黎明の書板5
パルティノ──山峡の底に水鏡を湛える集落は、昼は絹のように滑らかな湖面で旅人を迎え、夜はその同じ水面が黒水晶に変わり、住人の灯火を脅かしていた。
到着した夕刻、桟橋にはひしゃげた小舟が並び、折れた櫂には不自然な歯痕が残る。漁師たちは岸辺に群れ、月が満ちるたび黄金の鱗の怪物が現れると怯えていた。
夜半。湖は雲ひとつない蒼穹を映し、月光が滑らかに揺らいでいる。ハルメアスは剣を帯びたまま、波打ち際に片膝をついた。
赤髪を梳く風はひんやり甘い藻の匂いを運ぶ。私は少し離れた桟橋の影で筆を構え、彼の背中を見据えた――これから始まる“在り方”の記録を一字も逃さぬために。
湖の中心が、不意に息を吐くように窪んだ。周囲の水が吸い寄せられ、暗い渦が形成される。渦心からのぼった泡が暁色の月を歪め、黄金の扇鱗をまとった胴がゆらりと姿を現した。
長さは十間を優に超える。胴の節々に翡翠じみた棘を生やし、角ばった頭蓋には冑のような鰭冠。湖王バジリスク――水龍とも鱗蛇ともつかぬ怪物が、ねじれた首を岸へ向けた。
その魔眼を恐れる者は視線を逸らすが、ハルメアスは立ち上がり、剣の鍔を月へ向けて押し当てた。
鍔が鈍く鳴り、湖面をかすかな震波が走る。怪物は咆哮とも水柱とも判別しがたい音を発し、胸鰭を翼のようにひらめかせて突進してきた。水が轟き、黒い鏡面は粉砕されたガラスの破片へと豹変する。
ハルメアスは足を半歩すべらせ、刃を肩口から真横へ引いた。
その動きは一見、ただの“間合い取り”に過ぎなかった。しかし剣の軌跡が空気を裁断し、湿気を帯びた夜気が一瞬白く凝結した。
迫るバジリスクは頸部の鱗を逆立て、毒を混じえた潮を噴きつける。霧のように拡散した飛沫が浜辺の礫を焦がし、赤錆色の煙を上げた。
「来るぞ……!」
思わず叫んだ瞬間、ハルメアスの眼前で時間が沈黙したかのように見えた。月光が彼の影を湖へ突き刺し、世界がひと息で収縮する。
閃光。
耳で捉える前に見えた。剣閃が月の光条を借りたように走り、続いて重低音の衝突が波長を歪めた。
空間を二つに挟み切ったかのごとく、水は左右へ裂け、刃筋だけが湖底の泥をも露出させた。一本の直線を境に、左側の水は静止し、右側は嵐のように沸き返る。
私は思考を失い、ただ光の残像を追う。バジリスクの巨躯が頭から胴へかけて斜めに割け、断面から噴き出す濃紺の血が夜空へ黒い噴水を作る。
巨影はなお慣性で岸に迫るが、数歩手前で力をなくし、水面に崩れる。鮮血に似た深青の波紋が大輪を描き、やがて静寂が戻った。
ハルメアスは剣を逆手に握り直し、わずかに残る毒霧を刃先で裂いて散らした。赤髪の下、額を一筋の汗が滑る。
私は膝から崩れそうになりながら駆け寄り、声にならない声で名を呼んだ。彼は振り向きもせず、ゆっくりと湖へ歩み寄る。
自らが斬り落とした頸──黄金鱗に覆われたそれは、船ほどの重みで水面に漂っていた。ハルメアスは屈み込み、指でその血を掬う。深い瑠璃色が掌を濡らし、月の光を拒むかのように艶めく。
「悪を疑う暇があるなら、罪なき者を先に守れ」
その呟きは風より静かだが、夜気を震わせて私の耳奥に到達する。
村の灯火が遠くで歓声に変わり、浜辺から子どもらの泣き声が消えた。私は震える筆先で羊皮紙を押さえる。だが文字はにじみ、単語は散る。
見知らぬ怪物の血は、湖面に落ちた瞬間、青い靄となって霧散した。ハルメアスの掌を汚した瑠璃色もまた、肌に吸い込まれるように消える。
私は恐る恐る問いかける。
「……その血は、毒では」
「毒性は湖で希釈される。問題なのは“恐怖”の方だ」
「恐怖、ですか?」
「バジリスクは魂の隙を啜る。斬っても夜ごと輪廻の水から滲むだろう。だが湖の人間が“恐れない”と決めれば、怪は形を結べない」
私は筆を止めた。救済とは怪物を討つだけでなく、残る恐怖を押し流す“在り方”を示すこと――それこそが彼の戦いなのだ、と悟る。
夜雲が流れ、月が正中に昇った。湖面は再び鏡となり、バジリスクの痕跡を映さない。
ハルメアスは剣を鞘に納め、肩越しにただ一瞥をくれる。瞳には影があった。巨怪を屠った後の安堵でも誇りでもなく、“正しさ”という名の天秤が揺れる鈍い光。
集落の灯がこちらへ向かって増えていく。人々は感謝の言葉と供物を携え、英雄の帰還を祝う用意があるのだろう。
しかしハルメアスは背を向けた。
「祭りと称して湖を照らしすぎれば、恐怖を隠した夜も燃える。闇は残すんだ」
私は頷き、墨の乾かぬ書板を胸に抱く
。
正義は彼の呼吸で燃え、刃はその燃え滓で光る。そして私は――その灰で紙を黒く染め、物語を刻む者だ。
湖の上を渡る冷たい風が、血の匂いを奪っていく。月は蒼く、静かに沈黙を守った。