まだ、始まったばかり
訓練服に着替えたリリアーナは、まだ朝の冷気が残る騎士団訓練場に足を踏み入れた。
砂を踏みしめる音が、静まり返った空間に小さく響く。
いよいよ今日から、初めての剣の訓練が始まる。
胸の奥が落ち着かず、期待と緊張が入り混じる。
その高鳴りを押さえ込むように、リリアーナは深く息を吸い、ゆっくりと木刀を握りしめた。
「先生! 本日からよろしくお願いします!」
そう声を張り上げると、目の前に立っていたサクマが少しだけ目を見開いた。
『先生』と呼ばれているが、剣を教えるにあたって本人の希望でそう決まった呼び名だ。
どこか照れくさそうにしながらも、胸を張り、軽く咳払いをする。
「よし!まずは素振りからだ。やってみろ」
「はい!」
リリアーナは足を開き、構えを取る。
一度、静かに息を整え――
「はぁ――っ!」
大きく振りかぶり、木刀を真っ直ぐに振り下ろした。
風を切る乾いた音が、朝の空気を裂く。
「……へぇ」
サクマは少し意外そうに目を細めた。
「ちょっと独特だけど、結構様になってるじゃん」
その言葉に、小さな自信が芽生える。
実は前世で剣道を少しかじっていた。
他の競技ほどではないが、全くの素人というわけではない。
「しかし……」
その思いを見透かしたかのように、サクマは言葉を続けた。
「基本はまぁまぁできてる。でもな、細かいところは全然ダメだ」
リリアーナの前に立ち、姿勢を確認する。
「背筋は真っ直ぐ。顎は引きすぎるな」
「はい!」
「肩に力が入りすぎだ。抜け。手首も」
「はい!」
「腕で振るな。体ごと動かすんだ」
「はい!」
何度も木刀を振り下ろす。
「まだ力が入っている!抜け!」
「はい!」
ただ振るだけの動作。
だが、その一振り一振りに、剣の基本が詰まっている。
リリアーナは黙々と木刀を振り続けた。
(剣道はやったことがある。でも……全然違う)
武道として知っていた動きと、実戦を想定した剣の動き。
その違いを、腕と肩に焼き付くような疲労と共に思い知らされる。
改めて剣を扱う難しさを、身に染みて感じた。
それから、サクマは何度も同じ言葉を繰り返した。
力を抜け、姿勢を正せ、視線を落とすな。
その言葉に応えようと、リリアーナは何度も木刀を振り下ろす。
「……そろそろだな。他の騎士たちが来る時間だ」
サクマの言葉に、リリアーナははっと顔を上げた。
気付けば空はすっかり明るくなっている。
無我夢中で、時間の感覚を失っていた。
休むことなく木刀を振り続けた腕は、悲鳴を上げていた。
荒い息遣いと、額から流れ落ちる汗が、彼女の努力を物語っている。
「……もう、そんな時間なのね……はぁ……はぁ……」
力の抜けた手から、木刀が地面に転がり落ちた。
「よく頑張ったな。正直、途中で根をあげると思ってたよ」
「……だって、強くなるって……言ったじゃない……」
息を乱しながら答えるリリアーナ。
「訓練続けてたって話、本当みたいだな。最後まで木刀を持ち続けたのは大したもんだ」
「……ありがとう。それと、これ。今日のお礼」
リリアーナは鞄から小さな袋を取り出し、サクマに差し出した。
「今日は、バタークッキーよ」
袋を受け取った瞬間、サクマの目がぱっと輝いた。
普段の引き締まった表情が一気に崩れ、年相応の少年の顔になる。
その様子を見て、疲れが少しだけ報われた気がした。
「……フフ。本当に甘いものが好きなのね」
「うっ……」
顔を赤くしながら、サクマは言い訳するように口を開く。
「お貴族様はいつでも食べてるんだろうけどな。俺たち一般人には、簡単に手に入らないんだよ」
(そうか……)
自分にとって当たり前だったものが、誰かにとっては特別な贅沢。
その事実に、胸がちくりと痛む。
(もし、このままお姫様として、守られて生きるだけなら……。それは、神様が言う“楽な人生”だったのかもしれない)
でも――
(私は剣と魔法を使いたい。誰よりも強くなりたい。)
「サクマ……」
「ん?」
クッキーに夢中な彼に向かって、リリアーナは言う。
「私、強くなりたいの。だから……これからもよろしくお願いします」
その真剣さが伝わったのだろう。
サクマは手を止め、真正面から彼女を見据えた。
「あぁ、俺がお前を、ちゃんと強くしてやるよ」
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その日の夕方――
「リリア、どうしたの?顔色が悪いわよ」
母・リュシアが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫です」
そう答えながら、ナイフを持つ手が小刻みに震えた。
(肩が、上がらない……。力が入らない)
サクマとの特訓で、腕が限界だった。
「最近様子がおかしいぞ。何かあったのか?」
兄・ヴァルターも、案じるような目を向ける。
「大丈夫です。本当に何もありません」
「何かあったら言いなさい。みんな、リリアの味方だ」
父・アルベルトの言葉に、家族が揃って頷いた。
「……ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
気まずさを胸に押し込み、微笑む。
(心配されないように……やり過ぎないようにしなきゃ)
その日の食事もまた、気遣いと心配に包まれた時間となった。
食事を終え、部屋へ戻る廊下を歩く。
腕は重く、足取りもいつもより遅い。
廊下の壁に掛けられた装飾が、いつもより遠く感じられた。
それでも、明日もまた、剣を振るだろう。
(……まだ、始まったばかりだ)
強くなりたい。
例え素質がないとしても、乗り越えて、私は強くなってみせる。
その思いだけが、今は胸の奥で静かに息づいていた。
(とりあえず、戻ったら、マッサージをしよう)
リリアーナは小さく息を吐き、そっと手を握りしめた。




