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黎明の書板6

 焚き火の(おき)が闇を焦がし、湖面に揺らぐ黄の輪郭をつくっていた。

 火花ひとつ落ちるたびに、向かいのハルメアスの赤髪が金の糸を通す。


「――乾砂の風 ほそほそと」


 彼の喉からこぼれたのは、甘い蜜を含んだ夜の吐息。歌になる前兆を私は逃さない。


「乾砂の羽根は くるくると」


 声は湖畔の霧を撫で、焚き火を小さく震わせる。温度がほんのわずか上がった気がした。


 めぐり逢う朝を 探しつつ

 脈うつ拍だけ 道標に――


 最後の一拍が闇へ溶けた瞬間、私は深く息を吸う。

 霧さえ名残惜しむその甘さは、銀の壺にでも閉じ込めておきたいほどだった。


「路銀くらい、すぐ稼げそうだ」


 冗談めかして言うと、ハルメアスは薪をつつきながら短く笑った。


「金で量れる歌じゃないさ。それに──」

 視線だけ寄こし、唇の端をわずかに上げる。

「お前は独り占めを望むだろう?」


 図星。焚き火を見つめていても、頬が火に染まるのがわかった。

 彼が旅布を肩にかけ、私の隣へ座る。


「お前が月に似ているって話、覚えてるか?」

「月は光を返すだけだと、前に言ったろ」

「揺らぐからこそ光を持つ。だから俺は歌える。鏡が要るんだ」


 私の指は勝手に彼の指を探していた。重なった瞬間、脈動が熱を運ぶ。


「鍵は私が預かろう」


 囁くと、ハルメアスは声を立てずに笑った。


「……その男は、どんなやつなんだ?」


 胸に棲む棘が疼き、私は問わずにいられなかった。


「焼けた褐色の肌に銀の髪、紫の目。知恵と音楽に長け、穏やかな顔で怪力を隠す。──まるでお前だ」


 からかうような声音だが、瞳は遠い。


「もっとも“恋人”と呼ばれたことは一度もなくてね」

「恋人じゃないのに恋人と言うのか?」

「信仰の都合で伴侶になれない。だから触れ合うのも、指を絡める程度だ」


 言うが早いか、彼の指が私の手をすくった。

 突然の熱に頬が跳ね上がる。


「なっ、触るな。──恥ずかしい」

「はは、あいつもそんな反応だった」


 罪深い男、とはこのことだ。


「甘い話か?」


 と私が皮肉ると、彼は首を振った。


「いや、足りないんだ。俺には子どもがいる。十四になる頃で──俺に似て魔術に()けてる」


 焚き火の奥の闇が一段と深くなる。


「かつての伴侶はもういない。王都には黒髪の許嫁がいるけど、嫌ではないが……“らしくない”とも思う」

「嫌なら断ればいい」

「断るほど嫌でもない。だけど、あいつが聞けば厄介な顔をする」


 私は思う。伴侶をつくらぬと残した者を想い、子を抱え、許嫁を気遣う。この重さごと受け止めたいと願う私は、果たして欲深いだけの書記なのか。


「君は随分恋多き男だ」とこぼすと、ハルメアスは肩をすくめた。

「逆に俺が一人を想っている方が珍しいって言ったろ」

「充分慕ってるさ。そっくりの俺へ胸の内を漏らすくらいだ」

「見た目だけなら興味は持たない。惹かれたのは、お前の文字への誠実さと──勇気だ」


 胸が焚き火より熱くなる。


「恋は難しいな」

「恋だけなら簡単。相手を求めるから難しい」

「叶わなくても努力は副産物をくれる。痛みは薄れても、後悔は残る」


 私は筆を走らせる指を握り直した。


「いずれ恋情は風化する」

「だから愛へ変えるんだろう?」


 ふっと彼は笑った。


「女に興味は?」

「興味がないわけじゃない。ただ……今は許嫁しかいない」

 胸のざわめきが小さく鳴る。

「誰にでも優しいのは無責任だ」

「……あいつが好きにならなきゃ意味がない。好きな人と結ばれる世界があるなら見てみたい」

「お前、重いぞ」

「許嫁にも言われた」


 夜風が湖を撫で、乾いた木枯らしの詩を囁く。


「前の奥方は?」

「男だ。ジュリアノス。兄で師で、恋の輪郭だけ欠けた存在」


 彼は焚き火を見つめたまま語り始める。

 ――熱を持たない焚き火。黄金の炎の形をしながら冷えた数式の匂い。

 幼い私を玉座へ運び、自分の影だけを足元へ敷いた。

 影は温かったが、愛ではなかった。

 彼は世界を締め上げ、私は赦しの象徴に据えられた。

 アリストテレスが落ちた夜、ジュリアノスは空を鉄色に染め、私に剣ではなく歌を託した。

 放射線の閃光が彼を貫いたとき、私は初めて熱を感じた――


 静かな独白に、焚き火の炎が一度だけ高く揺れた。私は息を呑む。

 ハルメアスは灰を握りしめたまま生きている。


「……風を入れるのは俺の役目だと思っていた」


 語り終えた彼は、燃え残りを見つめて言う。


「けど“火を守る手”が隣にあるなら、次の夜が少しだけ温かい」


 私は薪を足し、火守として笑った。


「ジュリアノスがくれなかった熱、今なら少しは分けてやれる」


 彼は驚きの色を帯びたまま瞳を細めた。

 焚き火が二人の影を重ねる。

 夜明け前、湖面は漆黒から群青へ染まりつつある。

 焚き火は熾火になり、ふたりの肩だけをやわらかく照らしていた。


「おやすみ、ノア。火は──」

「私が守る。灰になるまで、見届けるさ」


 彼の寝息が落ち着き、私は火番を続ける。

 湖の微かな波音が子守唄になる。

 恋は難しい。愛は苛烈だ。

 けれど、ここに残った熾火を守る選択肢は、ただ一つしかない。

 焦げても灰になっても、私は歌と文字で彼の炎を繋ぐ。


 乾砂の風はほそほそと、

 乾砂の羽根はくるくると。


 めぐり逢う朝を探しつつ、脈打つ拍だけを道標に。


 夜明け前、乳白の靄が湖を抱きとめ、東雲の金が水面にしずくのように滲んでいた。

 赤髪の青年――ハルメアスは霧を背負い、抜き放った剣を杖のごとく突き立て、遠くかすむ稜線を見据えている。息が白く、けれど瞳だけは焔色のまま揺らがない。

 私はそっと背後へ歩み、手帳の余白に震える筆を置いた。


 正義とは、選択の後に掲げる旗ではなく

 選択の前に灯る炎――

 炎を抱く者の名を、世は後に英雄と呼ぶ。


 墨が乾く前に微風がめくり、紙の上にうっすら霧粒が散った。それでも文字は滲まず、まるで彼の意志と同じ強度でそこに定着している。


 旅はまだ始まったばかりだ。名も肩書きも持たぬ漂泊者と、かつて彼と共に異郷から来たことを忘れた書記――たった二つの影が、湖畔を離れ、砂混じりの潮路へ歩を重ねる。

 行く手に待つ闇と光の総量を、私はまだ知らない。砂漠の飢饉、湖の怪、凍った王都の戦塵――どれほどの悲嘆が彼の炎を試すかも、計りかねている。それでも確かなことが一つある。昨夜、焚き火の向こうで聴いたあの甘い歌声が胸に残る限り、どんな夜でも私の魂は凍えはしない。


 薄紅の太陽が湖面から跳ねる瞬間、ハルメアスは静かに剣を収めた。柄頭(つかがしら)が鞘口を叩く乾いた音が、夜の終わりを告げる鐘のようにひびく。青年は振り返りもしない。だがその背は「行くぞ」と無言で語り、風が応えるように赤髪を揺らした。

 こうして漂泊の日々が幕を開ける。――まだ世界のいかなる年代記にも刻まれていない正義のかたちが、彼の背で燃えている。私はただ書き留める者として、その炎の揺らぎを紙の檻に閉じ込め続けるだろう。夜明けの風が吹くたびに、胸の書板へ新たな行が刻まれてゆく。


 正義とは、選択の前に在る炎。

 炎を灯し得る者の名を、人は後になって“英雄”と呼ぶ。


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