怪異の書板1
北方街道の場末酒場。わたしが皿の底をつつきながら
「“角つきの影”が畑を荒らしているらしい」
と口にした瞬間、向かいのハルメアスが竜槍の石突きを軽く叩いた。
「行き先が決まったようだな」
「まだ“ようだ”の段階だってば。噂だけで向かうとか、旅程が霞むよ」
わたしが苦笑で釘を刺すと、彼は水を飲むみたいに当然の声で答える。
「強者が黙れば闇は濃くなる。――噂が声なら、俺の槍は灯火さ」
そんな格好いい台詞を残しておいて、宿の寝台に転がったとたん無防備に寝息を立てるのだから、この英雄はずるい。
翌朝、地図を畳んで北へ発ち、氷と松の匂いが混ざる峠を抜けた頃には、わたしも半ばその気になっていた。
さらに海を渡り、木造家屋が肩を寄せる極東の入り江へ着いたのは赤霞けぶる夕刻。潮の香りを吸いこむ間もなく、焦げた茅の臭いが鼻を刺した。瓦が崩れた屋根、畑に刻まれた巨獣の足跡――噂は脈を打って実在していた。
囲炉裏端で震える村長は、目尻の皺まで悲鳴を刻んでいる。
「鬼神を……どうか、お討ちくだされ……」
薪が爆ぜ、灰が舞う。ハルメアスは一歩進み、ぴたりと頭を下げた。
「承知した。ただし条件がある」
「へ、へい?」
「村の者は今夜、家に篭もり声を上げないこと。――俺が護るのは鬼神と戦う刹那だけじゃない。“仲間の呼吸”と“昨日の自分への赦し”も守る。だから無用な犠牲は出させない」
難しい言い回しに村長は瞬きしたが、結局ぶわっと泣いて頷いた。
囲炉裏を離れた廊下で、わたしは横目で彼を見上げる。
「つまり“手出し無用で村人は大人しくしてて”ってこと?」
「そんなところだ」
「言い方が詩人すぎるんだよ。半分も伝わってない気がする」
「大丈夫さ。伝わらない恐怖は、伝わらないだけで少し薄まる」
のほほんと言い切るから腹が立つ。
夜の山裾を偵察しながら、わたしは哲学講義を要求した。
「ねえ、“戦いは共感だ”ってどういう理屈? 痛いだけじゃないの?」
「刃は敵を断つものじゃない。恐怖を分け合う薄膜に過ぎない――って前に言ったろ」
「言ったね。でも分厚い鉄板で殴る方がよほど恐怖を共有できる気がする」
「それは暴力の押し付けだ。共有じゃない。俺が斬る瞬間は、自分の怖さを刃に映す。そうすれば相手も一瞬は“同じ暗闇”を覗く。そこに理解の隙間が生まれる」
「理解したら殺さなくて済む?」
「済めばそれが一番。でも大抵は間に合わない。だから“斬るたび弱さを確かめる”」
彼の背で揺れる赤髪が、松明の光を飲んで炎の尾みたいに揺れた。
丘の上に野営を張ると、わたしは書板に走り書きした。
戦場で守るのは仲間の呼吸と昨日の自分への赦し
勝つより帰る方が難しいと知る人の言葉だ
「おい、肩凝ったなら代わるか?」
槍を研ぎながらハルメアスが笑う。
「大丈夫。筆は軽いんだ。重いのは書く内容だよ」
「内容が重いのはいい。紙が燃えたら俺が歌で残せばいい」
「私は紙が燃える前提の仕事したくないんだけど!」
軽口を交わしながら、焚き火は夜更けまで続いた。
深夜、雪雲の向こうで山が呻いた。はるか闇に、角を戴く影が月を裂く。
ハルメアスは槍を地に突き、私に顎をしゃくる。
「ここから先は俺が行く。矢は温存しろ」
「はーい、今日も安全第一でね。って言っても聞かないけど」
「聞くさ。仲間の呼吸を守るってそういうことだからな」
彼はそう言い残し、黒い山道へ溶けていった。