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深海の書板

 幾重にも碧を湛えた大洋の真只中で、我らの帆船〈グラディア・マーレ〉は白い鬣をあげて滑るように進んでいた。


 陽光は鏡面のような水面に乱反射し、甲板に落ちた光が揺らめくたび、船員の顔にも希望の火が灯った。


 ――だが、希望と不安は紙一重である。


「水平線がやけに蒼い。まるで底なしの瞳だ」


 ミレイユが舳先で手をかざし、子どものように歓声を上げる。


「見とれて落ちるなよ」


 セルデンが苦笑しつつ肩を抱えた。


「だ、大丈夫! でも……沈んだ神殿って、本当にあるのかな?」


「あるさ」


 ハルメアスが静かに応じる。「石板が示す座標はこのあたりだ。必ず――海の底で我々を待っている」


 帆柱の陰でイザベルが祈りの珠を握りしめていた。


「どうか、この旅が兄上たちの赦しの証となりますように……」


 その声を聞きながら、私は日誌にペンを走らせた。


 空は限りなく高く、雲は羊の群れのようにちぎれて流れ、潮の匂いを孕んだ風が紙面を翻す。


 だがハルメアスだけは、甲板中央でひたすら南を睨みつけ、眉間の皺を解かなかった。


「緊張しておられるのですね」


「深海の神殿は、ただ沈んだだけの遺跡ではない気がする」


 彼は低く呟き、蒼い瞳で遠い波頭をなぞった。「――何かが呼んでいる」


 私は身震いした。


 その瞬間、東の空に黒い線が走るのが見えた。


 雲――いや、淀む闇。


 船長が舵輪を握り締めて叫ぶ。


「全員、帆を縮め! これは嵐だ!」


 風は獣の咆哮に変わり、甲板はたちまち雨と飛沫で水浸しになった。


 マストを駆け上がる水夫の背中を雷が白く切り裂き、海面から吹き上がる潮が視界を奪う。


 セルデンがイザベルを抱えて船倉へ走り、ミレイユはずぶ濡れになりながらロープを巻き上げた。


 私も帆索にしがみつき、恐怖で震える指を必死に動かした。


「船が泣いてやがる……!」


 船長が歯を食いしばる。


「泣かせるな。生かしてみせる!」


 ハルメアスが応じ、舳先に駆ける。


 その刹那、海面から黒曜石めいた触手が突き上がった。


 太い――船のマストほどもある。


 甲板をなぎ払い、積荷を木端微塵にする。


「クラーケン!」


 船員の悲鳴が雷鳴に溶けた。


 触手は次々に現れ、吸盤が板壁へ食い込む。


 船体が悲鳴を上げ、斜めに傾いた。


「イヤアアアッ!」


 ミレイユが滑り、甲板を転がる。


 このままでは海へ落ちる――。


「しっかり掴まれ!」


 セルデンが腕を伸ばし、寸でのところで少女の手首をつかんだ。


 その背後で巨大な吸盤が跳ね、音を立てて甲板を削ぎ落とす。


「離せ化け物!」


 ハルメアスが風を裂き、飛ぶ。


 村正が稲光のように閃き、触手がたやすく斬り飛ばされた。


 噴き出す黒血が雨と混ざり、床板を焦がす。


「まだだ……!」


 残る触手が船腹を締め上げ、舵が悲鳴を上げた。


「船が割れる!」


 船長が叫ぶ。「総員、ボートへ!」


 私はオイルの灯を守りながら日誌を抱え、イザベルの手を取った。


「ハルメアス様は?」


「あとで合流する! 急げ!」


 救命ボートへ移ろうとした瞬間、砕けた船首が海へ引き込まれ、ハルメアスが波間へ転げ落ちた。


「ハルメアス!」


 私の叫びが空を裂く。


 稲妻が海を白く照らし、触手の根元――漆黒の水塊の中に怪物の眼が光る。


「グゥオオオオ――ッ!」


 海魔の唸りが空気を振動させ、ボートは真横から突風を浴び、ひっくり返った。


 濁流が身体を抉り、私は上下を見失う。


 塩水が肺を焼き、意識が遠ざかる。


 暗闇――その中央で蒼白い光が脈動した。


(――ハルメアス!)


 彼が水中を泳ぐ姿が霞んで見える。


 剣を構え、海魔の心臓へ突き進む。


 刃が鈍く青く光を貯め、次の瞬間、水中で稲妻が爆ぜた。


 暗黒の胴体が裂け、一面に黒い血泡が弾ける。


 巨体が痙攣し、海面に向かって浮上する中、私は意識を手放した。


 *


 ――凪いだ海の匂いがした。


 瞼を開くと、夜明け前の群青色。


 星がまだ消えず、波間で瞬いている。


 私は破片と浮遊木を繋いだ即席の筏に寝かされていた。


「気がついたか」


 ハルメアスの声。


 濡れた外套のまま膝をつき、私の額に手を当てる。


「みんなは……?」


「イザベルもミレイユもセルデンも無事だ。船長と水夫は救命ボートを繋いでいる」


 彼の肩には深い裂傷があり、血が滲んでいる。


「あなたは……自分が傷だらけじゃないですか!」


「海魔の爪が少し掠っただけだ」


 そう言いながら、彼は沖合を指差した。


 クラーケンの残骸が朝の光に溶け、黒い泡だけが漂っている。


「石板の導きが、本物である証明だ。あれを倒した刹那、海底から引き潮のような力が走った。おそらく、神殿の結界が反応したのだろう」


 ミレイユが泣き笑いで駆け寄る。


「ハルメアス! 怪我してるのに何でそんな平気な顔してるんだ! 死んじゃうかと思ったんだから!」


「悪かった。だが船を守るには、ああするしかなかった」


 セルデンが肩をすくめる。


「まったく、あんたは。だが感謝するぜ、勇者殿」


 イザベルが祈りの珠を掲げる。


「海神は貴方を祝福したのですね……。あの光、間違いなく“赦しの火”でした」


 ハルメアスは苦笑し、傷口を押さえた。


「赦しだろうと雷だろうと、次はもう少し穏便にやりたいものだ」


 私はそっと日誌を開く。昨夜、稲妻が走った瞬間に光が刻んだ円環――それは海面に浮かぶ星座のようだった。深海の神殿が呼び出した“扉”なのかもしれない。


「行き先は見えましたか?」


「いや、見えたのは“道”だけだ」ハルメアスが夜明けの水平線を見つめる。


「海は俺たちを試している。次に現れる嵐――その目こそ、神殿へ至る門だ」


 私は聞いた。


「つまり、どういうことだい?」


 答えるよりも早く、彼は帆を張り、船を進めた。イザベルや私の悲鳴が聞こえる。


 ──揺り起こされたのは、胸を満たす温かな空気だった。


 がばりと身を起こすと、そこは海底とは思えぬ清冽な光に包まれた空間だった。天井は琥珀のドーム状で、所々から気泡が昇り、淡く揺らぐ光が大理石の床に水紋を描いている。足元に海水はなく、代わりに草原の朝露のような湿り気が肌を撫でた。


 命ある内に、このような景色を見られようとは。ハルメアスが船首に立ち、あの大渦に突っ込めと叫んだ時は、いよいよこれまでと思ったが、なるほど。彼の魂は、あの螺旋の中に飛び込む勇気を持つ者だけが、最果ての(オケアノス)に至れる事を知っていたらしい。


「――生きている?」


 震える声が漏れた。返事をくれたのは傍らで咳き込みながら上体を起こしたセルデンだ。


「まったく、また死に損なったか……」


「ミレイユは? イザベルは?」


「ここだよっ!」


 柱の陰から飛び出したミレイユが、びしょ濡れの髪を振り乱して駆け寄り、私に抱きついた。イザベルはその後ろで胸に祈り珠を抱え、目に涙を浮かべている。


「良かった……皆さんご無事で」


「いや、まだだ」セルデンが顎をしゃくる。


「肝心の勇者殿は?」


 探すより早く、宮殿の奥から靴音が響いた。


「……大丈夫か?」


 ハルメアスが現れた。全身に切創が走り、上衣は所々裂けていたが、歩みに揺らぎはない。


「あなたこそ!」私は駆け寄って肩を支えた。


「俺は平気だ。あの光のおかげでな」


 彼は小さく息をつき、周囲を見渡す。


「ここが“海底神殿”。石板が示した場所に違いない」


 その言葉に、イザベルが震える声で問い掛ける。


「では……私たちを救った人魚のような方は?」


「彼女なら」


 朗らかな声が響き、私たちは一斉に振り向いた。


 玉座らしき高壇の前、薄い青光をまとう女性が立っていた。まさしく水精霊――その長い髪は潮騒のように波打ち、虹色に輝く尾鰭が床を擦っている。


『歓迎する、旅人たちよ』


 声は耳ではなく胸の内に響いた。


『我は〈ネレイア〉。大洋の門を守護する巫女。汝らの勇気と赦しの火が、長き封印を解いた』


 ハルメアスが一歩進む。


「あなたが……海神の祭司か。なぜ我々を助けた?」


『問うまでもない。汝らの心に、争いを癒やす灯があったゆえだ』


 ネレイアは静かに手を差し伸べ、天蓋に埋め込まれた瑠璃色の晶石を指さした。


 すると床の中央が機械仕掛けのように開き、光の柱がせり上がってくる。その中心に、掌ほどの石板――第四の書板が浮かんでいた。


「これが……」


『深海の神殿に眠る赦罪の記録。汝らが探す六つの鍵の一つ』


 ミレイユが息を呑み、「すごい……」と呟く。その表面に刻まれた金文字は、自ら発光して宙に反転し、周囲を回り始めた。


「だが疑問が残る」セルデンが腕を組む。


「なぜわざわざ怪物を放ち、渦潮で選別した?」


 ネレイアの瞳が悲しげに伏せられる。


『クラーケンは神殿の守護獣にあらず。海底を汚す“影の賢者”が放った業の残滓』


 影の賢者――アーグレンを思わせる言葉に、ハルメアスの表情が鋭くなる。


「奴の魔手がこんな深海にまで……」


『闇は海よりも深く、憎しみは潮よりも速い。鍵を集める旅は、光と闇の競争だ。急がねば、闇が先に門を開くだろう』


 私は勇気を振り絞り、ネレイアに近づいた。


「我々は鍵を集め、世界を救おうとしています。どうすれば闇に先んじられずに済むのでしょう?」


 水精霊は微笑み、私の胸に手を当てた。


『焦るな。真の敵は外ではなく、己の影に潜む。互いの痛みを忘れぬ限り、汝らの歩みは闇より速い』


 穏やかなぬくもりが心臓に届き、潮の音が遠くなった。


 ネレイアはゆるやかに空中を泳ぎ、書板をハルメアスの前へ運ぶ。


『赤き勇者よ。汝の刃は憎しみを切り分け、赦しの薪をくべる。次の鍵は “セレス” に眠る。蒼天が身を焦がし守る地へ向かえ』


『さすれば六つの炎はそろい、最後の扉が開く。だが――忘れるな』


 ネレイアが私にも視線を注ぐ。


『記す者よ。言葉は刃より深く人を裂く。汝の筆が迷えば、炎は汝らをも呑む』


 肝を冷やした私を横目に、ミレイユが挙手した。


「ね、ねえ! あたしみたいなチビでも役に立つ? 炎の国なんて暑そうだけど!」


 ネレイアはふふ、と水面に波紋の笑いを落とした。


『血の熱さは背丈に宿らぬ。汝ら皆、鍵そのものと知れ』


 その瞬間、神殿を満たす光がさらに強く脈動し、天井のドームが開いた。真円の孔から見えるのは、海の表層ではなく星々が瞬く夜空――いや、海水が逆巻く渦が天へ伸び、月光を反射していた。


「海が……割れている?」


『束の間の道だ。鍵を携え、地上へ戻れ。夜明けまでに海が閉じれば、永遠に此処に囚われるだろう』


 ハルメアスは頷き、書板を抱え込むと我々に呼びかけた。


「行くぞ! 渦を昇る!」


「ちょ、ちょっと待って。本当に上がれるの?」ミレイユが慌てふためく。


「信じろ。俺たちはもう一度、生きると選んだ」


 セルデンが剣の柄を叩き、「仕方ねえ。背中は任せたぜ」と笑い、イザベルも震えながら手を合わせた。


「大洋の神々よ、我らに浮力を……!」


 光の孔に近づくと、足元の大理石が舟のように浮かび上がり始めた。神殿の魔力が私たちを乗せ、水柱の螺旋に滑り込ませる。凄まじい水圧が耳を叩いたが、ネレイアの残した光の膜が盾となり、私たちは潮の矢となって駆け上がった。


「うわあああっ! まるで空を飛んでるみたい!」


 ミレイユが歓声を上げる。星明りを散りばめた夜の海が逆さまに広がり、私の髪が無重力のように揺れた。やがて渦が口を開き、蒼い空気が頬を撫でる。


 ――ドン、と鈍い衝撃。


 次の瞬間、私たちは夜の外洋に投げ出され、波間に漂う木片と再会した。嵐は遠のき、月が穏やかに照らす凪。


「……戻ってこられたのか」セルデンが呆然と呟いた。


「ほら、生きてるでしょ!」ミレイユが背中を叩く。


 私は胸に手を当て、鼓動が海鳴りよりはっきり聞こえるのを確かめた。ハルメアスはすでに立ち上がり、濡れた髪を払って南東を睨む。


「次は灼熱の冥廟。道は長いが、必ず行ける」


「ええ。あなたが船首で“突っ込め”と叫んだ時はどうなるかと思いましたが……」


「悪い、あれは少し無茶だった」


 ハルメアスが肩をすくめ、珍しく頬を掻いた。


「でも……」私は夜空を見上げる。


「あなたの無茶が、世界を救う鍵になっている」


「無茶じゃないさ」彼は夜風に目を細めた。


「怖れより先に歩く――それを“勇気”と呼ぶのだと、あの海の巫女が教えてくれた」


 月が雲間に隠れ、潮の匂いが新しい旅の幕を告げる。


 第四の書板は青い燐光を帯び、まるで次の行き先を示す羅針盤のように微かに揺れていた。


 その後、私たちは難破した船の生存者と共に、近くの小さな島へ漂着した。島でしばらく傷を癒し、簡単な筏を組んで何とか大陸沿岸への帰路につくことができた。双王の領地に戻り、彼らの厚意で改めて装備を整えることができた。第四の石板はしっかりと守られていたので一安心だ。


 出発の日、ゼノン王が笑みを浮かべて言った。


「海まで制した英雄も珍しい。さすがだ。」


 レオナード王もうなずく。


「次は空だそうだな。そなたならば空さえも制するであろう。」


 ハルメアスは謙遜して首を振った。


「いえ、精霊や仲間のおかげで生還できただけです。」


 私は心の中で付け加えた。


 ――そして何より、あなた自身の勇気と不屈の魂のおかげでもある、と。


 ミレイユやセルデン、イザベルとはここでお別れだ。


 こうして私たちは、五つ目の石板を求めて旅路を再開した。目指すは「蒼天を衝く霊峰」。それが何処なのかはまだ定かでなかったが、幸い大陸各地に伝承を尋ねるうち、一つの名が浮上した。「セレスの聖峰」――天空に届くほど高いと謳われる霊峰で、雲上に古き神殿があるという。


 私たちは迷わずその山へ向かうことにした。伝説の旅もいよいよ大詰めへと近づいている。胸に高鳴る鼓動を感じつつ、私たちは蒼穹を目指し歩み出した。


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