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冥府の書板9

ここまで読んでいただきありがとうございました。よければ感想があればお願いいたします。

 世界は静かだった。


 それは、終焉の静けさではなかった。始まりの前の、息を呑んだ一瞬。


 長い旅路の果て。決戦の前夜。満天の星空の下、ノアとハルメアスは焚き火を囲んでいた。

 風は静かで、炎のはぜる音だけが小さく空気を揺らしていた。


 「明日が来るのが、怖いとは思わないのか?」


 ノアの問いは、投げるというより、置くように発された。

 ハルメアスはしばし沈黙し、火を見つめたまま答えた。


 「……怖いよ。だがそれは、失うことが怖いのではなく、守れなかった時の後悔が怖いんだ」


 「君はいつも“すべてを救う”と言う。それは理想じゃなくて、誓いなんだろう? だけど、すべてを救うなんて、誰にもできないよ」


 「知ってる」


 ハルメアスは淡く笑う。


 「愛する少数を捨て、見知らぬ大勢を助けるか。あるいはその逆か。どちらも正しく、どちらも悲しい。……だから、俺は全てを救ってきた」


 「どうやって?」


 ノアの声は熱を帯びていた。


 「どうして君だけが、それを成せると思える? どうして、そんな無理を受け入れられる?」


 「俺は、英雄じゃない。ただ、選びたくなかっただけだ。誰かを捨てるって決めた瞬間、人は正しさから逃げる。だったら、逃げないで踏みとどまる道を選び続ける。それだけだよ」


 ノアはその言葉に何も返せなかった。


 私は紙に書くことをやめ、火の向こうでまっすぐ座るハルメアスを見つめた。

 彼の横顔はどこまでも静かで、同時に、燃え盛る炎のように決して揺るがなかった。


 「……もし君が、明日戻ってこなかったら、僕はこの記録をどう締め括ればいい?」


 ハルメアスは少しだけ目を伏せ、言った。


 「書かなくていい。“何も起こらなかった”で構わない」


 「そんなこと、僕にはできないよ」


 「だから君が記録者なんだ。ノア、俺が消えても、お前が書いたものが残る。それだけで、世界はまた誰かを救うだろう」


 火が小さくはぜた。


 やがて二人は言葉を失い、ただ炎と星の音に耳を傾けていた。

 それは、世界が滅びる前に交わされた、最も静かな対話だった。


 時が限りなく細分化され、やがて光の速度をもって断ち切られる刻限――ハルメアスとサングインの最後の戦いは、その境界にあった。


 天空に浮かぶ白光の果て。そこには重力も熱も意味をなさず、すべてが“速度”によって塗り潰される世界。


 剣が閃けば、星の軌道すら曲がる。魔術が編まれれば、空間そのものが崩落する。


 この戦いに、もう言葉は必要なかった。


 だが、たったひとつだけ、言葉が残された。


 ハルメアスは空を見上げ、誰に聞かせるでもなく、呟いた。


 「愛する少数を捨て、見知らぬ大勢を助けるか。あるいはその逆か。どちらも正しく、どちらも悲しい。……だから、俺は全てを救ってきた」


 対するサングインは、黒き炎を纏って現れる。

 その姿はもはや人ではなく、記憶すら蝕む“存在の濁流”だった。


 「ハルメアス。俺は、人間の悪意によって、何度でも蘇るぞ」


 その言葉は、挑発でも嘆きでもなかった。ただ、構造的な真理だった。

 それでもハルメアスは一歩、前に出る。

 封印剣が、彼の手に応じて光を放つ。


 「なら、何度でも止めてやる。俺が、この手で」


 次の瞬間、世界は光速で裂かれた。

 剣と剣がぶつかり合うたび、歴史がひとつずつ書き換わる。


 時空が焼け、空が二重に重なり、重力が反転する。

 それでも彼らは斬り結び、躊躇なく命を賭した。


 千手の剣戟。万重の魔構式。

 あらゆる言語と詩と記録が追いつく前に、決着は訪れる。


 ハルメアスは、サングインの喉元に剣を当てた。

 サングインもまた、彼の胸に一閃を放っていた。


 相討ち。


 封印剣が喉を裂き、黒き炎が心臓を焼いた。


 ──すべてが終わった。


 世界は沈黙を取り戻し、風が吹き、海が満ち、草原に鳥が舞う。


 悪意は消え去らない。


 だが、それが“許されない”という前提だけは、残された。


 そして、ハルメアスの遺体はどこにもなかった。剣も衣も、灰一つ残されていなかった。きっと彼は、もとの世界に帰ったのだろう。


 そして、ハルメアスの名は、誰にも記憶されなかった。

 彼を知る者はおらず、彼の足跡もまた、何者かによって消されていた。


 だが、ただ一人。

 物語の書き手だけが、それを知っていた。

 その者は、ページを閉じながら微かに笑う。


 「……貴様がそれを望んだのなら、忘れられることもまた、赦しのひとつなのだろう」


 世界は静かだった。

 今度こそ、本当の静寂だった。

 そして、すべてが始まる前のように、風が吹いた。


 この書籍はしかるべき時に封印より解かれるであろう。



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