冥府の書板2
「封じられた記憶の回廊」
門は、焼けていた。
いや、最初から“火に焼かれたまま”作られたのだろう。
岩盤と灰と金属が混ざり合い、黒と赤の層を成して歪み、いびつに捻れた双扉。その隙間からは、鉄を溶かすほどの熱風と、誰かの声にならなかった叫びが吹き出していた。
ハルメアスは顔をしかめる。
「これが、“冥廟”……」
ノアたる私は、風に焼かれる頬を押さえながら、記すべき最初の語を選ぶ。
“ここは、声を上げて死んだ者が眠れぬ墓だ”
扉を押したのは、私ではなく彼だった。
熱に焦げるはずの手で、真っ直ぐに。押し返す気配はなかった。ただ、“入る者は戻らない”という重さがあった。
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内部は――広かった。だが空間は歪んでいた。縦でも横でもない。
記憶の奥にしか存在しえない場所のようだった。
壁は脈動していた。まるで炎が肉体のように波打っている。
床は煤と鉄粉の堆積でできており、踏み込むたびに何かを砕いた音がした。
柱はなかった。代わりに、記憶があった。
「見ろ」
ハルメアスが指差す先、空間の空白に――炎の幻影が浮かんでいた。
ひとつは、王の処刑。
ひとつは、子を捨てた母の慟哭。
ひとつは、兵士の裏切り。
ひとつは、赦されるべきでなかった愛。
それらは“記憶”だ。冥廟が記録した、世界から排除された記録。
「記録の墓だ……」私は震えながら呟いた。
「違う」ハルメアスは静かに言った。「記録の“火葬場”だ。ここに記されたものは、燃やすためだけに刻まれている」
事実、それぞれの幻影は数秒ごとに燃え尽き、また甦る。
繰り返す。繰り返す。誰も見ないはずの過去を、ここだけが焼き続けていた。
「サングインが見ているのか……?」
「見ていない。これは“彼の目ではなく、彼の心の奥”だ」
彼はそう断じる。
そのときだった。廟の奥、ひときわ深い裂け目――炎ではなく“闇”だけが燃えている穴が見えた。
「感じるか?」
「……ああ」
彼は弓ではなく、再び背中に隠していた剣を抜いた。
「ここから先は、“観察者”は許されない」
「……つまり、私は?」
「“記録者”ではなく、“共犯者”として進んでくれ」
私は息を呑む。だが――頷くしかなかった。
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暗黒の火が灯る祭壇。その手前に、椅子があった。
誰も座っていない。だが椅子の形は明らかに“人を喰った後”のように歪んでいた。
背もたれには何百もの文字――**すべてが“名前”**で構成されていた。いや、構成された“痕跡”だった。
書かれ、削がれ、書き直され、また焼かれた。
その連なりが、椅子という“記録の王位”を形作っている。
「……これが、サングインの“玉座”?」
「いや。“罪そのもの”だ。――誰が坐っても、責められずに済む椅子」
その言葉と同時に、周囲の火が、息を吸ったように一斉に沈黙した。
一瞬の静寂――次の瞬間、“声”が届いた。
≪よく来た。赦す旅人よ。≫
それは音ではなかった。炎と闇の間、魂の鼓膜に触れる“震え”だった。
≪さあ、見せろ――貴様らの“赦し”とやらが、どこまで焼かれずにいられるか。≫
私は振り返る。
ハルメアスは、目を伏せず、剣を構えたまま立っていた。
「ここから先は、俺の“記録”だ」
「火に焼かれた召喚、呼ばれし者の記録」
奥へと続く螺旋の回廊を抜けると、世界は赤だけになった。
冥廟の最深部――そこには天井も壁もなく、ただ巨大な円環の祭壇があった。
空間そのものが“火”でできていた。燃え立つ言葉、崩れる記憶、叫びを上げるように立ち上る光と熱。
中央にあったのは一基の装置――火の記録炉。
祭壇の核に、巨大な水晶の柱が浮かび、周囲を取り巻く環状の炎が過去そのものを映し出していた。
私とハルメアスが足を踏み入れた瞬間、その記録炉が“目を開いた”。
≪問う。汝は、何を赦しに来た≫
装置の声は、サングインのものではなかった。
この世界そのものの記録――“召喚”という国家的罪の綴り手だった。
炎が揺れ、映像が映る。
最初に現れたのは、儀式の間。
巨大な魔方陣。金の鎖で囲まれた白い床。震える司祭たちと、涙をこらえる少女。そして――
その中央、白い光の中から現れる、ひとりの若者。
赤い髪。蒼い瞳。何も知らぬ目をして、裸足のまま立ち尽くしていた。
「……これは……」
私は言葉を失った。
ハルメアスが膝を折る。口を閉ざし、目を逸らさず、火の中の“かつての自分”を見ていた。
≪記録する。勇者召喚――施行者:王政連合。供犠:選定なし。被召喚者:異界個体、識別名“ハルメアス”≫
≪目的:対災害兵器としての戦闘投入。倫理審査:不履行。記録保存:本装置≫
炎の中で、召喚されたハルメアスは、何も語らなかった。ただ周囲の喧騒に呑まれ、剣を与えられ、称号を背負わされ、戦地へと送られる。
「俺は……最初から、“帰れない”ことを分かってた」
静かに、彼が口を開いた。
「でも、問いはなかった。“なぜ生きてここにいるのか”、誰も聞かなかった」
火が彼の周囲に集まり、彼自身の“過去の記憶”を引き寄せる。
戦場。
泥の上に立つ少年兵。
傷ついた民衆を庇う盾。
讃えられた夜。
裏切られた朝。
英雄の名で人を斬った午後。
誰も名前を呼ばずに消えた夕暮れ。
「呼ばれた理由は、ずっと後で知った。“この世界の都合”だった」
ハルメアスは立ち上がった。
「けれど、その都合を俺は、もう――赦せるようになった」
≪なぜ赦せる?≫
「この世界に、“呼んでくれた名前”があったからだ」
彼の視線がこちらを向いた。
「ノア。君が“記録者”として俺を見て、語って、書いてくれた。その時間だけは、俺のものだった」
私は息を詰めた。
≪ならば、証明せよ。記録とは赦しであり、赦しとは力であると≫
火が唸りを上げる。記録炉が震え、天井のない空間に赤い石板が浮かび上がる。
その表面には、古代の文言が――**熱で焼かれながらも決して崩れぬ“怒りの文字”**が刻まれていた。
「これが……第六の石板……?」
ハルメアスが手を伸ばそうとした瞬間、石板の影から“黒い手”が伸びた。
≪赦しの先に立つ者よ――試してみるか?≫
声が、サングインだった。
火と影が交錯し、石板の光が揺らぐ。
次の試練が始まろうとしていた。




