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蒼天の書板

 山の名は、セレス。

 地図に記されるそれは、ただ一つの語でありながら、旅人の間では伝説だった。雲よりも高く、神話よりも冷たい。蒼穹に爪を立てるようにそびえ、古の神殿をその頂に戴く――。


 私たちがその麓の村に着いたのは、夜明けの光が白磁のように地表を滑るころだった。空気はすでに薄く、肺が何かを探すように喘いでいる。かつて海の底で塩と暗闇に浸された身体には、この澄みすぎた寒さが逆に毒だった。


「……空が、近すぎる」


 思わず、そんな言葉が漏れた。私の声はすぐ空に吸われ、音の芯が薄れていく。隣で焚き火を整えていたハルメアスが、火箸の先で薪を割りながら答える。


「ここは“声を持たぬ神々”の住処だそうだ。山上の神殿は、祈りの代わりに“沈黙”を捧げる場所だと」


「黙して語らぬ神に、我々は何を求めればいい?」


「……赦しではなく、“認識”だろうな」


 彼はそう言って、焔の中の小さな松脂の炎を見つめた。その目に映る光は、焚き火のぬくもりではなかった。むしろ、誰よりも寒さを抱えている人間の目だった。


 私は息を吐き、凍てる夜空を仰ぐ。そこには、星がなかった。いや、星の代わりに、巨大な月のかけらのような雪雲が浮かんでいる。


 ――“赦しの海”を越え、“裁きの空”へ至る。


 そう記した石板の文言を、私は手帳の隅に転写していた。海では「共感」が鍵となった。ならば、空は?


「君は、天を見て何を思う?」


 問いかけると、ハルメアスはしばし沈黙の後、ぽつりと答えた。


「――俺が許されていないと、再確認させられる」


 それは彼の語る中で、最も温度のない言葉だった。私は黙ってペンを握る。文字にせずにいられなかった。赦しを受けてなお、自らを赦せぬ者の業を、書き遺す義務があると思った。


 翌朝、霧が出た。薄氷が張る石畳を踏みしめ、我々は登山を開始した。

 高度が上がるにつれ、言葉が通じなくなる。いや、通じなくなったのは外界ではない。私自身の体内で音が共鳴せず、呼吸が言葉にならなかった。言葉にならぬ恐れが、皮膚の内側で増殖する。冷気が脳髄に染み込み、すべての判断を曇らせる。


「ノア、止まるな」


 前を行くハルメアスの声だけが、唯一の熱だった。私は脚を引きずりながら頷き、崖の縁を滑り歩く。

 そのときだった。


 山肌が鳴った。音ではない、“拒絶”そのもののような震動。白い靄の彼方から、銀色の光が鋭く閃き、稲妻にも似た横殴りの風が襲いかかる。


「下がれ!」


 ハルメアスの叫びと同時、霧の中から氷の矢が飛来した。彼の村正がそれを受け、斬り裂いた軌跡の先に、青白く光る影が浮かび上がる――


 精霊だ。


 だが海の巫女ネレイアとは違う。そこにあるのは“感情”ではない。“定義”のようなものだった。

 純粋な「寒さ」。


 赦しではなく、ただ“正しさ”としての冷気。


「……天の試練が、始まったな」


 ハルメアスが剣を抜き、私にだけ聞こえるほどの声で告げた。

 私はうなずき、手帳を閉じる。ここから先は筆ではなく、記憶に刻むしかない。書く余裕のない戦いが、今、空から降りてきたのだ。


 ――“空は赦さぬ。だが、覚えている”。

 どこかで聞いた、天界の格言が、心にこだまする。


「凍てつく正義、眠らぬ山」


 氷精霊は人の形をしていた。だが、それはあくまで“形”でしかなかった。

 目も、口も、心臓もない。ただ吹き出す冷気が、輪郭をなぞる霧となって人影を模している。顔の代わりに氷の面を戴き、そこに刻まれた表情は、ひとつの「命令」だけだった。


 ――「汝ら、登るべからず」。


 風が言葉を持ち、霜が拒絶を編む。天の門は、ただ静かに閉ざされていた。

 ハルメアスが一歩踏み出す。足元の雪が音を立てて割れる。


「構えろ、ノア。これは“問答”ではない。――“判決”だ」


 彼の言葉は震えていなかった。だがその背に宿る気配は、明らかにいつもと異なっていた。

 重い。


 彼は今、自らが“裁かれる者”の側に立つことを受け入れている。剣を抜き、己の“赦されなさ”を賭けに差し出している。


 精霊が動いた。無音のまま、斜めに滑空するように接近し、長い氷の刃を振り下ろす。風より速い一閃。

 ハルメアスの村正が、蒼白の光と火花を交錯させた。


 ――剣ではない。これは、正義と正義の衝突だ。


 精霊の刃は“汚れなき高み”から降ろされ、ハルメアスの剣は“泥に咲いた赦し”から振るわれている。どちらが真の光か、まだ分からない。


「ハァッ!」


 叫びとともに踏み込み、ハルメアスは二の太刀を浴びせた。氷の面に亀裂が走る――が、割れない。


「やはり……これは“存在”ではない。“理念”だ」


 彼が呟く。そう、これは人ではない。対話も交渉も届かない、純化された概念――“天の裁き”そのものが形を取って、我々を試している。


 ならばこの戦いの意味は?


 私は後方で弓を構えながら考える。私たちは何を以て、この山に挑んだのか?

 赦しを得たからか?

 鍵を求めているからか?

 あるいは、ただ「自分を信じたい」からか?

 思考の中で、精霊の視線が一瞬こちらへ向いた。私は悟った。


 ――この存在は“罪”を嗅ぎ取っている。


 人ではなく、記憶を。

 剣ではなく、心を。

 過去に犯した小さな過ち、曖昧にした誓い、誰にも見せなかった動機――すべてを剥き出しにして計っている。


「……なら、書記たる者として」


 私は弓を収め、手帳を取り出した。筆を走らせる。


「この戦いは、“赦されぬ者”が“赦しを刻んだ者”として試されるものである」


 風が巻き上がり、ページが破れそうになる。だが、私は押さえつけて書き続けた。ハルメアスの刃が、精霊の面に深く食い込み、いよいよ砕ける寸前。


 その瞬間、精霊の動きが止まった。


 “声”が降った。


 否、“氷が言葉のかたちに震えた”と言うべきだろう。


「なぜ登る」

「己を赦せぬ者に、空の名は要らぬ」


 ハルメアスは剣を伏せ、返した。


「赦せない。だが、それでも“赦しを運ぶ者”でありたい」


 沈黙が満ちた。山全体が、一瞬だけ息を止めたように感じた。

 そして。


 ――パキィン、と音を立てて、精霊の面が割れた。


 その中から現れたのは、人の顔でも神の貌でもなかった。ただ、凍てついた無数の“鏡片”だった。割れた鏡が宙に浮かび、周囲の雪と空と、そして我々自身を反射していた。


 私の目の前にも一枚、鏡が浮かぶ。


 そこに映った自分は――泣いていた。かつて、何も書けず、誰の言葉も信じられず、ただ震えていた頃の、私だった。


「……ああ、これが“裁き”か」


 私は呟く。


「剣でも矢でもなく、己自身に刺さる鏡――それが、この山の試練」


 ハルメアスも、鏡を見つめていた。だが彼は微笑んでいた。


「鏡は、壊すより先に、受け入れるべきだったな」


 鏡片たちは一つずつ音もなく崩れ、霧とともに消えていく。

 雪は止んでいた。空が、わずかに青みを取り戻していた。


「試練は……終わったのか?」


 私の問いに、彼は首を振る。


「始まっただけだ。“上へ行け”という許可が出ただけさ。まだ、“神殿”は沈黙している」


 その通りだった。峠の先に、雲の層を突き破るように、巨大な柱の影が見えた。

 霊峰セレス。頂に佇む神殿。

 我々の旅が、ようやく空へ届き始めたことを、私はその影に感じた。


「語られぬものを記す者へ」


 山の骨を刻むような石段を登りきったとき、私たちは“音”というものをほとんど忘れていた。


 雪も霧もすでに過去のものだった。空気は透明を通り越して“硬質”だった。吐く息が白くならない。寒さではなく、世界そのものが凍結したような静謐。音はすべて、ここでは無用のものなのだと、肌の奥で思い知らされる。


 神殿はあった。


 それは神の建築というより、空そのものに空洞を穿ったような“無”だった。柱は天へ溶け、屋根は雲に覆われていたが、輪郭だけが明確に「存在しないことを存在させている」不思議な構造物だった。


「……これが、“語られざる神々”の居場所」


 私は、筆を構える手に力が入るのを感じた。だがページに何を記すべきか、まったく分からなかった。

 それほどに、すべてが“無音”だった。


「ノア」


 ハルメアスが呼ぶ。声が届いているのか分からない。だが彼の視線は、確かに私を射抜いていた。


「先に進もう。この静寂は、俺たちに“語ること”を問うている」


 私は頷き、神殿の門をくぐる。


 内部は、廃墟だった。だが“朽ちた”のではない。“始めから廃墟である”ように作られていた。


 崩れた石の間に、浮遊する記号があった。刻まれていない。彫られていない。空間に“言葉そのもの”が浮かんでいる。


 〈記憶は語る者を失い、言葉は耳を失った〉


 読めた。だが音にならなかった。私は咄嗟に日誌を開き、筆を走らせる。


 〈記録とは、“声を失った言葉”の避難所である〉


 ハルメアスが足を止めた。空中の言葉が反応し、宙に浮かぶように再構成された。


 〈筆記者ノア・フェルメン。汝、“記録者”であるか?〉


 私は返す。


「……私は、記すことしかできない者だ。剣も魔も持たぬが、あなた方が忘れようとしたものを、拾って綴っている」


 言葉が震えた。


 〈記録者、汝に問う。“沈黙”とは赦しであるか、否であるか〉


 私は戸惑う。だがそのとき、隣にいたハルメアスが一歩踏み出し、静かに言った。


「沈黙は赦しではない。“赦すために必要な傷を、見ないふりすること”――それが沈黙なら、それは逃避だ」


 私はその言葉を記す。筆先が震えるのは、冷気のせいではない。


 記録文が変化する。


 〈では、沈黙は“記録の死”か?〉


「違う」と私は答えた。

「沈黙は、“次に語るための胎動”です。私たちはまだ、語れぬ痛みを記すためにここへ来た。ならばそれは“始まり”であって、“死”ではありません」


 沈黙が、軋んだ。


 石床が震え、天井から降る光が淡く揺らぐ。空間そのものが、次の言葉を探しているようだった。

 やがて、神殿の最奥――玉座のような高壇に、何かが現れた。


 それは“書板”だった。


 空中に浮かび、光の綴りを刻んだ第五の鍵。蒼穹の祝辞、あるいは天の判決のような荘厳さをまといながら、静かに我々の前へ降りてくる。


「これが……」


 私は震える手で手帳を閉じ、筆を置いた。その瞬間だけは、記すことよりも、“見届けること”のほうが大切に思えたからだ。


 ハルメアスが書板に手を伸ばす。


 そのとき、神殿の壁面が、最後の問いを発した。


 〈勇者ハルメアス。“言葉”は、剣を超えるか?〉


 彼は迷わず答えた。


「言葉は剣と同じだ。“傷つける”も“守る”もできる。ただし――剣は一度しか振れないが、言葉は繰り返せる。それが恐ろしく、そして希望でもある」


 〈ならば、受け取るがよい。第伍の石板“蒼天の書板”は、天の記録を継ぐ者に託されるべし〉


 書板が、彼の手に吸い込まれるように収まった。


 その瞬間、空が音を取り戻した。

 遠雷。雲の裂ける音。吹きすさぶ風。鳥の羽音。心臓の鼓動――すべてがいっせいに帰ってきた。


 ハルメアスが一言、呟いた。


「……これが、赦されぬ者が“語りなおす”ための鍵か」


 私は静かに頷いた。


「そして、記録者が“語られなかったもの”を拾うための灯火です」


 神殿の奥、天空に抜けた窓から光が射し込む。

 第五の書板《蒼天の書板》は、こうして我々の手に渡った。


「灯火は山を下り、火口を目指す」


 神殿を離れたのは、午後も終わりかけたころだった。雲海の彼方に沈みかけた太陽は、山の稜線を金の縁取りに変え、我々の足元には幾重にも折り重なる影が敷かれていた。


 雪は解け始めていた。高地の風も、さきほどまでの冷酷さを失い、わずかに春を孕んでいた。神殿が発した光の名残が、空気に柔らかな余韻を残していた。


 私とハルメアスは、山腹のひらけた岩棚に腰を下ろしていた。遠く、下界の川筋が銀糸のように揺れ、沈黙が言葉よりも豊かに流れていた。


「……ノア」


 彼が不意に口を開く。


「このまま六つの書板がすべて揃ったとき、君は“何を記す”つもりだ?」


 私は手帳を膝に載せたまま、しばし返答に詰まった。いつものように記録では答えられなかった。


「……正直に言えば、怖いんだ。言葉が“未来”を決めてしまうことが」


 ハルメアスは小さく頷く。


「分かるよ。俺も“刃が世界を変える”なんて思いたくない。だが……書かれた言葉は、振るわれた刃と同じくらい、戻せない」


 彼は指で雪をすくい、すぐに指先でそれを溶かす。


「だからこそ、君が必要なんだ。俺の刃より後ろを歩き、血を拭う言葉を選ぶ者が」


 私はその言葉を聞いて、筆を持つ手にふと力が入った。


「それでも、私は何も救えなかったと思う夜があるよ。人を“記す”ことでしか、隣にいられない。それが空虚に思える夜もある」


「それは“隣にいた”証だ」


 彼は即座にそう言った。まるでそれが、自らの痛みの繰り返しであるかのように。


「俺が一人で戦っていた時期、隣に“何も残らなかった”ことがあった。だから今は、たとえ君の筆先一つでも、共に戦ってると思える」


 私は静かに頷いた。彼の言葉は、剣ではなく灯火のように胸に灯った。


 夕陽がすっかり沈んだあと、我々はふもとの宿場に辿り着いた。村人たちは神殿の光を遠くに見たといい、我々をただの旅人ではなく“記録の担い手”として扱ってくれた。

 夜。囲炉裏の火が木霊のように壁を照らし、食後の静けさが部屋を包んでいた。


「……ハルメアス」


 私は炎を見ながら尋ねる。


「次の地“冥廟”について、何か知っているの?」


 彼は湯飲みを置き、少しだけ眉を寄せた。


「――あるよ。“サングリス”の王墓だ」


 その名に、私は胸を突かれた。


「灼熱の大地、“火を食う国”。王が死してなお火口の上に眠り、炎の霊を封じているとされる。だが近年、その封印が弱まり、“忌火”が各地の地脈に漏れ出していると噂されている」


「忌火……それは“灼熱”の呪い?」


「むしろ“激情”の化身だ。怒り、恨み、焦燥。赦しとは最も遠い火種。それが冥廟の心臓に巣くっている」


 私は書板の表面に浮かぶ光を見つめた。第五の石板は静かに燐光を揺らし、その行き先を灼けるような熱で示していた。


「赦しを積み重ねた先に、なぜ“怒りの墓”があるのだろう?」


 私の問いに、ハルメアスは答える。


「それは、“赦さなかった者たちの記録”だからさ」


 沈黙が落ちた。だが、それは重苦しいものではなかった。ただ、次の戦いに備えた祈りに近かった。


「ノア。次の地では、俺の“怒り”が試されるかもしれない」


 彼がふと呟く。

「俺が赦し切れなかった過去。それがあの火口の底で、俺を待っている気がする」


 私は静かに立ち上がり、焚き火のそばで手帳を開いた。


 “赦しの道の果てに、赦されぬ炎があるならば――それもまた、記すべき灯火である”

 そう書いて、私は頁を閉じた。


 外では、風が南東へ吹いていた。焔のにおいが、砂と鉄の焦げた残り香を運んでいた。

 ――冥廟へ向かう準備は、整いつつある


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