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現代呪詛  作者: 空岡立夏
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十一、依り代の暴走

第四章 依り代の暴走


 ズル、ヒタ。ズル……。

 夜な夜な、不可解な音に悩まされるようになった。そして、手だ。夜眠りにつくと、あまたの小さな手が、ひたりひたりと体にへばりつく。ベタベタと品定めするように触られて、はっと目を開けると夜のはずなのに部屋は明るく、ふと窓ガラスが目に入る。その窓に、びっしりと手形がついていて、ベタベタベチャベチャと音がする。ひゅっと息が詰まる。息をしようともがけばもがくほど肺が圧迫されて、やがて意識が霞んでいく。死を覚悟して目を閉じようにも、それすら叶わない。酸欠で頭の血管がブチブチと切れる音がして、次に目の血管も切れるのがわかる。充血した目が最後に捉えるのは、にたりと笑う、少女の姿。この一連の流れが、毎日続いている。もしかすると、『アレ』のせいかもしれない。


 女は普通の会社のOLだった。普通の高校に行って、普通の大学を出て、普通の会社に就職した。

 就職して五年もたてば、後輩もでき友人も増え、もういっぱしの会社の歯車だ。そんな彼女にも、不満はある。同期の明子が気に入らない。

 明子は同僚にもモテた。仕事もできるし先輩からの信頼も厚い。後輩からは慕われて、よく仕事後に食事がてらいろいろな相談をされているようだ。

 そんな明子と自分を比べては、彼女は深く落胆した。彼女は普通に生きてきた、それが悪いことだとは思わないが、普通に生きてきた彼女の周りには、明子のようにひとでにぎわうことがほとんどない。

 人望がないとも言い換えられるが、彼女はそれを認めたくなかった。

 

 彼女は最近家を引っ越した。給料も安定してきたため、駅チカの安い物件に越したのだ。その部屋がいわゆる『訳アリ』で、なんでも幽霊が出るのだとか。だからその部屋は、いつもひとが居つかないし、家賃もほかの部屋の六割ほどだ。

 彼女は霊というものを信じない。それらは単なる見間違いか思い込みなのだと、彼女はそう思っている。

「ったく、やってらんない」

 そんな彼女は、先日ついに明子への報復に出た。しかし、それは一回限り、魔が差したも同然の、たった一回の過ちである。

「呪詛るんって本当に効くのかな」

 彼女は霊をはじめ、非科学的なものの存在を信じない。だからこそ、この手段で憂さ晴らしを決行した。

「よし。さて、寝よう」

 それっきりだ。彼女が明子になにかをしたのは。悪意を向けたのは。


 そこからだったように思う。彼女に『異変』が起きたのは。夜の怪奇現象に加え、朝起きると、不自然に体が重い。そして、部屋の空気がじめじめとよどんでいる。

 なんだこの違和感は。そう思うも、気のせいだと気を取り直して、彼女は会社へ向かった。

 しかし、道中も石につまずいたり、鳥の糞が当たったり、極め付きは会社で言い渡された辞令である。

「今日から君には、営業部に行ってもらう」

「え、営業部ですか……? でも」

「でも? なんなだね?」

「あの……なんでこの時期に異動なんですか」

「さあ。上からの直々のお達しだ」

 なにか悪い予感がした。

 彼女は広報部の人間で、営業部への異動なんて今まで聞いたことがない。だというのに、なぜよりにもよって自分が異動にならなければならないのだろうか。

 しかし、気の弱い彼女は上司にも言い返せない。仕方なしに営業部に異動したものの、まるで勝手がわからない。

「君、営業舐めてるの?」

「いや、あの」

「全然契約取れないなんて、君みたいな無能な社員、初めてだよ」

 泣きたくなる。

 今まではぱっとしないながらもそれなりにひとの役に立てている自信はあった。だがここにきて、彼女の自尊心はボロボロに崩れ去った。

 家に帰るとよどんだ空気が部屋に広がっていて気が休まらない。なにより、彼女は『夢』を見るようになった。

『ねえ、ねえ。アナタ、素敵ね』

「こ、こないで」

『なんで? ねえ、アナタ、すごく素敵。また――しないの?』

 ばっと体を起こして無理矢理夢から逃れる。まただ。

 いくら疲れているからと言って、同じ夢を毎日見るものなのだろうか。しかも夢の中のあの少女は、いかにも『それっぽい』。

 おかっぱ頭に赤い色の着物、なによりあの声。一度聴いたら忘れられない。まるで無邪気な子供のようなのに、どこか恐ろしさを感じる。耳にこびりついて離れない。

 彼女は眠るのが怖くなった。もうだめだ、これはきっと、『呪詛るん』を使った自分が呪われてしまったからだ。

「すみません、しばらく休みます」

『休む? どういうつもりだ?』

「すみません。有給全部使います」

『もういい! そのまま辞めてしまえ!』

 電話でもさんざん言われながら、彼女はとうとう長期の休みを取った。本当ならば、旅行に充てるはずだった有休を、二十日間全部、一気に。

「もうだめだ……」

 思考がどんどん沈んでいく。もはや生きる糧がない。なにをしてもうまくいかない、おまけにこの部屋だ。この部屋にいるだけで気分がどんどん暗くなるし、嫌なことが立て続けに起こる。

 やはり引っ越したほうがいいのだろうか。

 シャララ。

 鈴の音が、聞こえた。

 とうとう耳が壊れたのだと思った。彼女は布団にもぐりこむ。耳をふさいで、なにもかもを拒絶した。

『わん! わふ!』

 犬の鳴き声まで聞こえてくる。本当にどうかしている。もう末期だ。このまま。そうだこのまま窓から飛び降りよう。もう生きる意味が分からない。毎日なんのために働いているのか、なにが楽しくて生きながらえているのか。

「やあ、八戸みことさん」

 シャララ。鈴の音とともに聞こえたのは、若い男の声である。

 彼女――みことはかぶっていた布団を引っぺがされて、そこで初めて、鈴の音の正体を知った。

「……不審者……」

 しかし、叫びをあげることも、警察に電話をすることもしなかったのは、もうだいぶみことが疲弊しているからである。

 ふらりと立ち上がった彼女は、男を無視して窓際に歩く。そのままガララと窓を開け放ち、桟に足をかけた。

 その、みことの手を男がつかんだ。

「離してください」

「君はちょっと呪われてるだけなんだ」

「のろい……? はっ、そんなもの、私が信じるとでも? 新手の詐欺ですか?」

 男がどこから現れたのかは、この際もうどうでもいい。というよりは、みことはそこまで思考が回らないのだ。擦り切れた脳みそは正常には働かない。

 これが『うつ』なのだとみことはうっすらと思うも、死にたい気持ちは内から消えない。

「僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なんだけれど」

 男――坂野がみことの腕を引っ張る。そうして部屋の真ん中まで連れてきて、ふうっとひとつ、ため息をついた。

「今、面倒な女って思いました?」

「そんなこと」

「でも、ため息つきましたよね」

「うーん、重症だね」

 笑みを湛えながら、坂野が天井を指さした。

「君の部屋には、『いる』んだよね」

「いる……?」

 坂野の言葉に、思わずみことが反応する。いる。つまり、霊的なものだろうか。

 確かにこの部屋はどこか不可解だ。しかし、最初からそうだったわけではない。

「君、呪詛るん使ったでしょ」

「……! なんでそれを……」

 一番知られたくない、人生で最大の汚点だ。誰かを呪うなんて、人間としてあるまじきこと。だというのに、この男はどこでその秘密を知ったのだろうか。

「盗聴器……盗聴器仕掛けたんですか?」

「まさか。僕は坂野弘彦。陰陽師なんだけれど」

「陰陽師……?」

 まるでファンタジーの世界だ。みことは胡乱な目を坂野に向ける。そんなことを信じる人間がいてたまるか。

 しかし、坂野はひょうひょうとした表情で、続ける。

「君の天井裏。見てごらんよ」

「……怪しいひとの言うことなんか」

「いやだなあ。じゃあ、証拠見せる?」

「なにを……。!?」

 みことが言い返した時である。坂野が胸の前に人差し指と中指を立てて、そうしてみことの脳に鮮明に流れるなにか。

 なにか、ではない。これは明子だ。大嫌いな明子の『記憶』だ。

「最近、ついてないなあ」

 そんなことに悩んでいるとは思わなかった。みことはいつも、明子をうらやんでいた。明子には悩みなんてひとつもないと思っていた。すべてに恵まれ甘やかされて、そうやってなにひとつ苦労なく生きてきたのだと思っていた。

「お母さん、体調はどう?」

「ああ、お陰でよくなったよ」

 母親が病気だなんて一言も聞いたことがなかった。

「なんでお母さんが、癌なのよ」

 しかも癌だなんて、そんなこと、顔に出したことだってない。

 お母さんの余命がもう長くないことも、毎日理由のない不調に悩まされていることも。なにも知らなかった。自分は明子のなにを見てきたというのだろう。

「みことさん、異動先でうまくやれてるかな」

 そしてなにより、みことのことを気にかけてくれていたなんて、全く知らなかった。

 人間は薄情だ。それはみことが今まで生きてきて知りえた嘘偽りなき真実。だが、明子のような人間も存在するのだと、みことは今、この瞬間まで気づけなかった。自分に余裕のない人間は、他人のやさしさに気づけないものなのだ。むろん、明子のような人間ばかりとは限らないが、それでもみことは、自分が恥ずかしくなってくる。

「……っは……! 今のは……」

「わかった? 僕は陰陽師で」

「それはもういいから。今見たのは、なに?」

「わかってるくせに。僕の陰陽術で、明子さんのほんの一部を見せただけだよ」

 坂野がうさん臭く笑っている。信じるほかにない、こうまでされては。

 みことはベッドに椅子を乗せて、天井を外す。懐中電灯で天井裏を覗けば、端っこのほうになにかが見えた。

「なにかあります」

「うん。それを取ってきて」

 目いっぱい手を伸ばして、みことはそれを手に取った。小さくて柔らかな感触に、ぞっと背筋が粟だった。

 天井裏から戻ってきて、みことはそれをまじまじと見る。不細工なぬいぐるみだ。しかもくまの。

 みことの手のなかで、人形が震える。

『ががっががっがが』

 人形がなにかをしゃべる、いや、地響きに近い。うめき声のようなそれが、みことの部屋に響く。

「これは依り代」

「依り代……?」

「そう。これは好きな人間を振り向かせるためのまじないがかけてあるんだ」

 みことは首をかしげる。この部屋には誰も呼んだことがない。だとしたら、前の部屋の住人によるものだろうか。

 坂野がぬいぐるみに触れると、ぴたりとうめき声がやんだ。

「昔はね、呪いって書いて『まじない』って読んだんだ。だからね、このぬいぐるみは君の呪いに反応した」

 言わずもがな、みことは呪詛るんを使った。坂野はそのことを言いたいのだ。しかし、みことのなかでそれらは結びつかない。

「つまり、どういうこと?」

「君が呪詛るんを使ったから、このぬいぐるみにかけてあった呪いが暴走してしまった」

 合点がいく。確かにみことが呪詛るんを使ったあの日から、不可解なことが続くようになった。

 みことは坂野に懇願する。

「の、呪いを解くにはどうしたらいいんです?」

「どうもこうも。だからこうして僕が来たんじゃない」

 あーあ、と坂野が肩をすくめる。

「呪詛るんってね、僕が作ったアプリなんだけど」

「え……ちょっと意味が」

「うん。それでね、まあ呪詛るんを使ったせいでこの依り代が暴走したのなら、まあギリギリ僕の責任範囲かなって」

「え、え?」

「わからなくていいよ。でもね、これだけは覚えておいて」

 坂野はぬいぐるみを握りつぶす。ぐちゃりと歪んで、やがてぬいぐるみは消えていく。なにがなんだかわからない。わからないながらも、みことはこれ以上言及するのはやめた。踏み込んではならないと思ったのだ。

 みことは今も霊やその類は信じない。信じてしまえば、この先みことは、呪詛るんを使ったことを後悔しながら生きなければならない。そんなのごめんだ。

「君の罪は、ほかの誰が見ていなくても、君自身のなかにある。わかるね?」

 そう甘くない。この坂野という男は。

 自覚したくなかった。みことは呪詛るんを確かに使った。けれど、それは呪詛るんが『本物』だと知らなかったからだ。だからこそ、呪詛るんなんてものを使ってしまった。自分は悪くない、そう思いたかった。だが、きっとこの罪は、未来永劫許されない。

「ひどいですね、坂野さんは」

「そうだね。だから、僕は僕自身も許してないよ」

「そんなの、ただの自己満足じゃないですか」

 呪詛るんを作ったと言っていた。ならばすべての元凶は坂野自身にある。坂野はそれを知っているからこそ、他人にも厳しい言葉を向ける。そんなのただの自己満足だ。

「今日を境に、また普通の生活に戻れると思うけど」

「……」

「忘れないで。呪詛るんなんて使っちゃいけない」

 言われなくともそうするつもりだ。

 後味の悪い事件だった。みことはその後、広報部へと戻ることができた。しかし、明子への罪悪感は消えることはなかった。


 依り代が思いのほか世間に浸透している。先の件のぬいぐるみも、依り代のひとつである。おそらくその人物は、依り代となるものにまじないをかけている。先の件では、ぬいぐるみにまじないをかけた。意中の相手を振り向かせるまじないであるが、依り代を相手の近くに置く必要があったのだろう、あの部屋の天井裏にぬいぐるみがあったのがいい証拠だ。まじないの効果はそう長くは続かない。よくて一か月程度だ。だが、みことの件では、みことが呪詛るんを使ったことによりそのまじないが暴走した。呪詛るんとの相性は最悪だ。

 坂野は呪いをたどる。みことの家で回収したぬいぐるみに染みついた呪いを、たんさくんにたどらせている。月食が月を食む、夜のことだ。

「たんさくん……?」

 その、道中である。少し目を離した隙に、たんさくんがいなくなった。辺りの気配を探っても、どこにも見当たらない。

 よもや、契約が切れたのだろうか、あるいは、坂野よりも霊力を得て、契約が無効になったか。

 いずれにせよ、たんさくんなしに坂野は呪いをたどれない。

「あら、どうかしたのかしら?」

 あっちこっちとたんさくんを探し回る坂野に、とある女性が話しかけてきた。金髪の、スタイルのいい女性である。容姿からするに、日本の女性ではない。しかし日本語は流ちょうであるから、日本で生まれ育ったのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと思いながら、坂野は女性を凝視した。どうして自分のことが見えるのだろうか。

 坂野は普段、一般人からは見えない存在だ。坂野自身が呪われているため、この世のものではなくなったからだ。そんな坂野を目視できるとなれば、呪詛にかかわってきた人間か、あるいは霊力の高い人間か。

 どちらにせよ、厄介だと坂野は思った。

「こんにちは、お嬢さん。なんでもないんだ、ちょっと探し物をしているだけで」

「あら、じゃあ手伝うわ。ひとりよりふたりのほうが早いでしょう?」

「いや、君じゃ見つからないと思うから、遠慮しとくよ」

「ひどいわね。私、こう見えて探し物は得意なのよ」

 女性がぷいっと頬を膨らませた。坂野は心底迷惑顔だ。どうにかしてこの女性を巻かなければ、たんさくんを探すことも、ぬいぐるみの呪いをたどることもできない。

 いや、待て。この女性は坂野の姿が見える。ならば。

「こう……毛むくじゃらのこれくらいの犬を見ませんでした?」

「犬? これくらいの、可愛い犬かしら?」

「いや、可愛くはないかな。ふてぶてしくて、太ってる」

「ひどいわね。ワンちゃんがかわいそう」

 なぜか女性はたんさくんの肩を持つ。愛犬家なのだろうか。しかし、今はそんなことはどうでもいい。坂野が今一度問えば、女性は「知らないわ」と答えた。

「でも、そうね。アナタが探している呪いなら、私知ってるわ」

「何者だ……?」

 ずずず、っと坂野から威圧感が放たれる。しかし女性はものともせず、すました顔で答えた。

「ひどいわね。私ってほら、鼻が利くのよ」

「……同業者かい? ならなおのこと、僕の正体はわかると思うが」

「ええ、知ってるわ。よーく知ってる。この業界じゃ、有名だもの」

 女性の真っ赤な唇が弧を描いた。うさん臭い。この女はなにか妙だ。そう思うも、坂野はいまいち女性を突き離せない。

 正直、たんさくんがいなければ坂野は呪いをたどれない。だが、どういうわけかたんさくんはどこかに行ってしまった。もしかすると、あのエドガーが連れ去ったのかもしれない。そう考えると、なにより先にたんさくんを探し出さねばと思わされる。

「じゃあ、犬を探してくれるかい?」

「犬を? もう、その前にそのぬいぐるみの呪いが先。その呪い、今日がリミットよ」

 なぜそれをこの女が知っているのだろうか。坂野が女性から距離を取るも、女性は何食わぬ顔で歩き出す。

 坂野はその背中を、鋭く見ていた。

「そんなに見られたら、恥ずかしいわ」

「君が何者かは知らないけれど、僕が君に従ういわれはない」

「そうなの? それならいいんだけれど。でも、その呪い、あそこが元凶よ。もしかしたらたんさくんも、先にそこにいるのかも」

 女性は振り向きもせずに進んでいく。坂野はいまだ、足が動かない。女性に感じる違和感と、それ以上にどこか信頼できるような、相対する感情。自分はまだ人間だと思っていたのだが、もしかするともう、坂野は人間ではなく式神に近い存在になってしまったのだろうか。だからこの、得体のしれない人間に従ってしまうのだろうか。

「行くの? 行かないの?」

 試すように言われ、坂野は逡巡する。答えなんてわかりきったことだ。正体もわからない人間の言うことなんて、聞いていいわけがない。そのはずだった。

「真偽を確かめに行くだけ、だからね」

 嬉しそうに女性が笑う。いったいこの人間はなんだというのだろうか。坂野にはわからない。わからないが、従ってしまう。

 意識を女性からそらすように、坂野はぬいぐるみの呪いに思いを馳せた。


 たんさくんとはぐれた場所からすぐそこのマンションの一室。

「ここの七〇一号室よ」

「嘘だったら許さないからね」

「あら、心外」

 女性が笑う。坂野が右手を胸の前に掲げる。そのまま人差し指と中指を立てて、坂野の姿が消えていく。その様子を見て、女性が満足そうに笑っている。なにがおかしいのだろうか。坂野は顔をゆがませて、不機嫌に七〇一号室へと姿を移動した。


***


 最近、妙な視線を感じる。

 男は疲れた体を引きずって、ようよう家までたどり着いた。

「ただいま」

「お帰り。早かったね」

 同棲している彼女の笑顔を見るだけで、男は一日の疲れが吹き飛ぶような気がした。

 男の恋人は、二歳年下の後輩である。高校時代に知り合って、大学時代に一度告白を受けている。しかし、男はその告白を断った。単純に、彼女を女性として見られなかったからである。

 だが彼女はめげなかった。男にお弁当を作ってきたり、毎年バレンタインにはチョコレートを手作りした。おかずの差し入れをもらったり、いい愚痴聞き相手になってくれたりと、彼女の献身的な態度に、男は少しずつ心を開いていった。それが今では結婚も考えるほどの仲で、周りからもラブラブカップルともてはやされている。

「そういえば。結婚したら家はどうする? さすがにここじゃ狭いし」

「いいよここで。私は狭いほうがたつくんとくっついていられてうれしいな」

「かわいいかよ!」

 今日も今日でふたりはいつもの一日を終えるはずだった。鈴の音が、聞こえるまでは。

 シャララ。

 彼女の顔色が変わる。

「今、鈴の音聞こえなかった?」

「き、気のせいだよ。ねえ、買い物、買い物行かない?」

「え? 今から? 夜中なのに?」

「ほんと、君たちって馬鹿なの?」

 ぬっとあらわれた人影に、男だけが驚きを見せた。彼女はすぐさま身構えて、手あたり次第物をその男に投げつけた。

「いたた。痛いな」

「な、アンタどこから」

「いやね、僕は陰陽師の坂野弘彦って言うんだけど。痛いな、ちょっと、やめてくれる?」

 どこか不機嫌に、人影――坂野は彼女をびっと指さした。とたん、彼女の動きが止まり、目だけがぎょろぎょろと動いている。

「うー! うー!」

「ちょっと黙ってて。それで、中村達也くん。君、呪われてる」

「……は?」

 坂野は部屋中に飾られているぬいぐるみをぐるりと指さして、そのままなにかを唱え始める。

 やがてぬいぐるみが呻き震え、男――達也はその場で頭を抱えた。

「痛い……痛い、なんだこれ……!」

「うん、もうそろそろ目が覚めるかな?」

 がががっがっが、とぬいぐるみが震えている、その振動が止まった時、男の頭がクリアになって、その場の光景に絶句した。

「あやみ……! なんでここに……俺は……」

「斎藤あやみさん、君って本当に趣味が悪い」

 坂野があやみを指させば、あやみの口の自由が解かれる。

「……っは。や、やだな、たつくん。私だよ、あやみ……」

「知ってる! そんなことは! 君はストーカーで、警察にも接近禁止命令が出てて」

「な、なに言ってるの。私たち、結婚するんでしょ」

 必死の形相のあやみに、達也は恐怖の視線を向けた。

 簡単な話だ。あやみはストーカーで、ぬいぐるみの依り代の力で、嘘の恋人になっていただけ。ただそれだけの話なのだ。

 しかし、普通の人間ならば、ここまで依り代を何重にも使うことはしないだろう。あやみの常軌を逸した行動に、坂野もややあきれている。

「本当なら、僕は依り代は専門外なんだけれど。知ってしまったからにはほっとけないし」

「さ、坂野さん。助けてください」

「うーん。僕もこの依り代の作り手を探してはいるんだけれど」

 坂野が依り代とかかわるのは、その作り手を探しているからだ。もしかすると、この依り代が坂野の明暗を分けるかもしれない。だからこそ、こうして呪詛るんと関係のない呪詛をたどっているのだ。

「中村達也くん。僕ができるのはここまでだ。依り代の出どころは調べはするけれど」

「そんな、そんなの無責任だ。アナタ、陰陽師だって言ってたじゃないか」

「それはそうだけど」

 今日の坂野は機嫌が悪い。いつもならこんな手荒な真似はしない。だが、それでも坂野も人間だ。機嫌が悪いことも、調子が悪いことだってある。

 坂野は「うーん」と考えるそぶりを見せる。やがて、懐から一枚の紙切れを出して、そこに霊力を込めていく。

「とりあえず、依り代の効力を無効にする呪符。これであの子からは身を守れると思うけれど」

「あ、ありがとうございます!」

「やめろ! 私とたつくんの仲をさくなんて!」

 あやみが吼える。こればかりはどうしようもできない。呪詛るんの関係者であれば、もう少しやりようがあったものを、坂野は依り代に関しては素人も同然だ。荒療治でしか対処できない。

 坂野があやみの額に人差し指を当てる。するとあやみは黙り込んだかと思えば、けたたましい叫び声をあげて、その場に意識を失った。

 一部始終を見ていた達也は、恐る恐る坂野に問う。

「なにをしたんですか……?」

「いや。知らなくていいよ」

 これでよかったのか、坂野にもわからない。

 坂野は少しだけ、ほんの僅かばかりあやみに知らしめたのだ。自分がしてきたことを、あやみ自身にも疑似体験させた。

 これで効果があるのかは坂野にもわからない。だが、きっとしばらくは頭を冷やして、達也へのストーカー行為もやむだろう。

「ひとの心は呪いでは得られないからね」

「ありがとうございます。坂野さん」

「うん。それで、そうだ。犬を見なかったかい?」

 思い出したように坂野が言うと、達也は首をかしげて、坂野の足元を指さした。

「そこにいるじゃないですか」

『わん! わうわう!』

「あれ? たんさくん、いつからいたの」

 初めからいたと言わんばかりに、たんさくんが坂野の腕のなかに飛びあがった。反射的にたんさくんを抱きとめて、坂野ははて、と首を傾げた。

「それじゃあ、僕らはこれで行くけれど」

 坂野の姿が消えていく。依り代となったぬいぐるみたちとともに。

 腕のなかのたんさくんが、満足げに眠りにつく。


 ひどく疲れた一日だった。そう思いながら、達也は休む間もなく荷物をまとめる。

 しばらくは仕事も休みことになるだろう。いや、もしかしたらもうここにはいられないかもしれない。ここから遠く離れた場所で、あやみに知られないよう、息をひそめなくてはならない。

 依り代によって嘘の恋人として生きていくほうが幸せだったのだろうか。そんな考えを払しょくするように、達也はこの日以来、あやみの知らぬ地で生きていくこととなる。





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