まだ、届かぬ刃
あれから半年――。
早朝の訓練場に立つリリアーナの姿は、もはや日常の一部になっていた。
まだ夜の冷気が残る空気。
吐く息は白く、足元の土はしっとりと湿っている。
リリアーナは、その中央で木刀を振る。
――ひゅん。
風を切る音が、静寂に鋭く響いた。
その音は、半年前よりも鋭い。
「……ふぅ」
額の汗を手の甲で拭う。
素振り百回。
最初の頃は、百回どころか三十回で腕が震えていた。
木刀を落とし、唇を噛みしめていた。
そのたびに響いたのが、サクマの声だった。
だが今は違う。
叱責の声は、ほとんど聞こえなくなった。
それはつまり――基本が身についた証。
「よし。少し休憩したら、対戦練習だ」
「はい!先生」
岩場に腰かけ、水を喉へ流し込むリリアーナ。
「だいぶフォームも安定したな。息も乱れなくなったし。俺の教え方がいいからな」
すかさずリリアーナが右手を上げる。
「はい、先生!それは私が努力したからだと思いまーす」
口をとがらせる。
その子どもらしい表情に、サクマは小さく鼻で笑った。
(まさかあのちっこいお嬢様が、ここまでやれるなんてな)
正直、最初は貴族の気まぐれだと思った。
貴族の令嬢の、暇つぶし。
すぐに飽きてやめる。
そう思っていた。
それが半年。
毎日欠かさず木刀を振る。
小さな掌には、何度も潰れたまめの跡。
ここにいない日も、自主練をしているらしい。
あの小さな体に、どこからそんな気力が湧くのか。
女で、華奢で、剣向きとは言えない体格。
それでも彼女は、努力でそれを覆そうとしている。
おそらく俺たちの何倍も鍛えなければ、同じ地点には立てない。
それを――目に見える形で、結果にしている。
(正直、ここまで出来るとは思っていなかった)
リリアーナを見る目は変わった。
(興味半分で付き合うつもりだったが……俺も負けていられないな)
彼女は、もう“教え子”というだけではない。
同じ剣を握る者として、きちんと向き合う相手になっていた。
「リリア、対戦だ」
はっとして立ち上がる。
二週間前から始まった対戦練習。
だが、まだ一度も彼女の木刀は、サクマに届いていない。
今度こそ――
「行くぞ、リリア!」
言い終わると同時に、踏み込む。
カンッ!
木刀がぶつかる甲高い音。
(……この速さを、受け止めるか)
力は抑えている。だが速さは本物だ。
苦しげな表情で、必死に受け止めるリリアーナ。
腕が震えている。
だが、逃げない。
何度も振る。
何度も弾かれる。
対照的に、サクマは汗一つかいていない。
十三歳と、六歳。
体格差、筋力差、経験値。
埋まらない壁は、確かにある。
それでも――。
最初は素振りだけで息を切らし、体を震わせていた少女が、今はここまで食らいついてくる。
(……これは、本気でやらざるを得ないな)
回を増すごとに、訓練は熱を帯びていく。
それは自身の鍛錬にもなっていた。
「相手の動きと思考を読め!次に何が来るか予測して動け!」
「はい!」
カンッ――!
わずかに、木刀の軌道が変わる。
(……今のは)
ほんの指一本分。
だが確実に、俺の守りを崩そうとした。
「今の、悪くない」
サクマは思わず口にしていた。
(……なんだ?今の間合い)
一瞬、空気が変わった気がした。
錯覚か?
背筋に、わずかな違和感が走る。
ほんの一瞬、
リリアーナの気配が消えたように見えた。
だが次の瞬間には、いつもの少女に戻っていた。
やがて東の空が淡く染まり始める。
「……そろそろ時間だな。今日はここまでだ」
サクマは、ゆっくりと木刀を下ろした。
「先生、ありがとうございました」
深く一礼するリリアーナ。
岩場にかけておいたタオルで、滴る汗を拭う。
そしていつものように、鞄から袋を取り出した。
「今日はね、マカロンなの。私の1番好きなお菓子よ」
リリアーナはニコッと微笑んだ。
「ま、かろん?」
不思議そうな顔で、手にした袋をみつめるサクマ。
「メレンゲで作ったお菓子なの。ふわふわサクサクで、中にクリームが入ってる。美味しいよ」
袋から一つ取り出し、口へ運ぶ。
さくり、と軽い音。
甘さがふわりと広がった。
見開いた目が、キラキラと輝く。
「……うまいな、これ」
「でしょー。色々な味があるから、後でゆっくり食べて」
「あぁ。ありがとな」
「しかし……」
リリアーナは息を深く出す。
「なかなかサクマ先生に当たらない……」
悔しそうな顔。
その表情に、サクマは口角を上げた。
「まず経験値が違うからな」
「そりゃそうだけど……」
分かっていても、悔しいのだろう。
その顔が、嫌いではなかった。
「じゃあ、お前の木刀が一回でも俺の身体に触れられたら、なんでも言うこと聞いてやるよ」
ぱっと顔が上がる。
「ほんと?」
「あぁ。一回だけな。当てられたら、だけどな」
「約束だよ」
「あぁ……約束だ」
騎士たちの声が近づく。
「じゃあ帰るね。今日もありがとう」
足早に去る背中を見送りながら、サクマは思う。
なぜ貴族の令嬢が、ここまでして剣を求めるのか。
何を背負っているのか。
聞けずにいる問い。
だが一つだけ確かなことがある。
彼女の『強くなりたい』と思う気持ちは本物だ。
けして根をあげない。
意思の強い目。
「さて……次は少し攻め方を変えるか」
自然と口元が緩む。
(教えているはずなのに……鍛えられているのは、俺の方かもしれないな)
彼女と剣を交えるたび、自分の未熟さを思い知らされる。
負けたくない。
あの小さな背中に、追い越されるわけにはいかない。
――もっと強くなる。
朝日が差し込む訓練場で、サクマはもう一度、木刀を握り直した。
その手には、いつの間にか力がこもっていた。




