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冥府の書板1

「赦しの影、眠りから目覚めるもの」


山を下りた翌朝、村を発つ前、私は再びあの神殿を振り返った。

霊峰セレスの頂は霧に覆われ、もう石板も神殿も存在しなかったかのような静けさだった。


「本当に……あれは夢じゃなかったんだよね?」


と、私は自問のように呟いた。

ハルメアスは荷物を背に、短く頷いた。


「夢なら、もっと優しくて良かった」


その言葉の奥に、ほんの一瞬、火種のような熱を感じたのは気のせいだっただろうか。


襲撃は、峠を越えた先の旧礼拝堂の廃墟で起きた。

街道の修復を待つ旅人たちが簡易の野営をしている場所――


そこにひととき腰を下ろしたときだった。

風向きが変わった。焦げたような、薬品じみた臭いが鼻を刺す。


「……燃えた血の臭いだ」


ハルメアスが呟き、立ち上がる。その背後で、空気がひび割れる音がした。

次の瞬間、礼拝堂の影から爆ぜるように何かが飛び出した。赤黒く、獣とも影ともつかぬ姿。


「伏せろ!」


私は地に倒れ、砂塵と熱が背中を叩く。

飛び出してきたものは、“人の形をしていた”。だが目の奥に“誰もいなかった”。ただ焼けた怒りと狂気だけが、肉体を動かしていた。


呪縛者バインド……!」


ハルメアスは躊躇なく、それを迎え撃った。抜き放ったのは、天空の神殿で手にした――蒼き疾風の槍。

その柄は白銀、刃は光を纏わずとも空気を切る。突き出した瞬間、風そのものが音速で裂けた。


――ズドンッ。


呪縛者の胴が、空気ごと“切断”ではなく、“剥離”するように裂かれる。破壊音の前に、風圧で礼拝堂の壁が軋んだ。


「槍が……風を裂いてる……」


私は見ていた。ただの刺突ではない。あれは「速さで赦さぬものを吹き飛ばす」ための武器だ。速度そのものが“意志”を宿していた。


呪縛者は膝を折りながらも咆哮し、残った腕で再び襲いかかる。その背後――礼拝堂の崩れかけた十字架の影に、“それ”が立っていた。


長身。黒衣。風に揺れぬ男。

サングイン――影は語らぬ。ただ、見ていた。風の軌跡を、我々の選択を。


「ノア、目を伏せろ!」


ハルメアスが跳躍する。


槍が再び唸る。二撃目は空そのものを抉った。礼拝堂の天蓋が割れ、石の破片が逆巻く。風が渦を巻き、呪縛者の身体をまとめて吹き飛ばす。


その中心で、風に打たれても揺るがぬ男――サングインだけが、微笑のように瞳を細めていた。

気配が消える。


呪縛者も、黒い霧となって霧散する。

嵐が過ぎ、空気が戻る

呪縛者の残骸は、灰と音のない涙だけを地に残して消えていた。



その夜、私は筆を止めたまま、焚き火の前で言った。


「彼は……“赦し”を嗤っているの?」


「いや」ハルメアスが言った。「あいつは“赦し”を知ってる。だから“拒絶”を使う。――俺たちの歩みを、赦しの名で試すために」


私は筆を震わせながら書いた。


“赦しの旅は、赦されざる者によって試される”


「奴の気配がここまで来ているなら、次の地――“冥廟”には、もっと濃く根を張っているだろう」

ハルメアスはそう言って、炎の向こうを睨んだ。

「サングインは“待っている”。怒りに焼かれた土地で、赦しを持ち込む者がどう崩れるかを」


私は問う。


「……君は、崩れない自信がある?」


彼は返した。


「崩れるかどうかは、俺じゃなく――お前が見て、書いて、決めるんだろ?」


私は静かに頷いた。

記すことが、剣より重い夜が来る。


「炎を裂く弓、風より速く」


火の門が裂けた。

冥府サングリス――その国境には、いかなる記録にも刻まれない“試練”が存在した。

地平線を覆い尽くす暗黒の軍勢。名を持たず、声を持たず、ただ「赦しを拒む」ためだけに存在する影のえいへいたち。


その黒の大地に、ただ一人、赤髪の弓士が立った。

ハルメアス。

彼は剣を捨て、槍を預け、この冥府の門には“風”でなく“矢”を選んだ。


強弓は背から抜かれるや、蒼い閃光を纏って弦を張る。

矢筒は存在しない。だが彼の右手には、空気から浮かぶように魔力が集い、光の矢が生まれた。


「お前たちの“闇”に名は無い。ならば、俺の“風”で書き直してやる」


第一射。

弦がうなり、光が収束し――雷鳴のような一矢が放たれた。

光線ではない。

“軌跡”そのものが敵を裂いた。

五体の影が同時に燃え尽きる。魔力矢が炸裂し、残留した瘴気すら突風で吹き飛ばされる。


「敵、千を超す。矢、無限」


ハルメアスが静かに弓を掲げ、魔力の奔流を指先に収束させる。

第二射――広域散射。

一本の矢が空中で七つに分裂し、無数の影兵の頭上から降り注ぐ。

炸裂。

爆散。

火の大地が震え、影兵たちの隊列が瓦解する。


「まだ足りない」


彼はさらに一歩、黒土を踏みしめる。

地面の裂け目から熱気が上がる中、第三射――風紋連射。

今度は右手の指先に三本の光矢を同時生成。息を吸い込むと同時に解き放つ。

ヒュン。ヒュン。ヒュン。

三重の放射線が円を描き、二十体以上の影を一斉に穿つ。


「さすがハルメアス……!」


私はただ、後方で呆然と見守ることしかできなかった。

だが彼は止まらない。次の魔力の矢は、蒼い風紋を帯びた連矢れんし


「風よ、形を成せ。“絶影・七式”」


詠唱とともに、弦が七連発を許容する力を持つ。

矢が生まれるたび、空間が軋む。

矢が放たれるたび、大地が吼える。

影が近づくたび、風が燃える。


暗黒の軍勢は、もはや前線を保てなかった。矢の雨は方向を持ち、嵐のごとく戦場を駆けた。

弓士は走り、跳び、旋回しながら連射を続ける。

風を制し、重力を欺き、空をも撃ち落とすような自在な狙撃。


まるで、矢が彼の意思を読んで飛んでいるようだった。

やがて、敵の大半が火の砂に還った頃、ハルメアスは一度、弦を静かに緩めた。


「……まだだ」


最後列。地平線の向こう、黒い風を巻いて進む巨大な影が現れる。

隊長格の影兵。冥府の番犬とも呼ばれるそれは、四本の腕と巨大な斧を持つ。


「なら、これで終いだ」


彼は矢を構えなかった。

代わりに、背後の風を集め、**魔力で形成した“空気の槍”**を弦に番えた。

風の矢ではない。風そのものを射る一撃。


「――“穿光・終式”」


弦が切れる音とともに、光が空を切り裂いた。

矢は見えなかった。ただ、風圧で敵の頭部が蒸発した。

最後の巨影が音もなく崩れ落ちる。


静寂。


戦場は、ただ焦土と、風の残響だけが残された。

ハルメアスは弓を肩に掛け、振り向きもせずに言った。


「ノア。記録しとけ。“赦しを知らぬ者にも、風は平等に吹く”と」


私は静かにペンを走らせる。


“風は問わない。ただ、全てを貫く”


その言葉は、冥廟への“正式な入国許可”として、火の門を通過させてくれるに十分だった。

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