私はここの海が好きだ
私は、ここの海が好きだ。
瀬戸内海に面した小さな町で生まれ育った。
幼い頃から海は遊び場だった。
学校が終われば友達と防波堤まで走り、貝殻を拾ったり小さなカニを追いかけたりした。
波が穏やかな日も好きだった。鏡のように空を映す海は時間まで止まってしまったように静かだった。
でも、本当に好きだったのは風の強い日だった。白波が立ち、防波堤に砕け散る水しぶき。灰色の雲の下で表情を変え続ける海を見ていると、海も生きているんだと思えた。
穏やかな日も。
荒れた日も。
朝も夕方も。
海にはいろいろな顔がある。
そんなところが好きだった。
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ある日、テレビで旅番組を見た。
芸能人が沖縄を訪れていた。
「うわぁ、海がきれい!」
「エメラルドブルー!」
歓声とともに映し出された海に私は息をのんだ。
信じられないほど透き通っていた。
空よりも青く、宝石のような海。
え……?
海って、こんな色なの?
同じ海なのに?
もちろんテレビだから、少しは映像をきれいにしているのかもしれない。
そう思った。
でも、あの海はずっと心に残り続けた。
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短大へ進学すると、親が初めてアルバイトを許してくれた。
私は夢中で働いた。
洋服も我慢した。
外食も減らした。
全部、沖縄へ行くためだった。
調べれば調べるほど新しい言葉を知った。
「宮古ブルー」
「与那覇前浜ビーチ」
「離島の海は別格」
そんな言葉ばかり目に入る。
神戸空港から宮古島への直行便があることを知り、行き先はすぐに決まった。
初めての沖縄。
初めての宮古島。
海の近くの小さな民宿。窓を開けると潮の香りがした。
翌朝、歩いて前浜ビーチへ向かった。
そして私は立ち尽くした。
目の前には、言葉では言い表せない世界が広がっていた。
「……何これ」
思わず声が漏れた。
青という言葉だけでは足りない。
緑とも違う。
光を溶かしたような透明な海。
白い砂浜。
ゆっくり寄せる波。
ただ眺めているだけで涙が出そうになった。
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二泊三日の旅行だった。
でも、私はほとんど観光をしなかった。
食事の時間以外は、ずっと海にいた。
砂浜を歩き。
裸足になり。
波と遊び。
何時間も海を眺め続けた。
飽きなかった。
海だけで十分だった。
そして、少しずつ思うようになってしまった。
私が今まで見ていた海って何だったんだろう。
これが本当の海なんだ。
故郷の海は……。
海じゃなかったのかもしれない。
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帰る日の朝、最後に貝殻を拾った。
どれもきれいだった。
旅の思い出として、いくつか袋へ入れた。
神戸空港へ戻る。
窓の外には見慣れた港の海。
子どもの頃から見続けてきた海。
なのに、その日は色あせて見えた。
どこか濁っていて。
狭くて。
本物を見てしまった今では、まるで別物だった。
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翌朝。
まだ薄暗いうちに目が覚めた。
カサ……。
小さな音がした。
耳を澄ます。
カサカサ。
また聞こえる。
何だろう?
部屋の中を見回しても分からない。
ふと旅行バッグを見る。
まさか。
袋を開ける。
貝殻を机へ広げる。
「あっ!」
小さなヤドカリがいた。
貝殻に紛れて、一緒に連れて帰ってきてしまったのだ。
「ああ……ごめん!」
胸が締めつけられた。
でも宮古島へは戻れない。
このまま部屋に置くこともできない。
どうする?
考えた末、私は決めた。
瀬戸内の海へ帰そう。
違う海だけど。
ニセモノの海だけど。
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自転車で十分も走れば浜辺に着く。
朝日を浴びた瀬戸内海。
昨日まで見ていた宮古島の海とは比べものにならない。
砂浜も狭い。
水も透き通ってはいない。
私は波打ち際でヤドカリをそっと砂の上へ置いた。
カサカサ。
すぐに歩き始める。
胸が痛んだ。
「ごめんね……」
涙があふれた。
「こんな海しかなくて、ごめんね」
ヤドカリは何も言わず歩いていく。
私は申し訳なくて、顔を上げられなかった。
涙が止まらなかった。
その時だった。
「わあーーっ! 海だぁ!」
思わず顔を上げる。
ヤドカリが両方のハサミを高く上げていた。
朝日に照らされ、その姿はまるで両手を広げてバンザイをしているようだった。
私は目を見張った。
喜んでいるように見えた。
同時に、小さな男の子が私の横を駆け抜けて波打ち際へ走っていく。
振り返り、大きな声で叫んだ。
「おかあさん! すごい! 海だよ! きれい!」
満面の笑みだった。
私は思わず笑ってしまった。
さっき聞こえた声は、この子だったのか。
それとも――。
そうだ。
ヤドカリの心の声だったのかもしれない。
宮古島の海も海。
瀬戸内の海も海。
どちらも、誰かの大切な海なんだ。
私はゆっくりと海を見渡した。
子どもの頃から遊んできた海。
何度も夕日を眺めた海。
荒れた日も、凪の日も知っている海。
「ニセモノ」なんかじゃなかった。
私は小さく頭を下げた。
「ごめんね」
そして、少し笑った。
やっぱり――。
私は、ここの海が好きだ。
終




