ざわめきの始まり
「戦争って……お父様、大丈夫ですか?」
父・アルベルトは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「あぁ……大丈夫だよ。怖がらせてすまない。リリアのいるこの国で、簡単に戦など起こさせはしないよ」
優しく頭を撫でる。
温かい手。
変わらぬ、慈しむような笑み。
――けれど。
それが無理をしている笑顔だと、リリアーナはわかってしまった。
「お父様……」
「ほら、もう遅い。子供は寝る時間だ」
頬に触れる温もりが、かえって胸を締めつける。
「はい……おやすみなさいませ」
リリアーナは静かに執務室を出た。
扉が閉まる直前まで、そこには優しい父の顔があった。
(助けたい……お父様を。みんなを……)
部屋に戻ったリリアーナは、そっと寝台に腰を下ろす。
そして、前世の記憶を探った。
ここは、日比野莉子として生きていた時に夢中になっていたゲーム、『レジェンド・オブ・アルディア』の世界。
はっきりした年は思い出せない。
だが――
リリアーナがまだ幼い頃、隣国との戦争が起きたはずだ。
(それが……たぶん今なんだ……)
その国の名は――アグリア王国。
穀物で栄えた、豊穣の国。
だが例年にない干ばつが続き、大地は割れ、穀物は実らず。
やがて深刻な不況へと落ち込んでいく。
民は荒れ、王都では暴動が起きた。
そして――戦争。
けれど、理由は、ただの凶作だけではなかったはずだ。
(何かがあった……)
干ばつをきっかけに、国内の不満が爆発し、その混乱を利用した勢力がいた――。
そこまでは、覚えている。
けれど肝心な部分が、思い出せない。
どうしても思い出せない。
(何だった……?)
胸の奥がざわつく。
ただ一つだけ、確かなことがある。
このまま進めば、国境で血が流れる。
そして――国は荒れる。
勝っても、傷は残る。
(……そんな未来には、させない)
拳を小さく握る。
未来を知る私だからこそ、守れるものがある。
そう、信じたい。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
翌朝。
「おはよう、リリア。昨夜はよく眠れたかい?」
いつもと変わらぬ、穏やかな声。
「はい。ゆっくり休ませていただきました」
「そうか……それはよかった」
小さく息を吐くアルベルト。
(お父様……目の下に影が……)
自分のことより、いつも娘を案じる優しい父。
だからこそ、守りたい。
「皆揃ったな。いただこう」
朝の光が差し込む食堂。
温かなパンの香りがふわりと広がる。
焼きたてのパンを手に取りながら、母がふと口を開いた。
「そういえば……王都で、パンの値段が少し上がっているそうですね」
母・リュシアの何気ない世間話のような声音。
だが、その一言でほんのわずかに空気が変わった。
アルベルトは手元の杯を置いた。
「……それは何処で聞いた?」
「今朝、料理長が話しておりましたの。小麦の仕入れ値が上がっていると」
「そうか」
一瞬の間。
「なら、その分は城で補填すればいい。備蓄分も十分ある」
穏やかな声音。
けれど、わずかに硬い。
その違和感に気づいたのは――リリアーナだけだった。
「そうですわね。美味しいパンをいただくためですもの。少しくらい上がっても仕方ありませんわ」
リュシアは微笑み、紅茶を口にする。
何事もなかったような和やかな空気が戻る。
けれど、すでに影響が出ている。
小麦の値が上がるということは、商人が動き、不安が広がり始めているということ。
リリアーナの胸がざわめく。
(もうすぐ暴動が起きる……そうなる前になんとかしないと)
しばらく考えた後、リリアーナはそっと口を開いた。
「お母様……今度の日曜日、教会に行ってもよろしいですか?」
リュシアは目を瞬かせる。
「あら、もちろんいいけれど、急にどうしたの?」
「この間の授業で、教会には身寄りのない子もいると聞きました。私にできることはないのかなと思いまして……」
言葉を選ぶようにリリアーナは言った。
リュシアの表情が、やわらかくほどける。
「まあ……うちの娘は、なんて信仰深く、優しい子なのでしょう」
そっと娘の手を取る。
「では、一緒に参りましょう。焼き菓子を用意させますね」
「はい、お母様」
にこりと微笑む。
もちろん信仰なんてどうでもよかった。
ただこの争いを、どうにかして止めたかっただけ。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
日曜日。
リリアーナは母・リュシアとともに、護衛の騎士三名を従えて、教会併設の孤児院を訪れた。
初めて目にする孤児院は、想像よりもずっと明るく綺麗だった。
石造りの建物は丁寧に手入れされ、庭もきれいに整えられている。
(……よかった)
前世の物語や漫画で見たような、荒れた施設をどこかで想像していた。
だが、ここは違う。
子どもたちの服は質素ながら清潔で、なにより――その目が、しっかりと前を向いていた。
(さすがアルディア・クラウンが支援してるだけあるわ)
胸の奥に、少しだけ誇らしさが灯る。
「みんな、こちらへ」
修道女の声で、子どもたちが集まってくる。
年齢はさまざま。
リリアーナと同じくらいの子もいれば、幼い子の手を引く年長の少年少女もいる。
時に子供らしく、時に小さな大人のように。
まるでひとつの家族のようだった。
(生まれも年も違うのに……うまくやっているのね)
修道女が穏やかに紹介する。
「こちらは、この孤児院を支援してくださっている、アルディア・クラウンの皆さまです」
リュシアが一歩前に出る。
「私はリュシア・アルディア・クラウン。そしてこちらが娘のリリアーナです。今日は少しですが、お菓子をお持ちしました」
騎士のひとりが、大きな袋を差し出す。
子どもたちから小さな歓声が上がった。
その笑顔は、まぶしいほどだった。
――けれど。
配られた菓子を、子どもたちは丁寧に両手で受け取る。
そして、すぐには食べない。
隣の子と目を合わせ、小さく頷きあってから、袋を開ける。
一口、一口と。
小さくちぎり、ゆっくり口へ。
まるで――
なくなるのを惜しむように。
(……)
理由はわからない。
けれど、胸の奥が少しだけざわついた。




