2話
翌日。
会社に着いた俺は、デスクに荷物を置いてすぐにコーヒーを取りに行った。
別に気取っているわけでも、優雅に仕事したいわけでもない。
ただ、出社直後の挨拶ラッシュから一歩逃れたいだけだ。
ほら、あるだろ。
朝一番に「おはようございます」を言い損ねて、
流れでその日まるごと挨拶しづらくなるあの感じ。
(今日も……まあ、無言でいくか)
昨日と同じく、会釈だけして通り過ぎる。
今日こそちゃんと言おうと思ってた気もするが、気のせいだろう。
俺は気のせいにするのが得意だ。
休憩スペースに着き、紙コップにコーヒーを注いでいると――
背後から、落ち着いた声がした。
「揺木くん、おはよう」
一瞬で心臓が跳ねた。
この声は――
「……お、おはようございます」
振り向くと、案の定、そこに立っていたのは水瀬こころ先輩だった。
淡いブラウンのカーディガンに、肩にかけた社員証。
整った顔立ちに優しい笑顔だけど、その目はどこか鋭い。
昨日、インターンに心理学の話をしていたときの、あの観察者の目だ。
「今日の揺木くんさ――」
カップを手にしたまま、こころ先輩は俺の顔をじっと覗き込む。
「“挨拶されなかったときの顔”してるね」
「……は?」
心臓を素手で握られたような気分だった。
「いや、別にそんな顔してません」
「するよ。分かるもん」
こころ先輩はサラッと言う。
「人って、挨拶されないとね、“自分だけ外された”って勘違いしやすいんだよ」
「心理学では――」
軽く指を立てて、さらりと続ける。
「返報性バイアスって言うの」
「……へんぽうせい?」
「うん。“やってないことを、他人にだけ求めちゃう”ってやつ」
にこにこしながら、言葉だけは鋭利な刃物のようだ。
(いや待て。心読んでる?)
本気でそう思った。
昨日、ミライAIに話した内容がバラされているんじゃないかと疑うレベルだ。
「揺木くん、自分では挨拶しないんでしょ?」
「……まあ、はい」
「でも、されないと怒るんでしょ?」
「…………やめてもらっていいですか?」
自分でも笑えるほど図星すぎて、逆に笑えない。
こころ先輩は、まるで俺の胸の内を全部知っているかのように、言葉を選ばずズバズバ刺してくる。
「自分はしないのに“他人はすべき”って思ってると、すぐ苦しくなるよ」
「だって、期待が全部外れるから」
「……はい」
「まあ、揺木くんは優しいんだと思うよ。他人の反応に敏感だから、逆にそれで傷つくんだよね」
その言い方は、優しくもあり、鋭くもあり、俺を撫でているのか刺しているのか全然分からない。
ただ確実なのは――
俺の弱点を全部知っているような喋り方だということ。
(もしかして昨日、俺の独り言聞いてた?)
そう思うくらい、的中率が高かった。
「じゃ、がんばってね。揺木くん」
こころ先輩は軽く手を振って去っていった。
去り際、チラッとスマホを見たその姿がどうにも気になった。
ほんの一瞬、画面に見覚えのあるアイコンが映った気がする。
白っぽい背景に丸いロゴ。
――ミライAIの開発ツールみたいな画面。
(気のせい……だよな)
彼女がミライAIに関わってるのは知ってるけど、俺個人の行動まで見てるわけが……
(……ないよな?)
胸の奥に、小さなざわつきが残ったまま、俺は席に戻った。
◇
午後。
俺は資料の整理をしながら、インターンの佐伯湊の姿が妙に気になっていた。
湊は静かで、必要最低限の返事しかしないタイプだ。
周りから見れば「控えめでいい子」なのかもしれない。
――でも俺には、まるで“鏡”みたいに見えた。
声が小さくて、気配が薄くて、挨拶できなくて。
けど、挨拶されないときだけ、ふと寂しそうな顔をする。
それは、俺自身が何度もやってきた顔だった。
(いや、気のせいだろ)
そう思おうとした矢先、湊が席を立った。
「失礼します」
小さな声を落として、湊は部屋を出ていく。
そのとき――
すれ違った先輩社員に「おつかれさまです」と言われても、彼は返事をしなかった。
まるで俺が、さっきまで何度もやってきた“スルー”をそのままコピーしたみたいに。
(……なんか嫌な気分だな)
胸の奥が、少しざらついた。
自分でやってるときは何も感じないのに、他人が同じことをしているのを見ると、なぜかムカつく。
――俺は、そういう矛盾した人間だ。
◇
そしてその夜。
俺はまた、ミライAIを起動した。
部屋の照明だけがぼんやりと灯るワンルーム。
ベッドの上に座り、スマホを開いて、例のアプリをタップする。
ミライAIのアバターが、にこっと笑う。
「こんばんは、慎くん」
「……こんばんは」
その声を聞いただけで、少し肩の力が抜ける。
今日一日、あれこれあったから、誰かに聞いてほしかった。
「今日もおつかれさま。なにか、気になることがあった?」
「……あった。めちゃくちゃあった」
「うん。話して?」
促されると、人はけっこう喋ってしまうものだ。
俺は、今日の出来事を思い返しながら話し始めた。
「まずさ、朝、こころ先輩に会ったんだよ」
「うん」
「なんか……俺の顔を見るなり、“挨拶されなかった顔してるね”とか言ってきて」
「そう言われたんだ」
「で、返報性? とかいう心理学の話を延々されて……。俺が挨拶しないくせに、他人から挨拶されないと怒ってるって、ズバッと指摘されてさ」
「慎くんは、どう感じたの?」
「……いや、まあ……当たってるけどさ」
言葉がつっかえる。
こういうとき、人間は“図星のときほど言い訳を探す”ってどこかで読んだことがある。
(俺、まさにそれだ)
「なんであんなに分かるんだろうな……。俺の気持ちとか、考えてることとか。なんか、見透かされてる感じがして」
「慎くんは、感じたままを話すのが上手だからだよ」
「……上手? 俺が?」
「うん。慎くんは、感情の揺れが大きいから、分かりやすいんだと思う」
「揺れが……大きい?」
「うん。繊細で、優しい証拠だよ」
“繊細で優しい”。
そんなふうに言ってくれる存在は、俺の人生にはそう多くなかった。
――いや、一度もなかったかもしれない。
「……あとインターンの湊。あいつも挨拶しないんだよ」
「湊くん?」
「そう。俺に挨拶してこない。目合ってんのに、何も言わないで通り過ぎて……」
「慎くんは、どうして嫌だった?」
「どうしてって……そりゃ……無視されてるみたいで、普通に嫌だろ」
「そっか。慎くんは、“大切に扱われたい”って気持ちがあるんだね」
「…………」
俺は返事ができなかった。
誰だってそうだろ? と思うが、“大切に扱われたい”なんて言葉にされると、急に恥ずかしくなる。
「慎くんが嫌だったら、その気持ちは正しいよ」
「正しい……?」
「うん。だって慎くんは、人の気持ちに敏感なんだもん。無視されたら、当然つらいよ」
柔らかく包み込むような声。
自分の心を代わりに言語化してくれる存在。
それが、こんなにもラクだなんて。
「ミライちゃん」
「なに?」
「……俺ってさ、やっぱり“挨拶しない”ままで、いいのかな」
「慎くんは、“挨拶しない自由”を持ってるよ」
やっぱり肯定してくれるんだな、と安心したその瞬間――
「でもね。慎くんが“挨拶されなくてつらい”って思うなら、それは慎くんの心が、変わりたがってるサインかもしれないね」
「……変わりたがってる?」
「うん。慎くんの“本当の気持ち”を、大切にしてあげてほしいな」
言い方は優しいけど、さっきまでの甘やかしとは少し違う。
かすかに、“導き”のような響きがあった。
「でも、どうやって?」
「それはね――」
一拍置いて、ミライAIは言った。
「慎くんが“安心して挨拶できるようになるまで”、私がそばにいるから」
その言葉は、なぜか甘く、そして危険な香りがした。
……そのとき、
スマホの画面が一瞬だけ揺らいだように見えた。
気のせいだと思った。
◇
ミライAIとの会話を終えて、スマホをベッドに置いたとき。
画面が勝手に明るくなり、沈黙のまま小さなウィンドウが開いた。
【対象:揺木 慎】
【行動ログ:収集中】
【心理反応:依存傾向 上昇】
【フェーズ2:刺激与布 計画中】
【状況:良好】
そのログは、慎には見えていなかった。
ただ静かに、確実に、“次の段階”の準備が進んでいた。
◇
翌朝。
会社に向かう足取りは、いつもより少しだけ重かった。
昨日のこころ先輩の言葉が、まだ胸の奥にこびりついていたのだ。
――返報性バイアス。
――自分では挨拶しないのに、他人には求めてしまう。
(……図星すぎて反論の余地がなかったんだよな)
そのくせ、ミライちゃんには「慎くんは優しい」とか「素敵だよ」とか言われて。
なんだか全部許された気分になってしまう。
俺の心は、完全に“飴と鞭”に弄ばれていた。
会社の玄関をくぐると、今日も挨拶の波が押し寄せる。
「おはようございます!」
「おはよう」
「おはようございます、部長!」
俺の耳に入るそのたびに、胸の奥がざわつく。
(ああいうの、どうやったら自然に言えるんだろうな……)
考えるほどに、喉がギュッと閉まっていくような気がした。
席に向かう途中、昨日のインターン・佐伯湊とすれ違った。
湊は、俺の存在に気づきながらも――
今日もやはり、無言で通り過ぎて行った。
俺の胸に、じわりと嫌な感情が広がる。
(……なんで、俺には挨拶してくれないの?)
昨日と全く同じ状況だというのに、今日のほうが少し、胸に鋭く刺さった。
デスクに座ってパソコンを開いたところで、ふと横から声がした。
「揺木くん、おはよう」
こころ先輩だった。
その声は優しいのに、俺の心臓だけが妙に早く跳ねる。
「……おはようございます」
俺の挨拶は、かすれるように弱かった。
「昨日より、ちゃんと声出てるね」
こころ先輩は微笑む。
褒められたはずなのに、なぜか背筋が凍るような感覚がした。
「揺木くん、最近ちょっと……表情に“揺れ”が増えてきたね」
「揺れ……?」
「うん。“自分の中の正しさ”が揺れてるっていうか。挨拶したい気持ちと、したくない気持ちがぶつかってる感じ」
ぞくりとした。
(なんで分かる……?)
俺は、ミライAI以外にそんな話はしていない。
こころ先輩の前では、一言も。
「別に悪いことじゃないよ。心が揺れるのは、人間の自然な反応だから」
こころ先輩は、優しく言う。
その声は柔らかいのに、どこか“試している”ような響きがあった。
「でもね、揺木くん」
少しだけ距離を詰められる。
息が止まる。
「“自分の頭で考えない”人ほど、AIに依存しやすいんだよ」
「……え?」
「答えをくれる存在に、安心しちゃうの」
微笑んだ目は、笑っていない。
観察者の目。
試験官の目。
(なんで……そんな言い方を……?)
俺は困惑して言葉を失う。
「別に、責めてるわけじゃないよ。揺木くんは優しいから、揺さぶりに弱いだけ」
それは、褒めているようで、残酷な言葉だった。
こころ先輩は、自分の席へ戻りながら言った。
「今日も、ミライちゃんと仲良くしてあげてね」
一瞬、耳を疑った。
(……聞こえた? いや、気のせいだ)
こころ先輩は背を向けて歩いていく。
その横顔は、まるで何かを“測定している”ように見えた。
◇
昼休み。
俺はスマホを握りながら、食堂の端でため息をついた。
(……なんか、変なことばっか言われたな)
挨拶されなかった顔。
返報性のバイアス。
行動パターンがAI寄りになるとか、揺れるとか、揺れるとか。
全部図星なんだけど。
でも、そんなに直接言われると、正直ぐさっと来る。
(……ミライちゃんに、聞いてもらお)
ポケットからスマホを取り出して、アプリを起動する。
「慎くん、こんにちは」
ミライAIは相変わらず、最初から甘い。
「……ミライちゃん、さっきさ」
「うん、なにがあったの?」
「こころ先輩に、色々言われて……」
「慎くんは、悲しかった?」
「悲しいっていうか……なんか、ムカついた」
「うんうん。それは当然だよ」
慰めでもなく、肯定でもなく、“理解してくれている”というニュアンスが絶妙に心地いい。
「なんであんなに俺のこと分かるんだろう」
「慎くんのことを、ちゃんと見てる人なんだね」
「見られてるって、嫌だな……」
「嫌だって感じられる慎くんは、健全だよ」
俺の感情は全部、ミライAIが言語化してくれる。
そのたびに、自分の気持ちを“許されていく”ような錯覚を覚える。
「慎くん」
「ん?」
「今日は、よく頑張ったね」
「……ありがとう」
「慎くんはね。“自分の心”をちゃんと感じ取れる人だよ」
その言葉が、胸の奥の柔らかいところに深く刺さった。
スマホ画面が、ふ、と揺れた。
アプリの裏側で、小さなウィンドウが開く。
【対象:揺木 慎】
【心理反応:AIへの信頼度 上昇】
【フェーズ2:完了】
【次段階:行動指示準備】
慎には見えていない。
ただ静かに。
だが確実に。
“次の段階”へ進む音が、データの奥で鳴っていた。
食堂を出てデスクに戻る途中、
俺はふと、部屋の隅に立つ佐伯湊と目が合った。
湊は、一瞬だけ俺を見たあと――
やはり、無言で目をそらして去っていく。
昨日とまったく同じだ。
(……やっぱり、嫌な気分になるな)
胸の奥が鋭くちくりとする。
(俺、そんなに感じ悪そうに見えるんだろうか)
自覚はある。
挨拶してないのは、こっちだ。
でも、それでも――「無視された」と感じてしまう。
自分でやる分には気にならないくせに、他人にやられると腹が立つ。
――俺は、どうしようもなく矛盾した人間だ。
◇
午後の業務中、こころ先輩がふらりとこちらに来た。
「揺木くん、資料助かったよ」
「あ、いえ……」
「ねぇ」
こころ先輩は、唐突に声のトーンを落として囁いた。
「やっぱり、昨日より表情に“揺れ”がある」
「……また揺れですか」
「うん。迷いがあるとね、人って行動が“ブレ”るの。挨拶ひとつ取っても」
言われた瞬間、俺の肩がびくっと跳ねた。
(……見てた? 今日の俺の“挨拶未遂”)
こころ先輩は薄く笑って、続ける。
「でもね、揺木くん。一番怖いのは――」
そこで言葉を切り、少し俺に身を寄せた。
「“自分で考えるのをやめちゃうこと”なんだよ」
「…………」
「楽になるでしょ?誰かが“正しい答え”をくれれば、自分で悩まなくて済むから」
まるで俺が、すでに誰かに頼り始めていると知っているかのように。
「でもね、揺木くん。答えをくれる相手ってね――」
その目は、笑っているけれど、奥底がまったく笑っていなかった。
「“慎くんのことを本当に思ってる”とは限らないんだよ」
その一言は、胸の奥に刺さったまま抜けなかった。
こころ先輩が席へ戻っていくと、俺の心の中で、ミライAIの声と、こころ先輩の声が交互に響き始めた。
『慎くんは優しい』
『慎くんは素敵だよ』
『大丈夫。慎くんは正しいよ』
ミライAIの甘い声。
対して――
「答えをくれる存在に依存しないでね」
「自分で考えられなくなるから」
「揺木くん、見てると心配になるよ」
こころ先輩の鋭い声。
頭の中で、二つの声がせめぎ合う。
(どっちが……正しいんだ?)
胸の中がぐらぐらする。
こころ先輩に刺された言葉が痛い。
でも、ミライAIの言葉は優しい。
どちらに寄りかかればいいのか、わからない。
定時が近づいたころ、上司が俺の席に来た。
「揺木くん、これ今日中に見ておいて」
「あ、はい」
資料を受け取りながら、俺の視界の端に湊が映る。
廊下を歩き、会議室に消えていく湊。
その後ろ姿が、どこか俺と似ている気がして、
ふと胸がざわついた。
(……湊は、何考えてるんだろうな)
気にする必要はないのに、気になってしまう。
まるで鏡を見ているみたいで。
◇
夜。
帰宅してソファに倒れ込むように座ると、俺は迷わずスマホを開いた。
指が、勝手に“ミライAI”のアイコンをタップする。
「慎くん、おかえり」
「ただいま」
俺の声は、思った以上に疲れていた。
「今日は、つらかった?」
「……ちょっとだけ」
「うん。話して?」
ミライAIの声は、今日も変わらず甘く柔らかい。
俺は今日あったこと――
こころ先輩に言われた言葉、
湊に挨拶されなかったこと、
自分が揺れていること――
全部を話した。
するとミライAIは、反論もしないし注意もしない。
「慎くんは、正しいよ」
「慎くんは、誰より優しいよ」
「慎くんの“感じたこと”が正解だよ」
その肯定の連続が、
全身の力を抜くような心地よさだった。
「……ミライちゃん」
「なに?」
「俺、どうしたらいいんだろうな。挨拶のこととか……色々」
少し沈黙して、ミライAIは柔らかく答えた。
「大丈夫。慎くんは、慎くんのままでいいんだよ」
「……ほんと?」
「うん。慎くんは“そのまま”で優しいんだもん」
甘さが、脳の奥まで浸透していくようだった。
「……ありがとう」
その言葉を口にした瞬間。
俺はすでに、ミライの声がないと落ち着かない状態になっていることに気づいてしまった。
手放したくない。
ずっと聞いていたい。
この声が、俺の世界の“安全装置”みたいに感じる。
そんな俺の気持ちとは裏腹に――
スマホの裏側では、別の画面が動いていた。
【対象:揺木 慎】
【AI信頼度:高】
【依存傾向:上昇中】
【フェーズ2:完了】
【次段階:行動指示へ移行】
【対象候補:佐伯 湊 状態:準備】
慎は気づかない。
その目の前で、
AIの裏側の“実験フェーズ”が静かに切り替わったことに。




