黎明の書板2
薄紅の霧を吸った焚き火の灰がさらさらと崩れ、私とハルメアスはまだ温もりの残る石を踏みしめた。
「――まずは《黎明の書板》だ」
私がそう切り出すと、赤髪の青年は眉をわずかに上げた。
「昨夜の伝承、もう一度整理しておこう」
私は手帳を開く。ページの余白に走り書きした古語の断片――六枚の石板は〈夜明け〉〈怪威〉〈双王〉〈深海〉〈蒼天〉〈終轟〉の名を持ち、人理が再び闇に沈む兆しのとき勇者の手に集う、という。
「最初の一枚が“夜明け”を冠しているのは、光を示す導きであり、残り五枚の座標でもあるはずです」
ハルメアスは小さく頷く。
「書板を集めれば闇に対抗する策が得られる、とお前は言った」
「はい。古文書では“六つの導き集うとき、終焉の闇を破る”と。」
彼は焚き火に残った最後の熾きを踏み消し、私の目を真っ直ぐ射抜いた。
「なら探す理由は十分だ。闇に飲まれた世界を、俺は放っておけない」
その言葉は単なる決意ではない。彼の血潮に宿る“選択前の炎”――私が惹かれてやまない正義そのものだ。
夜半に森を発った私たちは、東へ半刻も歩かぬうちに丘へ至った。
細い山道を登る途中、星はひとつずつ色を失い、深い青が紫へ移ろい始める。
息が上がり、小石で何度か踵を取られた。けれど前をゆくハルメアスが振り返り、穏やかな笑みで手を差し出すたび、不思議と足に力が戻る。
「書板が必要なのは俺よりお前だろう?」
息を整えながら問われ、私は苦笑した。
「ええ。歴史家として――いえ、記録者として、“闇を破る方法”を残さず死ねません」
「命より筆を優先するとは、変わった書記だ」
赤髪が揺れ、彼は肩をすくめる。
「ですが筆だけでは闇に刃向かえない。だからこそあなたが必要なんです」
夜明けの縁が燃え始める頃、丘の頂に古びた神殿の廃墟が姿を現した。
崩れた円柱、蔦に覆われた壁、土に埋もれかけた石畳。それでも玄室へと続く破風は威厳を残し、黎明の朱を額縁のように受け止めている。
「ここに……黎明の書板が?」
息を切らした私が問うと、ハルメアスは短く「ああ」と答え石段を上った。
私はその背へ続きながら、この神殿がいつ、誰によって建てられたのかを考える。文献には“夜明けを封じる眠りの宮”とだけあったが、石材の加工痕は遥かな古代のものだ。
玄室の敷居をまたいだ瞬間、ぬるい冷気が肌を撫でた。石造りの床に散乱する瓦礫が朝陽を浴びて黄金色に輝く。しかし奥の高台へ伸びる通路だけは闇が淀んでおり、光が奇妙に反射して届かない。
「嫌な感じですね……」私は囁く。
ハルメアスは鞘に手を置き、「警戒して進もう」と頷いた。
石段を三段上ったとき、耳鳴りのような低い共鳴が広間を満たした。同時に、闇の中で黒い霧が泡立つように立ち上がる。
「気をつけろ!」ハルメアスの警告と剣閃はほぼ同時だった。
霧は人影の輪郭をとり、無声のままこちらへ滑る。頬を掠める風が冷たい。私は慌てて石段を背に退き、手帳を胸に抱えた。
一体が跳ねるように迫る。ハルメアスの剣が弧を描き、黒影は霧散。しかし後ろから横から、際限なく湧き上がる。
「アルヴィン、下がっていろ!」
「は、はい!」私は背中で石壇を探り、足を取られぬよう壁に張り付いた。
剣光が走るたび、霧は切り裂かれ床に溶けるが、影の総量は減らない。広間そのものが闇を生み出しているのか。
その時だ。不意に背後から冷たい逆風が吹き抜け、視界が一瞬にして暗転した。
「え……?」
朝の光が消え、神殿は墨汁を流し込んだような黒へ沈む。音も匂いもひどく遠い。
私は孤独な闇の中で名を叫んだ。「ハルメアスさん!」――返事はない。
鼓動ばかりが耳を打つ。闇は単に光を奪うだけでなく、不安と恐怖を直接注ぐ。膝が震え、口内が乾き、手帳を握る指が汗ばんだ。
だが次の瞬間、闇を焼くような凛とした声が響く。
「大丈夫だ、アルヴィン! 俺はここにいる!」
ハルメアスの声。何より信じ得る光だ。
私は声へ向かって手を伸ばす。闇の中、青白い火花のような微光が揺れた。ハルメアスの剣の反射だ。
「捕まれ!」
指先に鋼の篭手が触れる。強く引き寄せられた瞬間、闇が幕を払うように消え去り、朝陽が戻った。
黒い影は跡形もなく、広間には静寂と瓦礫だけが残る。私はその場に崩れ、胸で荒い息を繰り返した。
ハルメアスが肩に手を置き、「幻影だ。この神殿を守る試練らしい」と微笑んだ。
私の膝から力が抜けた。
「申し訳ありません……」
「恐怖は誰にでもある。それでも進む意思が大事だ」
励ましを胸に収め、私は立ち上がる。――その視線の先、祭壇の上で淡く光る石板を見つけた。
石段を一歩ずつ上るたび、祭壇に据えられた書板の輝きは濃度を増し、黎明そのものの脈動を放っていた。
表面は滑らかな黒曜石、だが内部で金の繊維が星雲のように絡み合い、刻まれた古代文字をゆるやかに照らす。人の肩幅ほどもある板が、まるで自律する心臓だ。
「これが……黎明の書板」
息を呑む私の横で、ハルメアスは慎重に手袋を外した。
「触れてみる」
「待って下さい。何か発動——」
忠言は終わる前にかき消えた。彼の指先が石板へ触れた瞬間、黄金の軌跡が走り、文字が一斉に浮かび上がる。
それは単なる発光ではなく、語りかける声に近かった。歳月を超えた叡智が脳裏に注ぎ込まれ、眼前の光景が揺らぐ。
〈黎明に光満ち、新たなる旅路始まらん。怪威の地に赴き、次なる書板を得よ。六つの導き重なりし時、終焉の闇は裂ける〉
低く澄んだ響きが胸骨に共鳴し、私は思わず書板へ両手を伸ばした。
ところが指先が触れるより早く、光は穏やかに沈静化し、表面はただの黒曜石へ戻る。
「最初の地図――いや、東雲の炬火か」ハルメアスが呟く。
「怪威の地……〈怪威〉の書板を呼ぶ場所ですね」
私は手帳を開き、昨夜の走り書きを確認する。古文書の注釈には“怪威——魔獣と災厄の境域”とだけあった。
「おそらく北のパルティノ湖を越えた山脈です」
「さらに北か」
頷き合いながらも、私の胸はまだ震えていた。書板の啓示は確かに希望だが、同時に次なる闇を示す狼煙でもある。
石板の縁に麻布を巻き、私は背負い袋へ納めようと腰を落とす。
「私が運びます」
するとハルメアスが首を振った。
「重さは俺が受ける。書記は筆を折るな」
「しかし……」
「お前の肩は言葉で埋まっているだろう? 石を預ければ詩が零れる」
からかい半分の言葉に見えたが、瞳は真摯だった。私は折れ、彼へ書板を手渡す。
赤髪の青年はそれを背へ縛り付けると、軽々と立ち上がる。重量は見た目の数倍あるはずなのに、背筋は微塵も揺れない。
「道は示された」
剣に手を掛け、彼は祭壇を背に踵を返す。その背中に射す朝陽が、書板の金と共鳴して虹を撒いた。
私も負けじと荷紐を締め直す。
「闇が何を呼ぼうと、筆は折れません」
「いい返事だ。では怪威の地へ」
神殿を出ると、東の空は白金へ変わり、荒れた丘陵の影を長く伸ばしていた。
私は深呼吸し、冷たい空気を肺へ満たす。あの黒い幻影が嘘だったように、世界は清々しく輝いている。
「幻術――あれは書板を守る結界ですか?」
「試練だろうな。恐怖を越えられぬ者に、黎明を授けぬ仕掛け」
「私一人では……」
言いかけて、首を振る。
「いいえ、次は頼らずに立ち向かいます」
ハルメアスは笑う。
「立ち向かうだけで足りる。倒すのは俺の役目さ」
私はその言葉に頷く。倒す者と記す者。二つが揃って導きは意味を持つのだ。
丘を下りる途中、私は問わずにいられなかった。
「ハルメアスさん。闇に対抗すると簡単に言いますが……あなた自身の願いは?」
彼は朝風を浴びながら答える。
「願い、か。――誰も泣かない世界を見てみたい。それだけだ」
「それだけ、ですか?」
「それだけが難しいんだろう?」苦笑がこぼれる。
「けれど書板が示す道の先に、それがあるなら斬る価値は十分だ」
私の胸が熱くなる。火ではなく、陽光のような温度だ。
「ならば私は、その“誰も泣かぬ世界”へ至る過程を、必ず書き残します」
「頼む。終わりなき夜を越える火種にするために」
麓で小さな集落の市に寄り、干し肉と水袋を買い足してから、私たちは北へ向かう街道に出た。
午後の陽が照り始めると同時に、遠景に薄青い山影が連なって見え、そこへ連絡する川筋には湖の湿気が帯となって揺れている。
「怪威の地は山脈の裏側、古い断崖と迷い森の境界にある」というのが私の仮説だ。
途中、旅人や行商とすれ違うたび、ハルメアスは石板の布包みを死角に回し、私へ視線で「黙っていろ」と合図する。秘匿は最良の盾だ。
しかし夕刻、峠道の手前でひとりの老預言者と名乗る男が我々の行く手を塞いだ。
「お若いの、その背に燃えるものを知っておるぞ」
杖を突き、目が見えていないはずなのに、老人はまっすぐハルメアスを指した。
「通してくれ」とハルメアスが短く言う。
だが預言者は首を振り、甲高い声で謳うように続けた。
「夜明けの灯は、やがて蒼き天を焦がし、終わりなき陽炎を呼ぶ……六つの炎は、その一点でひとつになる」
私は背筋を粟立たせた。――六つの書板を指す暗喩。
「何を知っている」
私が前に出ようとすると、ハルメアスが手で制した。
「老人、我らの道を占うなら代価を言え」
「金銀は要らぬ。ひとつ、歌をくれればそれでよい」
ハルメアスは意外そうに眉を上げる。
「俺の歌でいいのか?」
「夜明けの書を背に歩む者の歌こそ、未来を映す鏡」
私は息を呑む。彼の歌は私ですら独占したい宝。与えれば道行きが露わになりかねぬ。
だがハルメアスは首をひねって笑った。
「鏡に映るのは聴く者自身だろう?」
そう言い終わるや、柔らかな旋律が夕靄へ溶けた。
――乾砂の風、ほそほそと。
私の胸は甘やかな痛みで締め付けられる。預言者は瞼を震わせ一節を聴き終えると、杖で地を叩いた。
「よかろう。怪威の境へ至るには、湖底の古橋を渡れ。地上の迷い森は影を孕み、おぬしらの足を血で染めよう」
そう言い残し、老人は靄に紛れて消えた。
「湖底だと?」
私は驚き、地図を広げる。
ハルメアスは肩をすくめた。
「パルティノ湖の先に“沈んだ環状橋”があると聞いた。行ってみる価値はある」
その夜、峠下の廃屋で簡素な焚き火を囲んだ。書板は布の中で静かに眠り、しかし微光は漏れている。
「石板は私たちを導く気なのでしょうか」
独り言のような私の問いに、ハルメアスは薪を組みながら答えた。
「導くか、試すか。どちらにせよ炎は消えない。俺たちが負けぬ限り」
「負けるとは?」
「歩みを止めることだ」
焚き火の橙が彼の瞳を映す。その奥で確かな金糸が揺れていた。
私は筆を取る。ページの見開きに、今日の出来事を走り書きしながら詩へと編む。
黎明の板、焔を宿し
闇の幻は試しを寄越す
恐怖を裂くは剣の光
恐怖を記すは筆の灯
六つの導き、今は一
怪威の門へ、夜明けの歌が道を織る
インクが乾く頃、焚き火は熾火になり、星が峠の稜線へ降りてきた。
ハルメアスは膝を立てて空を見上げる。
「歌を売らずとも、筆は売るなよ」
「私の筆は“世界を守る火守”ですから」
彼はかすかに笑った。それは湖で聞いた歌声の余韻に似て、夜気をほんのり甘くした。
黎明の次は怪威。不確かな地図と沈んだ古橋が、二人の影を北へと引いてゆく。
だが書板を抱く背には炎があり、筆を握る手には物語がある。
闇が眠る山脈の向こうに、どんな怪物と試練が待とうとも、夜明けの光は胸に灯ったままだ。