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冥府の書板7(閑話)

 世界の西端、あらゆる地誌から名前を抹消された土地に、ひとつの王国があった。


 その名を呼ぶ者はいない。

 その王の名を知る者もいない。

 だが誰もが知っていた。


 そこは、“名を呼ばれぬ王”――相賀ソウガによって統治される、恐怖と快楽の構文国家アーガ=ゼクス。


 都市に響く音楽は心拍を操作し、空に流れる香は欲望を誘導し、教育から法に至るまで全ての言葉が、ただ一人の“快”を満たすために再設計されていた。


 「人は、支配されるほどに幸福である」


 それが相賀の思想だった。異論は認めない。なぜなら、“異論が思い浮かばぬよう設計されている”からだ。


 民衆は笑い、食べ、寝る。そして自由を知らぬまま、“幸福”と名づけられた檻の中で一生を終える。

 この王国を正面から討つには、あまりにも犠牲が大きすぎた。

 情報は遮断され、魔術は無効化され、構文による認識の改竄が絶え間なく行われていた。


 だからこそ、ハルメアスは地上を選ばなかった。

 彼は、空から来た。


 「出でよ、幻想王都──構文都市アエルグラフ


 その声と共に、大気が裂けた。


 天空に顕現したのは、想像を絶する浮遊要塞。

 規則正しく並ぶ緑の庭園、大理石の柱に絡まるあらゆる植物種、魔力の網に縫い止められた街区が、空そのものを染め上げた。

 構文都市は、ただの兵器ではなかった。

 それは魔法、哲学、建築、そして正義の象徴だった。


 王国の空に影が差す。


 それは「上からの問い」だった。


 ハルメアスは、風のない静寂の中で立ち尽くしていた。


 遠く下に見える王都は、まるで精巧な模型のように静まり返っていた。

 目に映るのは、整然と並ぶ広場と官庁街、美しく塗装された居住区と、構文によって完全管理された農地。


 整っている。だが、生きてはいなかった。


 「相賀。貴様に問う。幸福とは、命令されるものか」


 その言葉に応じるように、構文都市の迎撃術式が起動した。


 王都上空、13基の迎撃術式が咆哮し始める。

 全長20メートルを超える黒曜のプレートが音もなく展開され、魔力が収束する。


 ハルメアスの内心には、一瞬の迷いがあった。

 この一撃は、間違いなく世界を変える。だが、それが正しいのかと問う声もまた、胸の奥で燻っていた。


 「……だが、これは俺の剣だ。誰にも預けない」


 “竜を屠る蛇”──太陽の力を具現した黄金の閃光。


 「撃て」


 その一言で、空が割れた。


 光弾は一夜にして王国の70%を焼却し、地下の避難構造を貫き、相賀の防衛網を粉砕した。

 だが、彼は死ななかった。


 黒き装甲に身を包み、白金の仮面をかぶった姿で、中央玉座の間に再び現れる。


 「貴様が求める“自由”とやら……我が、千の人格すべてを費やして拒絶してやろう」


 相賀は、存在そのものを構文の内部へと逃がしていた。

 肉体は囮。彼の本体は、“世界そのものの構文”へと侵入し、自己定義を保持し続けていたのだ。

 それでも、ハルメアスは臆さなかった。


 構文都市の王の間から、ただ一つの矢が放たれる。

 その矢は魔力ではなく、“命題”そのものを貫く論理。


 「お前は、正しいか?」


 矢は言葉を突き刺し、意味を剥ぎ取り、構文の根幹ロジックを焼却する。


 そして、相賀という名が歴史から消えた。


 その瞬間、王国の空に、初めて「自由の音声」が響いた。


 「この戦いに、正義の言葉は要らない。人が、人であるという当たり前が、戻ってくるだけだ」


 構文都市は、使命を終えたかのように静かに姿を消す。

 そして王都は、崩れた瓦礫の上で、再び“対話”を始めた。


 自由とは何か。

 幸福とは何か。


 名もなき市民たちが、それを口に出して話すことを、ようやく許された日だった。


 その時ハルメアスは、構文都市の高塔に立って、遠くの空を見ていた。

 この地を去ってもなお、彼にはまだ、解くべき問いがある。


 「人が人として、立つための構文。それが本当に必要なのか……」


 空に吹く風が、再び動き出す。

 それは、次の戦いの幕開けを告げる風だった。


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