黎明の書板3
砂漠の夜明けは、焔の名残りを薄紅に染めていた。露店がまだ帆布を広げぬうち、私とハルメアスは土壁の安宿二階、ひび割れた踊り場に腰を下ろした。
干し棗の酸味が残る固いパンを分け合いながら、私は胸中の疑問をそのままぶつけた。
「あなたはなぜ正義を語れる? 英雄とは――業でしかない、と人は言います。血と悲鳴を重ねた末に掲げる旗のようなものだと」
ハルメアスはひと口パンを嚙み、咽を鳴らすと、遠くの空を指でなぞるように見上げた。
「正義は行為の果てに刻む看板ではない」
乾いた声が、まだ冷え切らぬ闇をたおやかに裂いた。
「俺が息を吸うかぎり、正義もまた血潮に宿る。――ただ、それだけだ」
鋭い刃と言うより、砂粒を掌にこぼすような自然さだった。私は己の筆が震えるのを覚え、慌てて羊皮紙を押さえた。
「では、その“血潮としての正義”と剣は同じですか?」
火を落としたランタンの芯が小さく弾ける。ハルメアスは腰の村正に視線を落とした。
「似ているが、同じではない」
彼は指先で鍔に触れ、呼吸のように短く息を吐く。
「剣は外に在る。振るう腕の理屈や感情を選ばず、ただ結果を裂く。だが正義は内に在る。握り締めずとも、脈を打つたび汚れては澄む血だ」
「なら、汚れない剣を求めるのは愚かでしょうか」
「汚れない剣などない。だが“汚れを映さぬ鞘”は持てる」
「鞘……?」
「忘れるか、赦すか――決める場所だよ」
ハルメアスは掌を鞘の曲面でそっと撫で、続ける。
「戦いの後、刃を拭わず鞘に戻せば錆びる。だが拭いすぎても、刃はやがて欠ける。だから俺は鞘に『赦し』を置く。血糊も涙も全部ここで受け止めて、次に抜くときには“今の正義”だけを映すように」
私は唾を飲んだ。
「赦しというのは、罪を水に流すことですか?」
「違う。罪を“在ったまま”ここへ納めることだ。納めた上で、次の一太刀に過去を引き摺らせない」
彼はふと笑う。
「赦しを“忘却”と勘違いする者は多い。だが赦しとは、記憶を閉じる檻だ。檻があるから、獣は外へ出られず、俺は歩ける」
私は筆を握り直した。インク壺の底が朝光を受けて鈍く光る。
「──なら、英雄とは?」
「赦しの檻を自分で作り、自分で背負って歩ける者だ。檻が大きくなるほど重くても、歩みを止めない」
「あなた自身のことを言っていますか?」
「違う。俺は歩くだけの人間だ。英雄と呼ばれるかどうかは、後ろへ残る足跡をどう読むかに過ぎない」
踊り場の下で物売りが呼び声を上げ始めた。異国の香辛料が乾いた風に乗り、緋の天幕がゆっくり広がる。
「ノア」
名を呼ばれ、私は顔を上げる。
「君は筆を剣にはしないか?」
「剣にするとは?」
「誰かを斬るためではない。“歩く理由”を見失いそうなとき、君自身を守る剣として、だ」
胸が熱くなった。筆で剣を鍛える――その比喩が、砂漠の初光より鮮烈に映った。
「書とは紙の上にあるだけでは錆びる」
「だから、鞘を要る」
「その鞘はどこに?」
ハルメアスは微笑み、胸を指差した。
「ここだ。君の心臓だよ。鼓動があるかぎり、言葉は抜き放たれ、また納められる。英雄の業も、旅の痛みも、すべて紙の檻へ収めて歩けばいい」
私は息を吸い、書板を閉じる。心臓の鼓動が鞘の鍵を鳴らすように響いた。
「わかった。私は歩きます。あなたの跡に、自分の影と筆を連ねながら」
ハルメアスは立ち上がり、剣帯を締め直した。
朝陽が土壁を金に染め、砂の舞い上がる路地へ行商人の声が満ちる。
「正義も剣も、新しい日とともに研ぎ澄まされる。行こう、ノア」
乾いたパンの残りを口へ放り込み、私は立ち上がった。
砂漠の宿は背後で扉を軋ませ、砂の匂いが頬を撫でる。
正義という脈動、筆という剣。両方を胸に抱え、私は再び彼の背中を追った。