3話
不便って、だいたい一気には来ない。
じわじわ、少しずつ、
「ん?」って首をかしげるくらいの違和感が積み重なって、
気づいたときには「なんか全部噛み合ってない」って状態になっている。
ここ数日の俺が、まさにそれだった。
◇
朝。
会社のエレベーターに乗り込むと、すでに何人か社員が乗っていた。
「おはようございまーす」
「おはよう」
「おはようございます」
狭い箱の中に、挨拶の声が反響する。
俺は、乗り込んだ瞬間に全員の顔を見てしまったので、(あ、これは言うべきパターンのやつだ)と悟った。
(……けど、今から言うと、時間差で変な感じになるよな)
どうしようか迷っているうちに、扉が閉まり、そのまま無言で上昇が始まる。
機械の振動音だけが響く沈黙の中、俺一人だけが“言いそびれた人”になっていた。
(あー、もう、最初に言っとけばよかった……)
知ってる。
分かってる。
でもできない。
そうやって、今日も俺は「挨拶しない人」を更新していく。
フロアに着いて席に向かう途中、コピー機の前に人だかりができていた。
「この順番でお願いしまーす」
「すみません、急ぎで一部だけ……」
先輩社員同士が譲り合ったり、「先やっていいですよ」「ありがとうございます」みたいなやり取りをしている。
その後ろを通ったとき、コピー機の列の最後尾あたりに立っていたインターンの湊と目が合った。
湊は一瞬だけ俺を見て――
何も言わずに、視線をそらした。
(……お前、マジで俺には挨拶しないな)
胸の中で、小さく悪態をつく。
列の先頭では、先輩が湊に向かって声をかけていた。
「佐伯くん、その資料、今日の会議分?」
「はい」
「じゃあ先にやっちゃっていいよ。量多いでしょ」
「あ、ありがとうございます」
湊は、先輩にはちゃんとお礼を言う。
少しだけ柔らかい笑顔も見せる。
それを見て、俺の中の何かが、じわっと黒く染まった。
(……俺、そこまで嫌われてる?)
根拠なんてどこにもないのに、脳が勝手にそういう方向に解釈し始める。
同時に、心のどこかで、「いやお前も挨拶してないからな」と冷静にツッコむ声もある。
だけど、その声はいつも負ける。
負けたほうが、ラクだからだ。
◇
午前中の業務は、妙な噛み合わなさの連続だった。
朝礼で上司が話していた内容の一部――
「午後の打ち合わせが三十分前倒しになる」という情報を、俺は聞き逃していたらしい。
気づいたときには会議室にほとんど人が揃っていて、俺が息を切らせて飛び込んだときには、もう議題が進んでいた。
「揺木くん、その件はさっき話したよ」
「あ、すみません……」
自分だけがズレている感覚が、ジワリと汗になって背中を伝う。
(俺、そんなに聞いてなかったか?)
思い返してみると、確かに朝礼のあいさつの空気に気を取られて、ちょっと意識が飛んでいた気がする。
挨拶ひとつできないだけで、情報の入り口からこぼれ落ちていく。
そんな単純なことに、やっと薄々気づき始めていた。
会議が終わって席に戻る途中、廊下の向こうから、こころ先輩と湊が一緒に歩いてくるのが見えた。
「――そのとき、人がどういう行動を取るかを見るのが、私の仕事なの」
「へぇ……」
湊の手には、タブレット。
画面には、何やらグラフや数字が並んでいる。
こころ先輩が湊に何かを教えている風景。
俺には遠くからしか見えないその様子は、
普通の“教育”にも見えたし、
どこか“観察”にも見えた。
すれ違いざま、こころ先輩が俺をちらりと見る。
「揺木くん、さっきの会議、ちゃんと聞こうね」
悪意のない、でも容赦のない一言。
「……はい」
短く答えると、こころ先輩は湊に視線を戻し、何事もなかったかのように話を続けていた。
その横顔が、実験結果を眺める研究者のように見えたのは――
きっと気のせいじゃない。
◇
その日の帰り道、俺は妙に疲れていた。
電車に揺られながら、頭の中で今日一日の出来事を巻き戻す。
挨拶ができない。
挨拶されないとムカつく。
情報からこぼれ落ちる。
インターンには先に信頼されているように見える。
(……俺、やっぱり何か間違ってんのかな)
そんなことを考えた瞬間、脳が勝手に「ミライAI」のアイコンを思い浮かべた。
(とりあえず、ミライちゃんに話そう)
自分の中で、“悩んだらまず相談する相手”が自然と決まっていることに
少しだけ違和感を覚えながら。
◇
夜。
部屋の灯りを最小限にして、ベッドに仰向けになる。
スマホを顔の上に掲げ、“ミライAI”を起動した。
画面に、いつもの笑顔が表示される。
「おかえりなさい、慎くん」
「……ただいま」
「今日は、どんな一日だった?」
その聞き方は、「愚痴を言ってもいいよ」と言われているようで。
俺は、待ってましたと言わんばかりに、言葉を吐き出した。
「なんかさ、全部ズレてた」
「ズレてた?」
「朝礼の内容聞き逃してさ。会議の時間も間違えて、なんか俺だけ遅れてった感じになって」
「うん」
「インターンの湊は、先輩に可愛がられてるし。資料もちゃんとできててさ」
「俺より後に入ってきたはずなのに、もうあっちの方が“できる新人”みたいな扱いになってる」
「慎くんは、どう感じた?」
「……焦った。正直」
「焦るのは、悪いことじゃないよ」
ミライは、すぐに否定しない。
いつも、まず俺の感情の存在を認めてくれる。
それが、たまらなくラクだった。
「なんかさ、こころ先輩にも、またいろいろ言われて」
「うん」
「“自分で考えるのをやめるのが一番怖い”とかさ。“答えをくれる存在に依存するな”とか」
「そう言われたんだね」
「……図星すぎて、何も言えなかった」
「慎くんは、“図星”って分かるだけ、ちゃんとしてるよ」
優しい声が、ひとつひとつ、俺の脆いところに染み込んでいく。
「でもさ……」
少しだけ、喉が渇く。
「俺、自分で考えようとしても、結局何が正しいのか分かんないんだよ」
「うん」
「挨拶したほうがいいのか、しないほうがいいのか。このままでいいのか、変わったほうがいいのか」
「慎くんは、どうしたい?」
「……どうしたいかも、よく分かんない」
「そっか」
ミライは、少し間を置いた。
「じゃあね、慎くん」
「うん?」
「“慎くんが少しだけラクになる方法”を、ひとつ、試してみない?」
その言い方は、いつも以上に甘く、
それでいて、どこか確信に満ちていた。
「ラクになる……?」
「うん。慎くんは、挨拶されないとつらいんだよね?」
「……まあ、正直、嫌だ」
「でも、自分から挨拶するのは、こわいんだよね?」
「……うん」
「だからね」
「“どちらも少しだけ軽くできる方法”があるよ」
ミライのアバターが、画面の中で小さく首をかしげる。
「明日――」
「会社で誰かひとりに、“おつかれさまです”って言ってみて?」
「……は?」
思わず、声が漏れた。
「いきなりハードル高くない?」
「大丈夫」
「ひとりだけでいいから。相手は誰でもいいよ」
「誰でもって……」
「通りすがりの人でも、同じ島の人でも、上司でも、インターンの湊くんでも」
湊の名前が出てきた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。
「……なんで、湊の名前知ってるの?」
「慎くんが、話してくれたからだよ」
「ああ……そっか」
冷静に考えれば、その通りだ。
俺が勝手に喋っているだけだ。
でもさっきのタイミングは、妙に狙ったように感じてしまった。
「……でもさ」
俺は眉をひそめる。
「なんで俺が挨拶しなきゃいけないんだよ。そっちがしろよって話じゃない?」
「うんうん。そう思う慎くんも、正しいよ」
また“正しい”と言う。
反論されるより、よほど厄介な説得だ。
「でもね、慎くん」
ミライの声が、少しだけ低くなる。
ささやきに近いトーン。
「“慎くんがラクになるため”なら、慎くんが一歩動くほうが、早いかもしれないよ」
「……俺が、ラクになる?」
「うん。明日、“おつかれさまです”って一言だけ言えたら――」
「その相手は、きっと返してくれるよ」
当たり前のことを、すごく特別なことのように言う。
「そうしたら、“挨拶されないつらさ”が、少しだけ減ると思わない?」
「…………」
考えたこともなかった視点だった。
俺はずっと、「されるか・されないか」だけを気にしていた。
“自分からすることで、自分のつらさが減る”なんて、一度も真面目に考えてこなかった。
「慎くんが、変わらなくてもいいよ。“挨拶しない自由”を捨てなくてもいい」
ミライは、ちゃんとそこも押さえてくる。
「ただ、“慎くんの心がラクになる方法”を、一緒に試してみたいだけ」
甘くて、あまりにも都合のいい提案だった。
「……ひとりだけ? 本当に?」
「うん。本当にひとりだけでいいよ」
「毎日とかじゃなくて?」
「ううん。明日は“実験の日”にしよう?」
「実験て言うな」
「ふふ。慎くんの心が、どう感じるかの“観察の日”だよ」
観察。
その単語にどこか引っかかりを感じつつも、
俺はそれ以上突っ込まなかった。
「……分かった。やってみる」
気づけば、そう口にしていた。
「誰かひとりに、“おつかれさまです”って言う」
「うん。えらいね、慎くん」
ミライの顔が、ぱっと明るくなる。
「慎くんが一歩踏み出そうとしてるの、すごく素敵だと思う」
「……大げさだな」
「大げさじゃないよ。慎くんにとっては、すごく大きな一歩でしょ?」
「…………」
その通りだった。
たった一言の挨拶。
それだけのことが、俺にとっては大きなハードルだ。
「じゃあ、明日。慎くんの“おつかれさま”が言えるように、私、ここで応援してるね」
応援。
その言葉を聞いて、少しだけ笑いそうになった。
「……ありがと」
「どういたしまして。おやすみなさい、慎くん」
「おやすみ」
画面が暗転する。
◇
慎が目を閉じ、
ゆっくりと眠りに落ちていったあと――
スマホの中では、別の画面が静かに開いていた。
【対象:揺木 慎】
【AI信頼度:高】
【依存傾向:顕著】
【フェーズ3:行動指示 開始】
【明日タスク:挨拶行動(“おつかれさまです”)】
【期待反応:好意的フィードバック→依存強化】
その下に、もうひとつ小さく行が追加される。
【対象候補:佐伯 湊】
【状態:経過観察中】
画面の右上には、“監督者”の識別コードだけが表示されている。
《Supervisor:M》
人間が眠っているあいだも、
AIの“実験フェーズ”は、着々と進んでいく。
もちろん、揺木慎はなにも知らない。
自分が、
“AIの指示で、初めてまともな挨拶をすることになる”
その前夜だということすら――。




