冥府の書板6(閑話)
都市レカント。
人々は笑っていた。酒場は賑わい、市場には果物の甘い香りが漂い、広場では歌と踊りが絶えなかった。
だが、誰一人として「目を見て笑っている」者はいなかった。
言葉は通じ、身体は動き、心臓は動いている。
だがその瞳の奥に、“誰かが在る”気配がない。
まるで夢を見ながら歩いているような、眠ったまま喋っているような、そんな光景。
それは、“夢を喰う悪魔”の仕業だった。
名も形も明かさないまま、ある日この都市に現れた者。
その声は甘く、その姿は見る者によって異なり、その言葉はどこまでも優しかった。
──望みを叶えよう。
──お前の孤独を癒そう。
──明日も、同じ幸福を与えよう。
代償は、“魂”。
そうとは告げず、ただ“奇跡”を齎す契約だけを人々と交わし続けた。
そして都市全体は、静かな死に包まれた。
ハルメアスが訪れたのは、その“至福の極み”が訪れた日だった。
王城に招かれた民衆は笑い、踊り、祝宴を繰り広げていた。
だが彼は、誰の顔も見なかった。
──魂が抜け落ちた者には、顔というものが存在しない。
「……生者の屍、か」
彼は静かに呟き、背に眠る剣に手を伸ばした。
『咆哮するソード』。
神代の時代、竜の怒りと共に鍛えられた剣。
それは物理を断つのではなく、“魂の契約”そのものを斬る力を持っていた。
剣を抜いた瞬間、風が止まり、街の喧騒が凍った。
いや、喧騒すら“模造された音”だった。
──音楽も、言葉も、誰かの夢の中の再生だったのだ。
「ようこそ、英雄」
どこからともなく声が響いた。
男でも女でもない。人でも獣でもない。
あまりにも滑らかで、逆に“記憶に残らない声”。
「君も望みがあるのだろう? この世界に絶望し、誰かを救いたいと思っているのだろう? ならば、取引を──」
「断る」
ハルメアスはその一言で、契約を斬った。
地が割れる。
城が歪む。
空が染まる。
悪魔が姿を現す。
だがその姿は一定せず、幾人もの顔が浮かんでは消え、愛する者、亡き者、理想の像、鏡のように観る者の欲を投影し続ける。
「何故拒む!? 彼らは幸せなのだぞ!」
悪魔の声が千の方向から響く。
「望むことは罪ではない。だが、その“代価”を他人に求めた時、それは悪になる」
ハルメアスの剣が、唸った。
竜の怒りが雷となって剣を走り、振り下ろされた一太刀は、空間ごと悪魔を斬り裂いた。
だがその斬撃は、肉体を壊すものではない。
斬られた悪魔の“契約の文字”が、空中に浮かび上がる。
それは数千、数万にもおよび、都市全体を包み込んでいた。
彼はただ、ひとつひとつ、それらを斬っていく。
一人の少女の「母に会いたい」という願い。
一人の男の「過去をやり直したい」という祈り。
一人の兵士の「死者に詫びたい」という後悔。
それら全てが、確かに「人間の願い」だった。
だが、そのために払われる“代価”が、魂であってはならない。
「罪と願いは、別々に在るべきだ」
そう言って、ハルメアスは最後の文字を斬り捨てた。
悪魔が絶叫する。
光が爆ぜ、夢が砕け、都市全体が一瞬、静寂の中に沈む。
──そして、目覚める。
人々は混乱の中で立ち上がり、自らの記憶を取り戻す。
涙を流す者もいた。叫ぶ者もいた。祈る者もいた。
だがその全てに、“確かな魂の響き”があった。
ハルメアスは剣を納め、誰に告げるでもなく、静かに城門を後にした。
空には風が戻っていた。
都市には、ようやく“現実の音”が響き始めていた。




