蒼穹に手を伸ばして
「あははっ、空ってこんなにも綺麗だったんだ!」
手を洗わずに、ベランダに出る。
見上げた空は、雲一つない快晴で、冷たい風が頬を撫でていく。
「あぁ、本当に……私は自由だ」
私は、宇宙飛行士になりたかった。
普通の人生じゃなくて、普通じゃない特別な人生を送りたかったから。
でも——。
ベランダの手すりに指をかけたまま、私はそっと息を吐く。
あの夢は、きっともう叶わない。
そう思ってしまったのは、才能がなかったからじゃない。努力が足りなかったからでもない。
ただ、普通の夢じゃなかったから。
私は、夢のためならなんだってして見せた。
空いた時間は、常に勉強をして、部活にも入らず、友達を一人も作らなかった。
だって、私は才能が無かったから。
宇宙飛行士になれるような人々とは、スタート時点が全く違う。だから、私はすべてを捧げて、同じ土俵に立とうとしたんだ。
でもね。そんなことをしても無駄だったんだ。
すべての時間を勉強に回して、全国の模試で三位をとった。
なのに、お父さんも、お母さんも、私の夢に反対した。
『そんな夢、叶うわけない。現実を見ろ』
『いい大学を出て、良い企業に就職する。そして、いい結婚相手を見つけて、子供を産んで、いい家庭を作る。そんな普通の暮らしをしてほしいの』
ばかばかしい。そんな普通に、何の価値があると言うのか。
人生はたったの一度っきり。天国や地獄なんて無いし、輪廻転生なんてあるわけがない。死んだらただの肉塊になるだけ。
それなら、この限られた時間をただ浪費するんじゃなくて、もっと特別なもののために使ったほうがいい。
私の両親は、何度言っても、どれだけ説明しようとも、世間に従えや普通に生きろの一点張りで、ろくな議論にすらならなかった。
先生だってそうだ。私を模範的な生徒にしたかったのかは知らないけど、現実を見てほしいと言われた。
まるで、私が夢を見ること自体が間違いだと言わんばかりの口調で。
『宇宙飛行士なんて、ほんの一握りしかなれない。まずは内申を上げて、いい大学に入ることを考えなさい』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
努力を否定されたわけじゃない。ただ、私の特別でありたいという願いが、簡単に踏みつぶされた気がした。
先生の目には、私の夢なんて映っていなかった。
映っていたのは、ただ扱いやすい優等生の姿だけだった。
私は空を見たかっただけなのに。
もっと遠くへ行きたかっただけなのに。どうして、そんな当たり前の願いすら許されなかったんだろう。
そして、結果がこれだ。
私の両親は、私がいい大学を出ることよりも、夢を諦めさせることの方を優先して、せっかく合格した第一志望の大学の入学金を払わなかった。それも、私に黙って。
そのせいで、奨学金を借りる暇もなく、私はその大学から入学辞退の連絡を受け取った。
もちろん、理由の欄には「本人の都合」と書かれていた。
私の都合なんて、一つも反映されていないのに。
気づいたときには、すべてが終わっていた。
私の知らないところで、私の未来が勝手に決められていた。
だから、私はこうしたんだ。
だって、私が自由になれなかったのは、この人たちがいたせいでしょ。
手の平から、赤い液体が滴り落ちる。
私は最初に、寝ている父親の首を刺した。いくら頭がいいからって、大人の男性に力で勝てるとは思っていない。
でも、それは正面から勝負した時だけ。相手が寝ているのなら、返り討ちなんてされるはずもない。
次に母親。こっちは、興味があったから、身体を縛って目が覚めるまで待った。
そして、起きたところをお腹に一刺し。その後は、刺した包丁をぐるぐると混ぜて、母親の絶叫を楽しんだ。
なんで、とか。愛してたのに、とか言ってたけど、あれはきっと、日本語ではない別の言語だったのだろう。
まぁ、罪悪感などは特に湧かなかった。
ただ、それは両親のことを恨んでたからとかでは無くて、宇宙に行くことが出来なかったから、その代わりに殺人と言う名の『特別』を味わいたかっただけ。
だから、私は……この人生に満足した。
ベランダの柵に登り、手を空に伸ばす。
本来なら、届いたかもしれない場所へ。でも、もう二度と届くことの無い場所へ。
私は前に向かって飛び跳ねた。
生まれた時からずっと、私を縛っていた重力が消え、身体が浮遊感に包まれる。
どうしようもない幸福感と共に、視界が青に染まって、夢だった場所に触れたような気がした。
そして、当然のように地面に墜ちた。




