風が通った日
「サ~クマ」
木の影から、ひょこっと顔を出すリリアーナ。
二週間ぶりの練習場は、少しだけ遠かった。
踏みしめる土の感触さえ、どこか懐かしい。
サクマは振り向き、目を見開く。
「……お嬢様」
照れたように頭を掻く。その仕草は以前と同じなのに、声はどこか硬い。
風が通る。草が揺れ、木剣の乾いた匂いが鼻をくすぐる。
「聞いた?」
彼女は一歩、彼との距離を詰めた。
「家族に話したの。ちゃんと許してもらったわ。だからまた……よろしくお願いします」
真っ直ぐな視線。
サクマは息を飲む。
「……団長から話は聞きました。本当に俺でいいんですか?」
軽い問いではない。
騎士見習いが、姫を預かる。
名のある師範を断ってまで選ばれた。その意味を、彼は理解している。
「サクマがいいの」
即答だった。
迷いも、遠慮もない。
サクマの喉がわずかに鳴る。
「……後悔しませんね?」
「しないわ」
その一言に、彼の背筋が伸びた。
胸は高鳴る。だが同時に、責任が重くのしかかる。
――彼女は姫だ。
「俺の指導は厳しいぞ。お姫様扱いはしない」
「望むところよ」
片手を掲げる彼女に、サクマは思わず笑う。
その笑顔を見て、ようやく緊張が解けた。
「……行きますよ」
木剣を構える。
打ち込み。
受け。
踏み込みが甘い。
打ち返された衝撃が腕を震わせる。
「足だ!」
短い叱咤。
「はい!」
額に汗が滲む。
地を踏み直す。だが次の一撃で、木剣が弾かれた。
「くっ……!」
手のひらがじんと痺れる。
サクマが一瞬、動きを止めた。
強すぎたか――?
その躊躇を、彼女は見逃さない。
「止めないで」
真っ直ぐな声。
「本気でいい」
その瞳に甘えはない。
サクマは息を吸い、構え直す。
「……泣いても知りませんからね」
「泣かないわ!」
再び打ち合う。
二週間の空白は、簡単には埋まらない。
だが、迷いは確実に減っている。
踏み込みが鋭くなる。
目線がぶれない。
打ち合う音が、以前より澄んでいた。
「……前より、迷いがないな」
ぽつりと漏れた本音。
リリアーナは汗を拭い、息を整えながら笑う。
「私、まだ強くなるから」
その瞳に、揺らぎはなかった。
サクマは、改めて覚悟を決める。
守るのではない。
鍛えるのだ。
姫ではなく、一人の剣士として。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「ルシアン!」
城内の庭へ駆け込む。
「お嬢様、そんなに走っては――」
言い終わる前に、足を取られた。
体が前へ傾く。
地面が迫る。
衝撃を覚悟した、その瞬間。
ふわり。
体が止まった。
(……痛く……ない?)
目を開けると、地面からわずかに浮いている。
ゆっくりと押し戻され、足が土を踏む。
「……だから言いました」
深く息を吐くルシアン。
「ごめん。でもね――」
言いかけて、彼女はふっと頬を緩めた。
「仲直り、できたんですね」
静かな声。
「うん。なんでわかったの?魔法?」
「顔に書いていますから」
リリアーナは頬を押さえた。
そんなに分かりやすいだろうか。
風が吹く。
今日はやけに澄んでいる。
「ルシアン。練習の成果、見てくれる?」
彼は頷いた。
リリアーナは静かに呼吸を整える。
数ヶ月前は、必死に“聞こう”としていた。
今は違う。
ただ、身を置く。
風が葉を揺らす。
地の奥で、ゆるやかな脈が打つ。
陽のぬくもりが頬に触れる。
拒まず、押し返さず。
ただ、そこにいる。
――すう、と。
何かが胸を通り抜けた。
一瞬、足元が揺らぐ。
視界の端が白く濁る。
それでも崩れない。
流れは、彼女を通り抜けた。
足元の草が、同時に揺れる。
小さな、澄んだ音。
目を開ける。
ルシアンが、静かに息を吐いた。
「……通しましたね」
魔法を“使った”感覚はない。
ただ、世界と拍が合った。
それだけ。
だがそれは、確かな一歩だった。
胸の奥が、じんわりと熱い。
「もう一度」
間髪入れない声。
「え……」
喜びが引き戻される。
再び呼吸を整える。
同じように。
同じように――。
だが、何も起きない。
さきほどまで笑っていた人とは思えない目だった。
「え……」
喜びが引き戻される。
再び呼吸を整える。
同じように。
同じように――。
だが、何も起きない。
さきほどまで笑っていた人とは思えない目だった。
ルシアンの視線が、鋭くなる。
「掴むな。待ちなさい」
焦りが滲む。
心がざわつく。
流れが、遠い。
「共鳴は力ではありません。心です。安定を欠けば、濁る」
額から汗が落ちる。
先ほどの成功が、かえって邪魔をする。
できたはずだ。
なのに。
やがて、彼女はゆっくり目を開けた。
「……はい」
悔しさを飲み込む。
ルシアンは一歩近づいた。
「偶然は、実力ではありません。再現できて初めて力になる」
厳しい声。
だがそこに、見放す色はない。
リリアーナは深く息を吸った。
「頑張ります。コツを教えてください」
俯かない。
逃げない。
ルシアンの口元が、わずかに緩む。
「まずは三日。毎日同じ時間に来なさい。流れは日ごとに違います。それを知ることからです」
「はい!」
声は、先ほどより力強い。
風がまた吹く。
揺れる草を見つめながら、彼女は思う。
――これは始まりだ。
強くなる。
剣も。
魔法も。
そして、心も。




