのだろうか。わたしは一瞬、言われた意味が分からなかった。「しないわけがない」という言葉を頭のなかで反芻して、ようやく意味を汲むことができた。美鈴も二日酔いしていたのか。

 美鈴は小ぶりで綺麗な形の唇を尖らせた。

「我慢、してたのよ。あたしがそこまで酒の呑める人種じゃないことくらい、香苗なら分かってるでしょう。頭は痛いし体はだるいし、吐き気もしたんだから。歓迎会も本当は行きたくなかったし。もうふらふらだったわ」

 そして子供みたいに頬を膨らませるものだから、わたしは堪えきれずに笑ってしまった。

「全然そんなふうに見えなかった」

「確かに家に帰ってからはゆっくりしてたし、多少は落ち着いてたところもあったけど、それでも全快ってわけじゃなかった。今日はもう平気だけどね」

 美鈴は他人に自分の弱みを決して見せない。あとになって話してくれることは度々あるけれど。

 滅多にないことだけれど、美鈴も稀に体調を崩すときがある。でもそういうとき、わたしが介抱しようとしても、美鈴にはなにかと理由をこじつけて断られてしまう。プライドが高いと一言で片付けていいものかどうかは分からないけれど、たまにはわたしにだって甘えてほしいものだ。

「そういうことは昨日のうちに言ってくれれば、わたしだって気を遣ったのに」

「少なくとも、昨日はあたしより香苗のほうが重症だったわ。それは事実でしょう」

「それはそうかもしれないけど……」

「甘えられるときは甘えておけばいいの。変に意地張ると余計疲れるだけだし」

 言うべき言葉はあるはずなのに、それが声になることはなく、ただ喉元でじっとうずくまっていた。

 わたしが黙っていると、美鈴ははっと思い出したように手を叩いた。

「香苗、今日ってバイトある日じゃないの」

「え、ああうん。でも夕方からだから、そんなに急ぐことはないし」

「いまはあの居酒屋だけだったっけ」

「そうだね」

「ふうん」

 美鈴に言われるまですっかり忘れていた。壁にかかった時計を見れば、まだ十時を少し過ぎたところだった。あと五時間は家でのんびりできるなあ、などと間抜けたことを思っていると、美鈴は自分の分の皿とカップを手に立ち上がり、器用に腰で椅子を元に戻して足早に台所へと向かった。

「あたし、午後から大学に行くから。戸閉まりはよろしくね」

「分かった」

 食器を洗う水音がし始めて、わたしは急いでパンを口に詰め込んでそれをコーヒーで無理矢理流し込む。椅子はそのままに小走りで台所に向かい、皿とカップをシンクに差し出した。

「お願いします」

 飲み込みきれずに口をもごもごさせながら言うと、美鈴は極めて冷淡な声で、しかし顔は笑顔で言った。

「自分の始末は自分でするんでしょう」

 それはそうだけど、これはこれでちょっと違うというか。

 パンが上手く飲み込めず、結局わたしは口をもごもごさせながらうなずいた。

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