冥府の書板3
「世界を拒む者、再び歩み出す」
石板の光が揺らいだのは、一瞬だった。
だが、その一瞬で――世界が変わった。
火の記録炉が音を立てて割れた。いや、割れたのではない。内側から何かが“突き破って”現れたのだ。
地の底に潜んでいた魔力が噴き上がる。
記憶は焼き尽くされ、空間が捩れ、重力が沈黙した。
「来るぞ……!」
ハルメアスが剣を振るう。だが風は届かない。
炎は退き、闇も膝を折る。
その中央に、“それ”は立っていた。
サングイン。
最強最悪の魔術師。
赦しも、記録も、共感すら拒み抜いた“知の終焉”。
その姿は変わらなかった。長身の黒衣。血のように赤い瞳。笑わぬ口元。
だが、その存在圧は、世界を圧迫していた。
彼は、笑わなかった。
ただ静かに、手を上げた。
そして――「ひとつの海」を、指で弾いた。
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“グラーデ・ヴェルカス”――海そのものが、蒸発した。
冥廟の壁面が開き、遠くの地平を映す。
そこでは、外海が一滴残さず消失し、海底が露わになっていた。
魚が死に、船がひび割れ、潮流が止まり、風が止んだ。
「……嘘、だろ……」
私は膝をついた。観測できない。理解が追いつかない。
その次に、彼が空を見上げた。
「来るべきものを呼ぼう」
指先で空を弾く。
ほんの僅かな動作。
だが空が裂けた。
軌道外から、ひとつの“岩”が落ちてくる。
規模、都市ひとつ分。質量、都市十個分。
人類絶滅級の天罰。
「止めろ……!」
ハルメアスが疾風の弓を構える。魔力が暴走し、矢が空間ごと焼き尽くす。
一射、二射、三射。
すべて、彼の周囲で“無”に変換された。
「因果が……通じない……!」
ノアとしての私は、ただひとつ、観測した。
時間が、止まりかけていた。
サングインは最後に、掌をひと振りした。
そして、“時”が止まった。
動くものがない。風が消えた。熱も音も、感情すら沈黙した。
それは「死」ではなかった。
世界そのものが“理解される前”に巻き戻されたような――純粋な“前”。
動けたのは、ふたりだけだった。
ハルメアス。
そして――サングイン。
「……さすがだね。君はやはり、“抵抗”する側に残ったか」
初めて、彼が言葉を発した。
「ならば、証明してみせろ。“赦し”がこの終焉に耐えうるのか」
その声は、美しかった。冷たく、静かで、理路整然とした滅びの予告だった。
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時が動き出す。
地が震える。火山が噴き、空に黒い炎が渦巻く。
天より岩が落ちてくる――いや、既に落ち始めている。
ハルメアスが立ち、矢を一本――**時間そのものを裂く“零の矢”**を番えた。
「ならば、撃ち返してみせる。この“世界ごと”――受け止める!」
世界が崩壊する直前、ふたりの間に閃光が走った。
「灰と矢と記憶と」
時は、崩れていた。
落下する隕石が、まだ空の上で停止しているのに、冥廟の地はすでに割れていた。
火が逆流し、風は回り、光が遅れて屈折する。
“時間”が瓦解していた。
サングインが動いた。
その一歩は、距離ではなく“世紀”を超えた。
彼の足元から古の地図が浮かび、過去に葬られた文明の記憶が、白炎として蘇る。
そしてそれらの光景が、武器として襲いかかってくる。
――洪水、疫病、剣戟、裏切り、焼けた都市。
記憶を凶器に変える魔術。
それがサングインの第一撃だった。
ハルメアスは剣を抜かなかった。
代わりに、背から強弓を振るう。
弦を引いた瞬間、時の揺らぎが押し戻される。
矢を放つたび、記憶の幻影が**“未来”で塗り潰される。
射られる矢は、“まだ起きていない事実”だ。
「俺は未来の証人だ。過去の災厄を、赦しの上書きで撃ち落とす!」
サングインの目が細まる。
「それは傲慢だ、ハルメアス。未来すら、君の矢で塗り替えられると?」
「違う。俺は“記憶を塗り替える”んじゃない。“赦したあとで記す”だけだ!」
サングインが指を鳴らす。
大地が開く。冥廟の奥から、“熱”そのものが喚び出される。
核心の火(カレイド=フレア)。
世界の創世に使われたと言われる、炎の母体。
温度ではなく、“意味を燃やす”火。
ハルメアスの足元が揺れる。
彼の矢が、放つ前に融けはじめる。
「……“矢の概念”が焼かれてる!?」
私は叫んだ。
だが彼は、恐れなかった。
「なら――矢であることをやめる!」
ハルメアスは弦に手をかけ、**矢ではなく“風そのもの”**を番えた。
魔力が逆巻く。空が共鳴する。
彼の周囲に一瞬、六芒の光陣が浮かび、**“零の風”**が具現化する。
「穿て、《裂因・オクルス・シン》!」
放たれた“無の風”が、火そのものを裂いた。
サングインの核心火が一瞬だけ崩れ、世界に“裂け目”ができる。
そのとき、忘れかけていた現実が戻ってきた。
空から、隕石が再び落ち始めたのだ。
「まずい……間に合わない!」
私は声をあげた。
だがハルメアスはすでに、空を見上げていた。
魔力は限界だった。
記憶は燃え尽きかけていた。
彼は――剣を抜いた。
「赦しに力はない。だが……決断には、刃を持たせる!」
彼の剣が風を裂く。
その一閃に、すべての矢の軌跡が重なる。
空に浮かぶ隕石の中心――重力核を、正確に貫いた。
空が、鳴った。
破裂ではない。崩壊でもない。
それは、“拒絶された終末”の音だった。
隕石が砕け、夜空に星の雨となって消えた。
ハルメアスは膝をつく。
その肩に、赤い火が走っていた。
≪……やるね。そこまでやるとは思っていなかった≫
サングインの声が再び響いた。
≪だが、それが限界だ。君の“赦し”は、まだ世界を救うには軽すぎる≫
影が揺れ、サングインの姿が霧散する。
≪また会おう。今度は、“誰も記録しない場所”で≫
闇が引く。
時間が戻る。
重力が整い、廟の崩壊が止まる。
ハルメアスは倒れなかった。ただ、静かに立ち上がった。
「……逃げたな」
「逃げたのは“今”だけです。また来ます。きっともっと悪くなって」
「なら、それを記しておいてくれ。あいつが、“次に何を壊す気なのか”」
私は頷く。
“赦しでは止まらない者を、記録はどう扱うのか”――次の問いが、確かに始まった。




