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冥府の書板5(閑話)

 高地セレミアは、死んでいた。


 いや、正確には、死につつある。地図上ではまだ幾つかの村が点在していることになっているが、その多くはすでに廃墟と化しており、人の声も牛の鳴き声も、鍋の沸騰音すら聞こえない。あるのは、焼け焦げた建材の臭いと、吹きすさぶ灰風の唸りだけ。


 この地に“黒殻の巨獣”が現れたのは、三ヶ月前のことだ。


 名はない。ただ、月ごとに一つの村を喰らい尽くし、そのたびに空を覆い、太陽の光を飲み込む。咆哮は空を割り、熱と腐臭と、そして“忘却”を振り撒いた。


 ──この空には、かつて太陽などなかった。


 そう思わせるほどに、空の「記憶」が歪められていく。

 人々は地下へ逃げ、王は口を閉ざし、騎士団は山を見上げることをやめた。もはや、巨獣と戦おうとする者など存在しなかった。


 ただ一人を除いては。

 ハルメアス。

 赤き長髪を風に翻し、焦げた大地を踏みしめながら、彼はセレミア山脈の頂を目指していた。背には一張の異形の弓。


 ──『腐りて堕ちよ、忌々しき太陽アーリエルズ・ボウ』。


 それは神代の時代に創られたという呪詛の弓。

 射た矢は“天の構造そのもの”を裂き、空にあるはずの概念──昼/光/時/希望──を一時的に消滅させる。


 目的はただひとつ。

 巨獣を、地上へ引きずり下ろすこと。


 山頂は既に黒に染まっていた。

 雲ではない。空が腐っているのだ。まるで空気が死に、空間が黴び、太陽という現象が記憶喪失を起こしているかのように。


 ハルメアスは弓を構えた。

 矢は必要ない。彼の魔力が空を撓ませ、虚空から一本の光矢を生成する。金ではない。赤でもない。黒でもない。


 ──蒼白。


 あらゆる色を拒絶した末に辿り着く、“存在の外”の色。


 「天の理が捩れても、人の理は貫ける。太陽がなくとも、我は射る」


 そう呟いたその刹那、彼の矢が空を裂いた。

 音はなかった。ただ、すべての生き物が一瞬だけ“耳を失った”。


 矢は空の最奥──太陽の記憶核を貫いた。


 世界から“昼”が消えた。


 星が現れた。

 夜が訪れた。


 だがそれは恐怖ではなく、清浄だった。


 黒殻の巨獣が、咆哮した。

 その声には、かつてない“焦り”が混ざっていた。


 ──太陽を奪われた怪物は、影の中に居場所を失ったのだ。


 ハルメアスは足を踏み出す。

 闇の中で、彼の姿だけが“見える”。


 弓を捨て、近づく。

 巨獣は吠える。火を吐く。瘴気を浴びせる。


 だが、夜はそれを拒む。


 闇は怪物の味方ではなかった。


 それは“太陽の隙間”でのみ強者たりえた。


 ハルメアスは最後の一矢を、己の手で矢柄から引き抜き、巨獣の心臓へと突き立てる。


 白い閃光。


 全てが焼かれ、残ったのは、震えるただの“獣”だった。


 それは、夜を恐れ、逃げ出した。


 ──太陽が戻った。


 空が青く染まり、鳥が鳴いた。

 そして、誰もが空を見上げた。

 忘れていた“昼”という現象が、胸の奥に灯をともした。


 ハルメアスはそれを見届け、弓を背にした。


 戦いは終わった。だが、彼の歩みは止まらない。

 何故なら、この世にはまだ、“夜を恐れない怪物”が残っている。

 そして彼は、それを射抜く者だからだ。

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