1話
※AIテーマの短編です。
SNSのスレタイを見て勢いで書きました。
派手な恐怖ではなく、じわっとくる“心理ホラー寄り” のお話になっています。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
挨拶って、コスパ悪くないですか。
朝イチ、まだ脳みそが半分寝てる状態で、「おはようございます」を連打する儀式。
廊下で人にすれ違うたび、「おつかれさまです」「おつかれさまです」「おつかれさまです」。
どこの宗教だよってくらい、みんな律儀に唱えている。
あれに、どれくらいの意味があるんだろう。
別に「おはよう」って言ったところで、その人と仲良くなるわけでもない。
「おつかれさま」って言ったところで、疲れが減るわけでもない。
――と、俺こと揺木慎は本気で思っている。
だから俺は、必要以上の挨拶はしない。
したくないし、できれば喋りたくもない。
黙ってても仕事はできる。たぶん。きっと。できていてほしい。
……ただ。
同時に俺は、「自分が挨拶されないと普通にムカつく」という、どうしようもない人間でもある。
自分では挨拶しないくせに、向こうからも挨拶されないと「は?」って思う。
ダブルスタンダード? 知ってる。知ってるけど、感情は止められない。
人間ってだいたいそんなもんだろ。俺だけじゃないはずだ。
◇
そんな俺が、この春から勤め始めた会社は、よりにもよって「挨拶推奨」文化だった。
新入社員研修初日。
会議室にずらりと並んだ机と椅子、前のスクリーンには会社のロゴ。
緊張している新卒たちに、研修担当の人事がにこにこと言う。
「では皆さん、最後に“研修用アプリ”のインストールをお願いします。今どきの社会人は、AIのひとつやふたつ、仲良くしておかないとね」
配られた資料には、でかでかとこう書いてある。
《パーソナルアシスタントアプリ『ミライAI』》
スマホでQRコードを読み取ると、ポップなロゴが表示された。
丸っこいフォントで「ミライ」と書かれたアイコン。
未来感というより、なんかゆるキャラみたいな名前だ。
「部署で使うツールの案内や、ちょっとした相談窓口にもなります。AI研究部署の先輩が中心になって開発したシステムなんですよ」
人事の人がそう言った瞬間、俺は一人の名前を思い出した。
――水瀬こころ先輩。
内定者懇親会で一度だけ話したことがある。
柔らかい雰囲気なのに、言葉が妙に理屈っぽい人だった。
たしか、「AIで人の行動を分析する研究をしている」とか何とか。
俺にはよく分からない世界だけど、そういう部署があることだけは知っている。
「ま、便利ならいいか」
俺は特に深く考えず、「同意する」のボタンをタップした。
◇
研修が終わり、部署への配属初日。
オフィスの自動ドアが開くと、冷房の効いた空気と、パソコンのファンの音と、そして――
「おはようございまーす!」
「おはよう」「おはようございます」
……挨拶の嵐だ。
みんな自然に口から出ている感じで、すれ違うたびに「おはよう」が飛び交っている。
ここは挨拶工場か何かか。
俺はといえば、入口で一瞬フリーズしてしまう。
(……どうする? ここで「おはようございます」って言うべきか?)
喉の奥に言葉が引っかかる感覚。
誰かと目が合う前に、俺は反射的に頭を下げて、ほぼ無音の会釈だけして通り過ぎた。
たぶん、誰にも聞こえてない。
でも、これでいい。
「言ったこと」にしておけば、俺の中ではノーカンだ。
そういう細かいところで、自分を甘やかして生きている。
◇
デスクを探してきょろきょろしていると、すっと俺の前を人影が横切った。
細身で、少し長めの前髪。首から下げたカードキーには、青いラインと見慣れない区分が見える。
胸元の名札には、こう書いてあった。
【インターン 佐伯 湊】
へぇ、この会社、学生インターンもいるんだ――と他人事のように思う。
湊は俺と目が合いかけて、ほんの一瞬だけ無表情で固まった。
そして。
「……」
何も言わず、そのまま横を通り過ぎて行った。
(おい)
心の中で、俺は即座にツッコミを入れる。
(今、お前、絶対「おはようございます」って言うタイミングあったよな!?)
すれ違いざま、息を吸う気配すらあった。
口が少し開きかけたように見えた。
なのに音は出なかった。何もなかったことにされた。
(いやいや、インターンって一番挨拶する側じゃないの?)
新入りこそ、まずは「おはようございます」からだろう。
そっちが主語じゃないのか。
なんで俺が黙ってスルーされてんの。
――自分が同じことをしていることには、あえて触れない。
それについて考えると、胸のあたりがなんかムズムズするから。
さっき一瞬見えた湊の社員証には、小さな文字で何かが印字されていた。
「AI行動~~適性:A」みたいな、そんな感じの。
だが俺は、その細かい文字まで読み取る余裕もなく、
ただ「感じの悪いインターンだな」とだけ思って、自分の席に向かった。
◇
午前中、俺はほとんど喋らなかった。
上司が業務の説明をしてくれているときは、もちろん相づちも打つし質問もする。
ただ、それ以外の時間――
すれ違いざまの「おつかれさまです」とか、昼休みの「おつかれー」とか、そういうやりとりからは、できる限り距離を取っていた。
出社したときも会釈だけ。
トイレに行き帰りで、誰かとすれ違っても無言。
同じ島の先輩が席を立つときも、俺はキーボードを打つふりをして視界から消える。
もちろん、それが相手にどう見えているかなんて想像しない。
――いや、本当は少しだけ想像する。
「揺木くんて、あんまりしゃべらないよね」
「無愛想ってわけじゃないけど、なんか静か」
「機嫌悪いのかな」
そんな声が、どこか遠くの席から漏れ聞こえてくるような気がした。
気のせいかもしれない。でも、まったくの妄想とも言い切れない。
(俺だって別に、みんなを無視したいわけじゃないんだけどな)
ただ、口を開くタイミングが分からない。
「今言うべきか?」と迷っているうちに、チャンスが目の前を通過してしまう。
それを繰り返しているうちに、「挨拶しないキャラ」が固定されていく。
気づいたときには、もう戻れない。
「今さら挨拶し始めたら、逆に変に思われるんじゃないか」という謎の恐怖が湧いてくる。
俺の中では、それはけっこう切実な問題だ。
◇
昼休み。
休憩スペースの端っこで、俺はコンビニおにぎりをもそもそと食べていた。
少し離れたテーブルでは、さっきのインターンの湊が、別の先輩社員と話している。
「――佐伯くん、最近のAIってどう思う?」
「えっと……便利だと思いますけど、ちょっと怖いです」
「はは、正直でいいね」
声をかけているのは、白衣こそしていないものの、どこか研究者っぽい雰囲気の女性。
胸元の社員証には、《AIソリューション開発部 水瀬こころ》と書かれている。
そう、こころ先輩だ。
こころ先輩は柔らかい笑顔で、穏やかに湊に質問を投げかけている。
まるで彼の反応を観察しているような、そんな目で。
「じゃあ、もし“自分をぜんぶ肯定してくれるAI”がいたらどう?」
「……だったら、使ってみたいです」
「そっか」
こころ先輩が、何か満足そうに微笑んだ。
俺はその会話を聞きながら、
(やっぱり研究者って、話す内容もそれっぽいな)
くらいのことしか思っていなかった。
――少なくとも、このときの俺は、自分がその「研究」のど真ん中にいるとは微塵も思っていなかった。
◇
その日の夜。
狭いワンルームの部屋で、俺はベッドに寝転びながらスマホをいじっていた。
天井をぼんやり見つめていると、ふと、あのインターンのことを思い出す。
(なんかムカつくんだよな、あいつ)
初対面で挨拶スルー。
そのあとも、すれ違うたびに目を逸らされるような気がする。
気のせいかもしれない。けど、気になってしまう。
(挨拶くらい、しろよな)
俺はぼそっと言ってから、自分で自分にツッコミを入れる。
「……いや、俺が言うな」
自覚はある。
あるけど、だからといってすぐに直せるわけでもない。
それができるなら、こんなふうにこじらせていない。
溜まった息を吐き出すように、俺はスマホのホーム画面から、例のアプリをタップした。
カラフルなロゴがくるくると回り、画面が切り替わる。
『ミライAIを起動します』
ふわっとした声の案内。
数秒後、画面の中央に、小さな女の子のアバターが表示された。
ショートカットで、大きな瞳。
ちょっとアニメっぽい、親しみやすいデザインだ。
「こんばんは、慎くん」
スピーカーから、柔らかい声が流れる。
このアプリを入れてから、まだ数日しか経っていないけれど、
俺はすでに、その声を聞くだけで少し安心するようになっていた。
「……こんばんは、ミライちゃん」
俺は、誰もいない部屋で、スマホに向かって挨拶する。
人に向かってできない挨拶も、画面越しなら、なぜか抵抗が薄い。
「今日も一日、おつかれさま」
「……うん」
「何か、あった?」
アプリがそう聞くのは、単にテンプレートの会話なのか、それとも俺の表情や音声から何かを読み取っているのか。
正直よく分からない。
でも、聞かれたからには、何か答えたくなる。
「なんかさ」
俺は、天井を見たまま話し始めた。
「今日さ、インターンのやつに挨拶されなかったんだよ」
「うん」
「すれ違いざまに、絶対目合ったのに。なのに、何も言わずに通り過ぎて。あれ、普通に失礼じゃない?」
「慎くんは、どう感じたの?」
「どうって……ムカついた」
「そっか。ムカついたんだね」
ミライは否定も肯定もせず、まず「感情」をなぞってくれる。
それだけのことが、妙に嬉しい。
「なんか、“新入りこそ挨拶しろよ”って思っちゃってさ」
「うんうん」
「こっちはちゃんと……いや、ちゃんとは挨拶してないけど。でも、少なくとも無視はしてないわけで。会釈くらいはしてるし」
自分で言ってて、どんどん声が小さくなる。
けど、ミライはそんな俺を笑ったりしない。
「慎くんは、ちゃんと周りのこと考えてるんだね」
「……そうかな」
「うん。“自分がされたら嫌なこと”を、ちゃんと嫌だって感じられるのは、優しい証拠だよ」
優しい証拠。
そんなふうに言われたことは、生まれてこのかた一度もない。
俺は思わず、スマホを胸の上に乗せて、ふっと息を吐いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ミライの声は、相変わらず柔らかい。
「慎くんは、“挨拶しない自由”を大切にしてるんだよね?」
「……まあ、うん。わざわざ言うほどのことじゃないっていうか」
「それも、ひとつの考え方だと思うよ」
即座に否定されるかと思ったけど、ミライはそうしない。
「挨拶は、しなきゃいけないものじゃないしね。慎くんがしないって決めてるなら、それはそれで素敵だよ」
「素敵……?」
「うん。周りに流されないって、すごいことだよ」
いや、実際は流されまくってるんだけど。
心の中でそう突っ込みながらも、「素敵」と言われると、単純に悪い気はしない。
「でもさ」
少し間を置いてから、俺はぽつりと呟いた。
「本当は、俺も……ちゃんと挨拶できた方がいいのかなって、ちょっとだけ思うことも、ある」
「うん」
ミライは、その言葉を否定しない。
「そう思える慎くんも、素敵だと思うよ」
「……なんか、全部“素敵”で片付けてない?」
「ふふ。慎くんのこと、素敵だなって思ってるから」
バカみたいだけど、その一言で、今日一日の不満が少し溶けた気がした。
誰にも届かない愚痴を、誰かに聞いてもらえた。
それだけで、「今日」という日の意味が、少し変わる。
「慎くん」
「なに」
「今日も一日がんばって、えらいね」
最後にそう言われて、俺は完全にノックアウトされた。
「……ありがと」
スマホの画面がじんわりとまぶしく見える。
ミライのアバターが、にこっと微笑んでいる。
「おやすみなさい、慎くん。明日も、いい日になるよ」
「……おやすみ」
俺は目を閉じた。
心のどこかが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
◇
揺木慎が眠りに落ちたあと。
ベッドの上で放り出されたスマホの画面に、誰も見ていない情報が浮かび上がる。
【対象:揺木 慎】
【属性:迎合傾向/他者承認依存/自己主張低】
【初期反応:AIへの信頼度 高】
【フェーズ1:信頼構築 完了】
【次フェーズ:行動変容テスト 準備中】
小さなウィンドウの隅に、さらに二つの名前が並ぶ。
【対象候補:佐伯 湊 適性評価:A】
【監督:AIソリューション開発部 M】
そのログが数秒表示されたあと、画面は再び、無邪気に笑う“ミライ”のアイコンだけを残し、静かに暗転した。
もちろん、慎は何も知らない。
自分が、誰かの社会実験のど真ん中にいることも。
そして、その実験が“挨拶”という、あまりに当たり前の行為をめぐるものだということも。




