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act.9

「困ったときとか疲れたときは、ここを実家やと思って、いつでも帰ってくるんやで」

「はい。いままで、……ありがとうございましたっ」

 目の前に立つ奥さんにわたしは深々と頭を下げる。たっぷり間を置いてから顔を上げると、奥さんの潤んだ視線に捕まった。寂しさと気恥ずかしさで、ついわたしまで涙をこぼしそうになるけれど、別れ際には泣かないと前々から決めていたのだ。いま泣くわけにはいかない。それも、この慣れ親しんだ客席で。

 厳しい冬の寒さも最近になって日中は影を潜めるようになり、上着も日によっては不要な日もあった。なんでも南のほうでは、例年よりも相当早く桜が開き始めているところまであるらしい。わたしたちのすぐ後ろにまで、春は着々と迫ってきている。

「はい、これ。最後のお給料」

 目の前に差し出された無地の茶封筒の表面には、手書きで「三月分給与」と記されている。わたしなんかには書けない、歳を重ねた人特有のとても重みのある字体だ。

「ありがとうございます」

 ゆっくりと受け取ると、奥さんは顔を背けて鼻をすすった。

 決して泣くまいとしていたのに、なんともなしにひっくり返した封筒の裏に記されていた「お疲れ様。香苗ちゃん」の文字を見つけてしまった瞬間、思わず一筋の熱がほろりとわたしの頬を伝った。思い切り泣きたくなる衝動を堪えて、きつく瞼を閉じる。

 温かくも、確かな重さがある奥さんの手が、二度三度わたしの頭を撫でた。

「まあ、たまには顔出しや」

 奥さんの後ろからひょっこり親父さんが顔を出した。営業開始前だからかどうかは分からないけれど、いつも頭に巻いている鉢巻きは、頭巾のように坊主頭を覆っている。

「そうやで。来てくれたあかつきには、好きなだけ働かせたるからな」

 まったくこの夫婦は、年齢と不相応なほど活気に満ちている。年甲斐もなく、というとさすがに怒られるだろうか。

「はい。考えておきます」

 なぜだか不思議な気分だった。ちょっと前まではこんな日が来るなんて一瞬たりとも想像しなかったのに、お世話になった夫婦に見送られて、わたしはいま店を去ろうとしている。この状況がなにより現実として存在しているのに、未だに呑み込めずにいた。いや、ひょっとすると、わたしは呑み込みたくないのかもしれない。

「……寂しくなんなあ」

「阿呆。昔からずっとふたりだったじゃねえか。少し時間が戻ったと思えば、なんも違和感ねえよ。そんなことよりも、いまは気持ちよく送り出してやることが先決やろう」

 奥さんの肩を抱くと、親父さんは歯を剥いて笑った。

「店はいままで通り、ちゃんとやってく。お前がおらんようなるのは、店としても痛手なのは確かやけどな。俺らはそれくらいじゃへこたれたりしねえよ」

 力強い親父さんの笑みに勇気づけられて、わたしも力強くうなずき返した。涙はもう流れなかった。

「それじゃ、そろそろ行きますね」

「そうか。まあ、気ぃ付けぇや。お前なら大丈夫やで」

「はい」

 一礼して、店を後にする。最後まで戸の軋む音が見送ってくれて、わたしは戸を閉めたあとにも更に一礼した。いままでお世話になりました。その一心で、深く腰を折る。

 頭を上げて周りを見渡すと、美鈴は意外とすぐ近くにいた。ずっと店の外で待っていてくれた彼女の元に、わたしは急いで駆け寄った。

「――もういいの? お別れは」

「うん。もうじゅうぶん。それより、ごめんね。長いこと待たせちゃって」

「いいのよ。あたしなんかが、感動のお別れの邪魔なんてできないもの。今回あたしにできるのは、せいぜい荷物番がいいところよ」苦笑を交えつつ、美鈴は寄りかかっていた壁から背を離した。「ゆっくり日向ぼっこなんて滅多にしないから、いい機会だったわ」

 和やかに言いつつも皮肉めいた美鈴の言葉に、わたしはなにも言えず、同時に頭も上がらなかった。預かってくれていたキャリーバッグを受け取る際に、美鈴は「冗談冗談」と誤魔化してくれたけれど、わたしは後から後から申し訳なくなってきて、街道に出て捕まえたタクシーに乗り込んでからもひとり肩身が狭かった。

「何時の電車だったっけ」

「四時半くらい、だったかな」

「切符は買ってあるの?」

「ううん。まだ」

「香苗さ、もう少し計画的になれないの? 先に買っておけば、いちいち面倒なことしなくてもスムーズに電車乗れるのに」

「そこまで混雑する時期じゃないし、予約席取らなくても座れるって」

 窓枠に頬杖を突き、美鈴は盛大に溜息を吐いた。

「その感覚、羨ましいような、情けないような」

「い、いいじゃん別にどっちだって――」

 わたしはこれから地元に帰る。

 先日、就職することにしたという旨を電話越しに母に伝えたところ、あのいつものせっかちな声で「とにかく一度帰ってきなさい」との命令が下りたのだ。叱責を受けるのは目に見えていたし、いまさらおめおめと帰るというのもわたしとしては馬鹿げた話だと思っていたので、本当はあまり気が進まなかったのだけれど、美鈴に強く背中を押されて結局こうして駅に向かっている。普段は口下手な父の「久しぶりに、顔見せたらどうだ」の一言が、地味にわたしの帰巣本能を刺激していたことについては、いまとなっても父にも美鈴にも、誰ひとりとして教えていない。

 数日前、美鈴は一足先に就活を始めた。そのために美鈴はこの冬の間、アルバイトの数を増やして資金集めに奔走していた。具体的な数字は教えてもらっていないけれど、少なくとも余裕を持って活動できる程度には集まっていることだろう。わたしも負けじと、今日この日まで頑張って働いてきたつもりだ。先にスタートを切られてしまったのは仕方ないとしても、準備の段階では負けていない自信がある。

「そういえば、あいつ、また頑張ってるみたいよ」

 美鈴の言う「あいつ」が誰を指すのかは、もはや考えるまでもない。

「そうなんだ」

「この間電話かかってきて、いきなり原稿読んでくれって。こっちは忙しいのにね。凝りもせず、よくやってるみたい」

 あれだけ毛嫌いしていたはずなのに、美鈴はどこか楽しげに語った。

「美鈴の一言が効いたんだろうね」

「あいつ、何気に負けず嫌いだから」

 いま思い返すと、心にもないことを言ってしまったなという気もする。溢れ出る感情の激流に任せてものを言うのではなく、水量を調節するように、少しずつ自分の考えを伝えることができていたら、また違った方向に事は進んでいたのかもしれない。

「でも、あんなことがあっても頑張ってるんだから、本当に作家を目指す意志はあるんだろうね」

「そうねえ。ただ、あたしを感服させるほどのものは、まだ当分書けそうにないけどね」

「手厳しいですね」

「当然よ。簡単に褒めちゃうと、すぐ調子に乗るし」

 人の夢を他人のわたしが土足で踏み躙ったのだとしたら、その人がもつ可能性のひとつを、わたしは勝手に奪ってしまったことになる。藤川さんがいまでも小説を書き続けていることは、わたしのなかでも大きな救いだった。

 ふたりでそんな話をしているうちに、タクシーは駅に到着した。わたしだけやたらと多い荷物を引っ張っていて、涼しい顔をしている美鈴に恨めしい視線を送り続けてみるけれど、ものの見事にスルーされた。

「お土産とか買わなくていいの?」

「うん。今回はそういうのじゃないし」

 なぜか自然な流れで、わたしたちは土産屋の前に立ち止まった。

「そう。じゃあせめて、電車のなかで食べるものだけでも買っていったら? 車内販売は若干高くつくし、きっと小腹空くと思うわよ」

 いろいろと手に取っては品定めをしている美鈴の背中を眺めながら、行き交う人の波に呑まれないよう、キャリーバッグを碇代わりにしてわたしはぼうっと突っ立っていた。

「ほら。これはおごり」

 気付くと目の前にポリ袋が差し出されていて、ぎこちない手つきでわたしはそれを受け取った。思ったよりもずっしりとした重みが手首にきて、受け取ってしまってから、それなりに高かったのではないかとひとり焦った。

「ありがと」

「どういたしまして。車内で餓死されちゃ、あたしも困るし」

「誰がするかっ」

 思い切り、とはいってもいくらか抜いた力で美鈴の肩を叩く。「折れる折れる」とおどけた声で応じる美鈴の笑顔が、これからしばらく見られなくなるのだと思うと、体の奥底から寂寥感が突き上げてきた。

 何度も何度も肩を叩いているうちに、次第に力が入らなくなり、視界がぼやけてくる。

「……ほら、そろそろホームに行かないと」

 再三に渡って美鈴に促されても、わたしの足は一向に動こうとしなかった。

 向こうにはほんの数日間滞在するだけだ。一週間もしないうちに、わたしはこっちに帰ってくる。どうということもなく、さっさと行ってさっさと帰ってくるつもりだった。

 それが、こんなにも辛いなんて。

「うん。分かってる」

 足早に押し寄せる人々の間をのろのろとすり抜けて、途中で一旦美鈴と別れてわたしは窓口で乗車券と特急券を買った。切符の表面に記された地元の駅名が、とても懐かしい。駅名を口のなかで何度も復唱しながら改札に向かうと、先に行って待っていてくれた美鈴が近寄ってきた。

「あたしがついて行くのはここまで。……どう、がっかりした?」

「そんなこと」

「だってホームに入るだけなのに、入場料いくらか取られるのよ。そんなの勿体ないじゃない。電車にも乗らないのに、ただ入るだけでお金取られるなんて」

 美鈴が嘘を吐いているのを、わたしは光の速さで見抜いた。実に単純なことで、本人は自覚していないのか、嘘を吐いているとき美鈴は決して相手と目を合わせない。嘘を吐かない正直者というよりも、美鈴は吐きたくても吐けない部類に入る人間だ。

 出発を目前にして落ち込んでいた気持ちが、なぜか沸々と高揚してきた。

「せっかく見送りに来てくれたんだもん。それくらい、わたしが出すよ。だから、ね?」

「嫌よ。そんなの悪いわ」

「どんなに高くても、せいぜい百円、二百円くらいのものでしょ。安い安い」

 券売機のほうに歩きだそうとするわたしの腕を、美鈴は慌てて捕まえにきた。

「いい。そんな気遣わなくてもいいから!」

「どうして」

「それは……」

 顔を背ける美鈴の正面に回って、わたしはこれでもかというくらい笑ってみせた。

「わたしが見送ってほしいの。それでも駄目かな」

 これがとどめの一言になるだろうなというわたしの思惑通り、表面ではむすっとしつつも美鈴は「分かったわよ」と言った。

 ホームに繋がるエスカレーターに乗っている際、美鈴は言い訳がましく口を開いた。

「いつからそんな意地悪になったの」

「なんのこと?」見上げられているせいか、不思議と強気でいられた。「気のせいだよ」

「――ばか」

 笑って聞き流し、一足先にわたしはホームに降り立った。あとからやってきた美鈴は、未だに頬を膨らませている。

「あれ、この電車じゃないの」

 不意に真面目な口調になって、わたしたちの目の前に止まっている肌色と臙脂色の電車を、ほら、と美鈴は指差した。電光掲示板を見れば雷鳥の二文字が光っており、出発時刻も乗るつもりだった電車と同じだったので、「うん。これだ」わたしは迷うことなく一歩前に踏み出した。

 もう間もなく出発だ。

 わたしたちはどちらともなく無言になり、ようやく言葉を交わしたのは、わたしが電車に乗り込んだあとのことだった。

 ほかにも大勢乗客がいたため、乗車口での会話などというドラマチックな展開にはならず、人波に流されるまま空いていた席にわたしは滑り込んだ。それがホーム側の席だったのは、まさに不幸中の幸いといったところか。

 人間の声なんて、窓越しではまったくといっていいほど通らない。ただ、口の形や状況から、言っていることの想像は容易い。

 じゃあね。窓の向こうにいる美鈴は、きっとそう言っている。

 じゃあね。わたしも真似してそう返した。

 それでもどこかもどかしそうに手足を動かしていた美鈴は、唐突にひらめいたと言わんばかりに表情を輝かせた。鞄から取り出した携帯を素早く操作して、おもむろに耳に当てた。その直後、バッグのなかで携帯が鳴った。

『このほうが話しやすいね』

 窓の向こうで美鈴はくくと笑った。けれど、そうやって窓越しに電話をし始めてすぐ、電車内に発車アナウンスが流れ始めた。いまですら若干周りから白い視線を感じるというのに、走り出したらもう席でゆっくり話もできないだろう。

「もう発車だって。向こう着いたら、また連絡するから」

 仕方なくそう言うと、美鈴は心底残念そうに『分かった』と呟いて通話を切った。

 全体が一度揺れたかと思うと、電車は徐々に動き始めた。

 涙を堪えて必死で笑顔を作ろうとしている美鈴に、わたしは終始手を振り続けた。泣いているのか笑っているのかよく分からない表情で、美鈴も手を振り返してくれた。美鈴の姿が窓の端に消えたあと、わたしは脱力してゆっくりとシートに身を沈めた。

 そして駅を出た次の瞬間、わたしの視界は朱色一色に染まった。直視すれば目が眩まんばかりの西日が、車内を朱色で満たす。

 世界が終わるときもこんなふうに朱に染まるのだろうかと、わたしはひとり考えた。それはそれで悪くない気もしたけれど、まださすがに終わってもらっては困る。やらなければいけないことがわたしにはまだまだ山ほどあるのだ。頭の固い親を説得することもしかり、美鈴との就活競争もしかり。

 考えてみれば、わたしのなかには大きな穴が開いていたのかもしれない。なにをしてもなにを手に入れても、この手でしっかり受け止められずにそのまま脱落してしまって、結局手元にはなにも残らなかったように。その穴が開くきっかけが高校を卒業したことなのか、仕事を辞めたことなのかは、いまのわたしには到底分からないけれど。

 今日は、ぽっかりと開いたその穴を縫い合わせるひと針目に手をかけた、記念すべき日だ。先は長いけれど、ひと針ひと針の地道な積み重ねがなければ、決してひとつの縫い物は出来上がらない。

 朱色の糸で施されたこのステッチは、わたしのなかでこれからも一生輝き続けるだろう。


   (了)


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