1 新しい年を前に
「そう……。大変ね。
いいの。私のことは気にしないで」
少しだけ。心が沈んだ。
フランネルのパジャマも、羽織ったたっぷりとした真紅のガウンも、暖かいけれど。
「お部屋は素敵だし、昼間は、このお城の中を、沢山案内してもらったの。
だから、一人でここで待っていられるわ。
大人しくしているから。心配しないで」
携帯電話に話しかけながら、両開きのドアの側に立つ、私服の二人のボディガードを悪戯っぽく振り返った。
彼女の笑みに、二人は曇らせていた表情を和らげた。彼等のVIPが落胆するだろうと、気遣ってくれる視線は彼女も理解していたから。
「道中気をつけて。本当に無理をしないでね。途中できちんと休んでね。
狩野さんにも……。ええ」
最後に、兄、紫月はもう一度繰り返した。
『ほんとうにすまない。大晦日の夜なのに……』
と、侘びた。
もう一度、唇を引いて微笑んで、舞は、ガードの一人に携帯電話を返した。
「……わかりました。では、ボス」
彼等のボスと言葉を交わし、携帯をスーツに納めるのを待って舞は言った。
「お兄さんが到着したら、起こして下さいね。どんな時間でも」
彼女の提案に、ガードは顔を見合わせた。
「わかりました。ですが、ボスに伺ってから」
「それはダメ。兄さんは起こすなって言うわ。
お二人が起こしてくれると約束してもらえないなら……」
大きな暖炉の前にある、肘宛のついた木製椅子にきちんとかけた。厚い織物のひざ掛けをかけて。
「私、一晩中、ここで起きて待っています」
「……レディ。それは……」
「じゃあ。約束ねっ」
困り顔の二人だが、もう安心して立ち上がり天蓋付きのベッドに歩き出す。
「……わかりました。電話のベルを五回鳴らします。よろしいですか?」
振り返り、はい、とうなずく。
「この辺りも今夜は冷え込むようですから、暖かくなさって下さいと、ボスから伝言が」
「はい。わかりました」
ベッドに包まり、明るく言って二人を見た。
最後に、部屋全体に警戒の視線を投げてから、ガードたちは灯りを消して部屋を出て行った。
舞は、静かにベッドを抜け出し、窓のカーテンを開けた。
「……雪は、まだ振っているのね……」
部屋の明かりを消したせいで、屋外の白さが浮かびあがる。
雪灯り。
窓のガラスや石造りの城の壁を打つ風も止んでいた。
ただ静かに雪が舞い降りている。
冬の結晶に音すらも吸い込まれ、無音。
同じ冷気、同じ雪に、彼女の兄、紫月も包まれている。
ヨーロッパ北部を襲った、強烈な寒気。積雪や凍結が交通網を破綻させ、ここに向かっていた紫月の車を渋滞に巻き込んだ。
あと数時間で、新しい年を迎えようという夜に。雪村舞は、古城の一室に一人だった。
ホテルに一人で兄の帰りを待つのは、よくあることだった。
兄は企業のトップで、多忙だったから。舞は十四歳だけれど、兄と共に世界中を点々とする生活のため、学校に通うこともない。
逆に、兄の気遣いが気掛かりだった。彼女がたった一人の肉親だから、いつもいつも妹を気に掛けてくれる。電話でお願いはしたけれど。こんな夜に、舞を一人にしておけないと、兄なら道中無理をしかねない。
彼女を守るガードたちもそう。
私は大丈夫。平気よ。そう見せることが、彼等を安心させるから。
「…………」
今は一人きりだから。寂しい目をしても大丈夫。ガラスに映った自分の頼り無い顔。
「平気よ……、ほんとうに。もう二度と、兄さんに会えないわけじゃないんだもの」
新しい朝が、兄を連れてくる。きっと。
それでも。天からの白い贈り物が、少しだけキライ。小さく唇を尖らせて、重いカーテンを閉じた。