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黎明の書板4

 南方の大砂丘帯〈バル=サリム〉に抱かれた村ミオールへ着いたのは、旅を始めて二十日目の黄昏だった。砂は熱を失いかけていたが、空気は相変わらず嗄れた喉のように乾き、遠くの蜃気楼は灯のない楼閣を宙に浮かべていた。


 ここ三か月、雨は一滴も落ちていないという。枯れ井戸の石壁には痩せた蔦が縋りつき、畑はひび割れた陶器のように白く反射している。牛の姿はなく、羊は骨ばかり。子どもの泣き声すら、もはや水を求める気力を失っていた。


 村の広場に火の気はなく、長老たちは燃え残った炉端に集まって我々を迎えた。最年長の男は皮膚が透けて骨の編み目が見えるほど痩せ細り、首に下げた真鍮鈴だけがかろうじて過去の豊穣を思わせた。


「旅の方……」


 乾いた砂を踏むような声で彼は言った。


「この村を通るなら、ひとつ頼みがある。生贄となり、雨を呼ぶ巫女の供物となってはくれまいか」


 私は息を呑んだ。遊牧地帯の雨乞い儀式に死人が出るとは聞いていたが、実際に命を差し出せと懇願されるのは初めてだった。


 だがハルメアスは眉一つ動かさず、長老の前に歩み出た。


「生贄が雨を呼ぶとは限らないだろう」


「それでも、せめて希望だけでも欲しいのだ」


 長老は膝を折り、砂を掻いて縋った。


「若者は飢え、女は乾き、わしらはただ死を待つばかり……」


 ハルメアスは俯き、その肩越しに赤い髪がさらりと垂れた。黄昏の光を吸って薄焔のように揺れ、ふいに彼は夜空を見上げた。


「要るのは命ではなく、水だ」


 そう呟くと、彼はゆっくりと右手を掲げる。掌に淡い白光が集まり、風に舞う砂粒が光の筋を描いて彼の周囲に渦を巻いた。


 私の背に冷たい戦慄が走る。〈赦しの英雄〉が本気で術を振るうとき、世界はかすかに軋む音を立てるのだと以前に聞いた。


 白光は次第に強まり、上空の雲なき空へ細い柱となって伸びていく。乾いた星々の間が裂けるように音もなく開き、暗い裂隙から群青色の雫がひと粒、またひと粒――やがて滝のように溢れ始めた。


 最初の雨は砂に落ちて煙を上げ、それでも降り止まない水はやがて地に沁み、井戸に沁み、畑を黒く潤した。幼子が泣き声を取り戻し、母親が泥だらけの桶に水を受けて歓声を上げる。


 雲もない空から降る雨は、まるで夜そのものが融けて注いでいるかのようだった。誰もが呆然と立ち尽くし、長老だけが震える手で鈴を鳴らして泣き崩れた。


 一晩中、雨は降り続いた。私とハルメアスは屋根の抜けた納屋で夜を明かし、明け方、貯水池を覗くと水面がぎらりと月の残光を映していた。畑に芽吹く若芽を見て子らが泥を跳ね上げて走り回っている。


 村人たちは湿った衣のまま広場に集まり、彼の前に額を擦りつけた。


「この雨は我々の祈りに応えてくださった証し……どうか、我らとともに栄えの宴を!」


 歓声の嵐の中、ハルメアスは首を横に振る。


「雨は俺のものではない」


 しゃがれた声が、夜明けの凪を貫いた。皆が息を呑む。


「お前たちが互いを喰らわず、来年も土を耕せるか――それが真の救いだ。雨を神と呼ぶなら、その神は明日も試すだろう」


 静寂が降りた。大地に水が戻っても、心に獣が戻れば、同じ飢えが再び来る。そう言外に告げた彼の言葉は、祝祭の歓喜より深く村人の胸へ沈んだようだった。


 私は焚き火のそばに座り、煤けた書板へ細い文字を刻む。灯心が水滴を弾き、白い煙が鼻を刺した。


 ――救済とは与えることではない。与えた後に残る空白を見届ける業であり、それを埋めるかどうかは救われた側の選択なのだ。


 長老は火に手をかざしながら、しわがれ声で言った。


「我らは明日から互いを喰らわぬと誓おう。旅の方、その言葉を記してくれるか?」


 私は頷き、羊皮紙の余白に墨を置いた。言葉は刃ではなく土壌を耕す鍬のようだった。村人たちは顔を上げ、互いの濡れた頬を見つめ合う。誰もがどこか後ろめたそうに、しかし小さく頷いた。


 私は焚き火のそばで羊皮紙を広げ、震える筆先を押さえた。黒インクが雨にじむ。

 ――救済とは与えることで終わらない。与えた後に残る空白を見届ける。それは記録者の務めでもある。


 夜明けの後、雨は静かに去った。井戸には澄んだ水が満ち、砂上に即席の水路がきらめく。子どもたちが裸足で跳ね、泥飛沫を虹に変えた。ハルメアスは井戸の縁に腰掛け、濡れた髪を手ぐしで払いながら遠くの雲の消える方を見ている。


「さっきの光……稲妻ではなかったですね」


 私は囁いた。


「稲妻は導火線だ。本当に降らせたのは、空の向こうで眠っていた海だよ」


「海……」


「かつてこの大陸の下にも、深い潮が走っていた。雨を忘れた雲に、その記憶を一瞬だけ思い出させただけだ」


 それ以上の説明はなく、私は首を傾げたが、問い返さなかった。

 やがて長老が差し出した椰棗酒を辞退し、彼は立ち上がる。


「行こう、ノア」


「もう、ですか? 祭を開きたいと……」


「祭は彼らのものだ。旅の者が甘い酒を飲めば、恩を売ったと誤解される」


 落ち着かない胸を抑え、私は記録を巻物に綴じた。

 歩きだした砂道で、背後から歓声が再び上がる。


「ハルメアス様! また雨を!」


 叫ぶ子どもの声に、彼は振り返り、片手を挙げた。


「雨はお前たちの空に宿った。次は自分たちで呼び戻せ」


 子どもは目を丸くして頷いた。その小さな手は、やがて種を蒔き、土を耕すのだろう。

 私たちは村を後にし、まだ濡れた砂丘を踏む。陽の矢が昇り、雫を纏った砂は金と翡翠の粒を散らしていた。


 ハルメアスの影と私の影が二本の線になり、やがて一つに重なる。正義は血潮に宿る、と彼は言った。

 ならば筆は、誰の血の匂いを帯びるだろう。旅の先でまた救済の空白が生まれるたび、私は恐らく同じ棘を胸奥に感じるだろう。だがそれを書き記すことでしか、私は彼の剣と並び立てない。


 乾いた風がまた吹き始めた。砂丘の稜線の上、遠雷のような雲影はすでに消えている。けれどミオールには確かに水が残り、まだ柔らかな若芽が朝日に伸びようとしていた。

 砂漠の旅は続く。


 “名を持たぬ漂泊者”と、その跡に影を並べる書記。

 救いも試練も、赦しも業も、すべては砂の上に一度刻まれ、風に消え、そして紙の檻の中で永遠となる。


 私は巻物を抱き、胸に問う――次の頁に、どれほどの雨と血を受け止める覚悟があるのかを。


 日が昇り切るころ、砂丘は夜の濡れ色を失って再び黄金に輝いた。だがその下には、水脈を抱えた新たな大地が息づいている。この村が来年、再び雨を呼ぶかどうか――それは彼ら自身の物語だ。


 ハルメアスは背でそれを告げるように、村人の拍手を振り切り、旅衣の裾についた泥を払った。私は彼の後を追い、赤く濡れた砂を踏みしめながら歩き出す。


 振り返れば、子どもたちが水溜まりで跳ね、空に残った蒼い雫が風に散っていた。


 砂漠の果てには、まだ名も知らぬ乾いた村々が待っている。私は胸に棘のような痛みを抱えつつ、それでも筆を握り直す。いつかこの雨の夜の記憶が、別の地で別の命を潤すと信じながら。



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