冥府の書板4
「語れぬ都市、逃れた影」
風が止んだ。
そして、言葉が遅れた。
隕石の残骸が空から消えたあと、私たちの前には、ただ燃え残った石板と、ひとつの痕跡だけが残されていた。
灰の中に、誰のものとも知れぬ言葉が刻まれていた。
いや――刻まれていた“はず”だった。
だが、誰も読めなかった。
私はペンを走らせようとした。が、インクが紙に定着しなかった。
記録が滑る。音が掠れる。文字が意味を持たない。
「……これは?」
「“言語の消去”だ」
ハルメアスが呟く。
その声も、一瞬だけ、意味を持たなかった。
「サングインは、“逃げた”んじゃない。“言葉の届かない場所へ行った”んだ」
私は凍りついた。
「どこに?」
「――《レト=ネウラ》。かつて“世界から共通語が消えた”と言われる都市だ。記録も、記憶も、言葉も届かない。語れば失われ、書けば滲む」
《レト=ネウラ》。
神託の時代、封じられた都市。
世界がまだ、詩と祈りで構成されていた時代に、最も恐れられた呪いの地。
言葉が消えるだけでなく、“自我”もやがて希薄になるという。
思考が輪郭を失い、名を呼ばれることすら許されなくなる。
「なぜそこへ?」
「……あいつが完全に戻るには、世界の“定義”そのものを塗り替える必要がある」
ハルメアスは静かに、石板を拾った。
第五の石板《灼炎の書板》――それは揺らぎながら、語られなかった傷の記録を淡く光らせていた。
「《レト=ネウラ》には、古代語の心臓が埋まっている。サングインはそこへ至り、“言語の誕生そのもの”を焼こうとしている」
私はぞっとした。
「彼がそれを為したら……?」
「“赦し”も、“罪”も、“誰かを救う”という概念すら――語れなくなる」
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夜が落ちた。
冥廟の残骸を離れ、仮の野営地で私たちは火を囲んだ。
言葉はまだ、ゆっくりとしか戻ってこない。
記録はすべて手書きで写し直し、意味の曖昧さを紙に閉じ込めていくしかなかった。
「……ノア」
ハルメアスがぼそりと呟いた。
「今度の旅は、“言葉を失う旅”になるかもしれない」
「つまり?」
「お前が“書けなくなる”ということだ。それでも行けるか?」
私は筆を見つめた。
指先がかすかに震える。
だが、迷いはなかった。
「“書けない”なら、“見届ける”。“話せない”なら、心で伝える。赦しとは、語ることではなく、“一緒にいること”だと……あなたが教えてくれたから」
ハルメアスは微笑んだ。
火の揺らぎが、まるで言葉の代わりに会話を交わしていた。
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遠く、砂嵐の果てに、ひとつの都市の輪郭が浮かんだ。
塔が傾き、門が閉じ、空に浮かぶはずの名札が霞んでいる。
記録者すら沈黙する都市――《レト=ネウラ》。
そこに、サングインはいる。
次なる戦場は、“誰も名前を呼ばれない地”。




