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怪異の書板2

 月の灯りが欠片ひとつ残さず雲に呑まれた夜だった。

 村を見下ろす緩やかな丘で、わたしは背嚢を枕に寝転がり、弓の弦を指ではじいて暇つぶし。横ではハルメアスが長槍を地面に突き立て、石像みたいに闇を睨んでいる。潮の匂いがまだ髪に残る極東の空気はしんと冷えて、焚き火なしの待伏せはけっこう堪える。


「ねえ、ほんとにここで良かったの?」

 軽い声で尋ねると、赤い髪がわずかに揺れた。

「“影は高い所を嫌う”。怪物退治の古い常識だ」


「へえ、剣豪豆知識。じゃあわたしは“影の矢”で援護だね」

「助かる。仲間の呼吸は守らないとな」

 それは彼の口癖――*戦場で真に守り得るものは二つだけだ。仲間の呼吸と昨日の自分への赦し。


「呼吸はともかく、自分への赦しってやつは昔から苦手でさ」

「だから戻って来い。“昨日より少しだけマシな自分”を連れて」

「うわ、重い励まし!」


 そんな冗談を言い合う間も、地の底から太鼓を叩くような振動が近づいていた。槍の石突きがカッと火花を吐き、ハルメアスの声がひそむ。


「――来る」


 松明を掲げると、谷の入口で木々が割れ、赤黒い巨影がのそりと姿を現わした。二本の曲がった角、牛の胴、鬼の顔。噂の“牛鬼”がほんとうに来たのだから、世の中は親切だと思う。


「おー、デカい。語彙が蒸発するレベル」

 わたしが半笑いで呟く。

「語彙は斬られない。問題ない」

「いや、わたしのメンタルが斬られそうだから!」


 牛鬼が地を蹴る。棍棒――というより伐り株丸ごと削った怪物みたいな武器――が夜気を割った。土煙と岩の破片が雨あられ。ハルメアスは長槍を投げ捨て、光より速い踏み込みで怪物の膝裏に短剣を差し込む。


「――ッ!」


 斬撃は浅い。裂いたのは皮下の脂肪、いや、誤差で怒りのスイッチ。牛鬼が咆哮し、逆袈裟の拳で彼を叩きつけた。鎧の胸板が爆ぜ、火花のように鋲が飛ぶ。


「うわ、吹っ飛んだ!」

 動揺で矢の番えが遅れる。けれどハルメアスは転げたまま笑った。


「戦はいつも誤解から始まるんだ。**“痛い”という単語なら誰の言語にもある**。今ので少しは通じた」


「いや通訳雑すぎでしょ!」

 それでも引き絞った弦を離す。矢羽根が悲鳴をあげて飛ぶが、牛鬼は腕で弾いた。肉に刺さらず、硬質な火花だけ。赤い稲妻が角から走り、闇が真昼の青に染まった。


「やば、雷も撃つタイプ!」


 ハルメアスは地面に片膝をつき、血の混じる息を吐いた。

「アルヴィン、弓を休め。俺が近づく」

「休んだら刺身になるよ!」

「刺身は好きだが、今日は遠慮する」


 牛鬼が唸り、彼へ突進。棍棒が再び振り下ろされる。しかしハルメアスは瞬時に武器を捨てた。空手で、いや素手で巨木を受け――受け流せるわけもなく、鎧ごと肩を砕かれた。


「っぐ……!」


 土埃が上がる。わたしは樹影から身を乗り出すが、足が震えて動かない。耳奥で心音が鉄槌を打つ。


「立って…!お願いだから、立ってくれ!」


 牛鬼の蹄が震動とともに迫る。咆哮は稲妻より鋭く、わたしの鼓膜を破りそうだ。わたしは矢をつがえ直すが、視界が揺れて狙いが定まらない。 


 そのときだった。夜空を引き裂く一条の光。星でも隕石でもない、赤錆めいた輝きが一直線に落下し――牛鬼の眉間を正確に穿つ。


 ゴン、と鉄を打つ乾いた音。巨体がよろめき、角の根元から血の煙が立ち上る。


「な、なに?」


 土埃の向こうで、ハルメアスが顔を上げる。額に汗と砂、肩口から鎧の破片がぶら下がっているが、その眼には再点火した炎が映っていた。


 彼は立ち上がり、牛鬼の額に突き刺さった“それ”を両手で掴む。刀身は薄紅、鍔はまだ鍛ち終えたばかりの生色。柄巻きなど無いのに、彼の掌に収まった瞬間、脈動が刀を走って真紅の文様を描いた。


「――村正?」


 彼の口が、初めて見る名をそっと呼ぶ。まるで刃に刻むように。 


「まだ終わってない」


 低く漏らした声が夜気を震わせる。彼は刀を抜き上げ、返す刹那に血煙を払う。牛鬼の片目が潰れているのがちらりと見えた。怪物は痛みより怒りを選び、棍棒を振り上げる。



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