十四、救えない人間
第七章 救えない人間
カーン……カーン……。
丑三つ時の神社の境内に響く不気味な音。その神社は無人の神社で、今や参拝するものはほぼいない。その、荒れた神社の神木に打ちこまれる釘の音。
最近、この神社に頻繁に通い詰める女がいた。真っ白な着物を着て、頭には五徳とろうそくを。歯を真っ黒にお歯黒にして、大事そうに抱えた藁人形にはひとの毛髪や名前、写真、個人情報がびっしりと書き込まれている。
「あはは。今日もきっと、苦しんでるんだろうなあ」
真っ黒な歯をのぞかせながら、女はまがまがしい笑いを漏らす。
とある会社での日常の一コマ。
「原田くん。書類は出来上がったかね?」
「はい。部長。こちらです」
女――原田恵美子は部長にさわやかな笑みを向け、午前中にと指示されていた書類を手渡す。恵美子の会社は携帯電話を扱う職種で、おのずとアプリにも詳しくなれた。
恵美子の前職はまったく別の業界であるが、不況のあおりを受けてクビになった。クビというよりは依願退職という形だったのだが、その際十分な退職金を受け取っている。
最近の不況で前職と同じ業界はあおりを受けやすいため、再就職はそういった心配のない携帯会社を選んだのだが、これがなかなか難しい。
恵美子は人間関係に疲弊していた。むろん、前職でそういったことがなかったわけではないのだが、ことさら今の業界ではひととの摩擦がいささか複雑だ。あとから入社した恵美子が、先に入社した社員よりも先に昇進したため、恵美子への風当たりは強い。そのうえ、上司からもかわいがられているとなれば、恵美子は陰口の対象となった。
「聞こえてるっていうのに」
ふん、と鼻で笑って、休み時間も同僚とは過ごさない。それが恵美子の孤立を助長した。
それでも恵美子が余裕ぶっていられるのは、きっと毎日の習慣のたまものなのかもしれない。
「なんだか、最近変な夢見るんだよね」
「うそ。私も。おかっぱ頭の女の子がさ」
「マジで? 私もおんなじなんだけど!」
社員のもっぱらの話題は、この心霊現象ともいえる不可解な夢でもちきりである。ただし、恵美子はそれらの夢を見ない。見ないのだが、少女の存在は知っている。知っているどころではない、熟知している。なぜなら恵美子は。
「いい気味」
恵美子は毎晩、さびれた神社であることをしているからだ。
今の会社に入社する前から、呪詛るんというアプリの存在は知っていた。けれど、そんなものはうわさに過ぎないと、気にも留めなかったのが実際である。それが、今の会社に就職して、不可解なうわさが多く耳に入るようになってきた。
携帯を販売する以上、アプリの知識を仕入れるのも社員の務めだ。
「なになに。呪詛るんは丑の刻参りができるアプリ……うそくさ」
始めこそ信じていなかった恵美子だが、ものは試しだと一回だけ、本当に一回だけ呪詛るんを試してみたのが始まりだった。
対象者は会社の同僚だ。恵美子を目の敵にしているお局、その女の名前を書き込んで、恵美子は呪詛を行った。
翌日、そのお局が誰かに押されて駅の階段から落ちてけがをした。
「ま、まさか、ね……」
それは大いに偶然であったが、昨日の今日でこのようなことがあれば、誰でも怖気づくものである。しかし、恵美子は少しだけ他とは違う。恵美子には倫理観がなかった。
「言って、偶然でしょ」
ますます呪詛るんに関する情報を集めるようになった。呪詛を運ぶなにかが存在すること、呪詛返すんですというアプリの存在、呪詛探索アプリの存在。
そしてなにより有力だったのが、『依り代』の存在である。
「これがあれば、呪詛返しの心配もないのか」
そこそこの値段はするが、恵美子はためらうことなくそれを購入した。ストラップ式の依り代である。どういう原理かはわからないが、これはきっと本物なのだと、恵美子は直感で感じていた。なにしろ恵美子は、呪詛るんの『呪いを運ぶ式神』が見えていた。だからこそ、依り代の存在もすぐに受け入れられたのだ。
そこからだ。恵美子が呪詛に傾倒したのは。
呪詛るんでの呪いは毎日行った。一年続けたころには、裏設定の検索除けの権限を受け取り、ますます恵美子は呪詛るんを使った。
それだけではない。恵美子はおのずから呪いを行うようになった。丑の刻参り、つまり午前二時から二時半にかけて、神社の木に藁人形を打ち付ける。五寸釘を何本も買って、恵美子は毎日、毎日丑三つ時になると近所のさびれた神社に向かう。
むろん、呪詛るんも併用している。
気に入らない人間は片っ端から呪っていった。職場の同僚も、元同僚も、元クラスメイトも、SNSで目に付いた気に入らないアカウントも。
それが恵美子の日常となった。毎日人を呪う、誰かが不幸になる。恵美子はもともと、誰かの不幸な話を聞くのが好きだった。だからこそ、呪詛にのめりこむようになった。
そんなある日のことである。
シャラア!
今日も丑の刻参りが無事に終わる、そんなとき、神社の境内に鈴の音が響いた。よもや、誰かいるのだろうか。それだけはならない。丑の刻参りは決してひとに見られてはいけない。見られたのならば、その相手をも呪わなければならない。
恵美子はあたりを見渡す。ひゅううっと冷たい風が恵美子の体を凍てつかせる。やがて白装束を身にまとった恵美子の前に、ひとりの人影が現れる。
「ほんと、質の悪い」
現れた男は、恵美子とたがわず、風変わりな格好をしている。狩衣を連想させる和服に、上下真っ白の服はどこか恵美子と同じ匂いを感じさせた。
そしてなにより、首から下げたしめ縄だ。そのしめ縄の先端に、大きな鈴がぶら下がっている。先ほどの音は、その鈴の音だったようだ。
だとしても、こんなさびれた神社に来るなど、この男は普通ではない。
恵美子は携帯を取り出して、一一〇番のダイヤルを押す。通話ボタンを押せばつながる、というところまできて、恵美子の手から携帯が消えた。
「……は?」
恵美子があっけにとられると、男が顔のわきに恵美子の携帯をかざして、にこりと笑った。
「原田恵美子さん。君はどれだけの人間を呪えば気が済むんだい?」
「……ひと呼びますよ」
「ひとを? この辺りにひとなんていないでしょ」
余裕の表情の男に、恵美子はだんだん腹が立ってくる。
藁人形は予備でひとつ、常に持ち歩いている。藁人形に釘を打つときは、事前に藁人形に髪の毛を仕込むか、相手の個人情報を書き込む必要があるが、今はそれどころじゃない。
恵美子はくるりと後ろを向き、一番近くにあったご神木に藁人形を当てて五寸釘を打ち込んだ。
カアン! カアン!
釘を打ち込む音が境内に響く。しかし男はなんら動じることはなく、恵美子の行動を笑いながら見ている。
やがて男の胸に激痛が走った。どさ、と男が倒れる。恵美子は振り返り男を見おろした。
「……やった……?」
殺す気はない、だが、それなりの呪いは込めたつもりだ。恵美子の呪詛力はいまや普通の人間よりはるかに強い。それを藁人形で呪われたとなれば、男もただでは済まないだろう。
うずくまり地面を這う男を見て、恵美子の顔が笑った。
楽しい。
今までの呪いは不特定多数に、日替わりでその日の気分で呪う人間を変えていたため、その呪いが相手に重く運ばれることはなかった。よくても怪我をする程度の、ほんの遊びだ。
しかし今、恵美子は初めて恐怖を覚えた。
呪詛を行った恐怖ではない。自分が丑の刻参りを行っていることを誰かにばらされた日には、恵美子の社会的な地位は一気に失墜する。せっかく我慢して会社ではいい子を演じてきたのだ、今更それを奪われてなるものか。
男が赤黒い血を吐いた。そこで少し、ほんの僅かばかり恵美子の良心が痛むも、恵美子はそのまま神社の境内を走り去る。
これでいい。これで、自分は呪い返されることはない。悪いのはあの男だ。恵美子の丑の刻参りを見てしまったのが運のつきだったのだ。恵美子は自分のためならば、あの男が死んでもかまわないとさえ思った。それは、恵美子が初めて見ず知らずの人間を呪ったから知り得た感情だ。
どうやら自分は、自分が思っているよりも非情な人間だったらしい。見ず知らずの人間ならば、呪いで死んでもいいと思うくらいには。
家に帰って部屋にこもる。旦那にばれないように、毎晩家を空けるのは非常に気を遣う。しかし恵美子は嘘がうまい。いつもうまくはぐらかして、家を出て毎晩丑の刻参りを実行している。
今日もそうやって普段通りに、何事もなく終わるはずだった。
「やあ、原田恵美子さん」
自室に駆け込んで息を整えて、さて寝ようかと歩き出した時である。
ふと背後に感じた気配に振り返れば、そこには先ほどのあの、うさん臭い男が立っていた。しかも恵美子の呪いはどこへやら、今は元気ピンピンの様子である。
「だ、大輔……!」
旦那を大声で呼ぶも、しかし恵美子の部屋は真っ暗で、自室ではないどこかにいるようである。
恵美子が焦りもがく。旦那の名前を何度も、何度も呼ぶのだが、次第に声すら出なくなる。かすかすと空気だけが口から漏れて、恵美子の周りの空間がゆがむ。
「携帯、忘れていったでしょ」
男が軽い口調で言う。
誰? と恵美子が目で訴える。男はひょうひょうと答える。
「僕は坂野弘彦。しがない陰陽師さ。でもさ、原田恵美子さん。君って本当に質が悪い」
男――坂野は恵美子の携帯を恵美子に握らせる。そうして恵美子をびっと指さして、眉根を寄せて口を開く。
「呪詛返ししても、その依り代のせいで君にはなんら影響がない。本当に抜け目のないひとだ」
「……なん、アナタは……」
声が出たことに恵美子は驚く。
「そうだね。呪詛るんを開発した人間、って言ったら話は早いかな」
「呪詛るんを……? なら、私の味方でしょ? 私の側の人間じゃない」
なんら悪びれる様子もなく、恵美子が言う。ああ、本当に面倒だ。坂野はそんな顔をして、恵美子の足元を指さした。恵美子はその視線の先を見る。
『あはは、ねえ、ねえ。あなたって本当に素敵』
「……! この子がなんだっていうの」
「あれ、驚かないんだ。そうだよね、君ほどの使い手なら、この『呪いを運ぶ式神』も見えて当たり前か」
恵美子は呪詛るんの仕組みを理解している。この少女が呪いを運んで、相手に災いをもたらす元凶だ。いつからか見えるようになったその少女に、だけれど恵美子は親近感を抱いていた。
そして、呪った相手の夢にその少女が現れることを確認するのが、恵美子のひそかな楽しみである。少女の夢を見たとなれば、一〇〇パーセント相手に呪いがかかった証拠だ。
『坂野。あんたにこの子は止められない』
「どうかな。ねえ、原田恵美子さん」
パチン、と坂野が指を鳴らす。すると辺りがゆがんで回って、恵美子はもう、そこにはいなかった。
恵美子が呪った人間の痛み、苦しみが頭に流れ込む。
どんなに憎い相手でも、その人間にだって悩みや苦しみがある。
次に流れ込んだのは、恵美子のように呪詛るんを使ってしっぺ返しを食らった人間だ。そのひとたちは呪詛るんでひとを呪ったことを大いに後悔し、改心し、まっとうな人生を送っている。
はっと息を吐きだす。
「原田恵美子さん。これ以上呪いにかかわると、身をほろぼすよ」
「だからなんですか」
「はあ。やっぱり君って」
呪詛るんを悪用する人間はあまたいる。そのすべてが改心するとは限らない。
森野花江のような子供であれば、その生き方を変えるのは容易な部分はあるだろう。しかし恵美子は、もう三〇を超えたいい大人である。その大人が、自分の意志で呪詛をかけていたとなれば、改心させるのは難しい。
こと、恵美子はひとの不幸が好きだった。誰かの不幸話を聞いてはほくそ笑むのが好きだった。だからこそ、呪詛るんにここまでのめりこみ、あまつさえ自身で丑の刻参りをするようになった。
「原田恵美子さん。悪いことは言わない。呪詛から足を洗ったほうがいい」
「なんで? 私はこれで満足してるのに?」
「それじゃあ、呪いを運ぶ式神の力が増すばかりなんだ。呪詛るんなんてものが存在するせいで、多くの人間が不幸になる。それを止めるためには、その『呪いを運ぶ式神』を滅しなければならないんだ」
坂野の必死の説得にも、恵美子はまるで響く様子はない。落胆する。坂野にはもう、どうすることもできない。
呪った相手の苦しみを、呪詛を行った人間の後悔を知らしめてなお、恵美子には改心の兆しが見えない。
お手上げだ。坂野にだって限界がある。すべての人間を救おうとしたって、坂野が救えるのはその手を握った人間だけだ。恵美子は坂野の手を取らない。ならば坂野も、彼女を救うことは不可能だ。
「後悔しても、助けられないからね」
「助けてなんて頼んでません。でも、アナタ、私と同類のくせにいいひとぶるのはやめたら? 偽善もいい加減にしろ」
すうっと坂野が消えていく。こうまで言われては言い返す言葉がない。
恵美子の傍らで、勝ち誇ったように式神の少女が笑っている。
恵美子は今、依り代のおかげでその身の安全を保っている。それが、その依り代がなくなった暁には、恵美子はどう生きていくつもりなのだろうか。
坂野にだって救えない人間はいる。
「たんさくん。僕はそれでも、依り代を、あの式神を滅するよ」
歯噛みする坂野を慰めるように、たんさくんが『わう』と鳴いた。




