双王の書板4
次の日の深夜、私たちは闇に紛れて城へと忍び込んだ。玉座の間へと続く通路を、ハルメアスが音もなく駆け抜ける。私は彼の腕に抱えられ、セルデンとミレイユが背後に続いた。侍従も衛兵も眠りに落ちた時間帯――それでも一瞬の油断が命取りになる緊張が、肌を刺していた。
玉座の間の扉を静かに押し開けると、そこにはゼノン王が一人、書簡を眺めていた。すぐ傍には、漆黒の衣を纏ったアーグレンの姿。まるで影が人の形を成したかのように、不気味な静けさで佇んでいる。
「貴様ら……!」
最初に気づいたのはアーグレンだった。彼の瞳が妖しく細まり、声が鋭く空気を切った。
「王城への侵入――これは国家反逆罪に等しい。即刻、斬り伏せられたいか?」
しかしハルメアスは怯まなかった。黙って一歩踏み込み、手にしていた薬草の液を、容赦なくアーグレンへと浴びせかけた。
薬湯が弧を描いて飛び、アーグレンの顔面と胸元に濡れた瞬間――彼の身体が痙攣し、軋むような音と共に皮膚が歪んでいく。
「なっ……!?」
ゼノン王が立ち上がり、アーグレンの異変に目を見開いた。その隙を突くように、アーグレンは懐から一本の杖を引き抜いた。ねじれた黒木。禍々しい瘤のついたそれを天に掲げ、唇が呪文を紡ぎ始める。
「ちっ、小賢しい!」
その瞬間、アーグレンの双眸が深紅に燃え、不気味な詠唱が石造りの大広間に響き渡った。
玉座の間は、闇の霧に満ちていた。
視界はほとんどきかず、腐臭と冷気が喉を刺す。石床に倒れた兵の呻き、金属の軋む音、霧の奥で何かが蠢く気配――全てが不確かで、恐ろしい。
「アルヴィン、王を頼む!」
ハルメアスの声が響いた次の瞬間、剣の閃きが漆黒を裂いた。
私は振り返らず、ゼノン王の肩を支えながら柱の陰へ身を潜める。
「ご無事ですか?」
と問うと、王は震えながら答えた。
「……私は、何ということを……アーグレン……あれは……」
その言葉を遮るように、霧の中から獣の咆哮が轟いた。骨を振動させるような重低音。金属が折れ、壁が崩れる音。やがて霧がわずかに晴れ――異形の怪物が姿を現した。
それは、人の姿の面影を僅かに残しながらも、蜥蜴と蝙蝠を掛け合わせたような禍々しい体をしていた。闇灰の鱗が全身を覆い、巨体に似つかわしくない異様な俊敏さで動く。鋭利な尾が床を削り、赤黒い瞳が獲物を探していた。
そしてその怪物と対峙していたのは、ハルメアスだった。
「名を捨て、形を捨て、影に堕ちたか……アーグレン!」
彼の剣が唸る。銀光の軌跡が、宙に半月を描いた。剣が鱗に命中するたび、火花と黒血が迸る。しかし、アーグレンの身体は異様に硬く、腕一本を落とすにも一撃では足りない。
怪物は咆哮し、翼を大きく広げて突進した。風圧で玉座が吹き飛び、柱が軋む。ハルメアスは回避せず、あえて懐に飛び込んだ。翼の影に踏み込み、剣を突き上げる。
「喰らえ!」
その一閃は、怪物の翼膜を裂き、悲鳴を上げさせた。しかし怪物は怯まない。鋭い爪で彼の胸甲を裂き、血が飛び散る。私は叫びそうになるのをこらえた。だがハルメアスは、苦痛を歯噛みで抑え、踏み止まった。
「お前の中に、まだ“言葉”が残っているなら――俺が届かせてみせる」
その言葉が届いたのか、一瞬だけ怪物の動きが止まる。だがそれは罠だった。黒い尾が唸り、彼を吹き飛ばす。
「くっ……!」
彼の体が柱に叩きつけられ、砂埃が舞う。だが次の瞬間には、もう立ち上がっていた。血を流しながらも、その瞳は曇っていなかった。
私はその隙を見て、床に転がっていた槍を拾った。
「はあっ!」
叫びと共に投げた槍は、怪物の肩に深く突き刺さる。さすがに動きが鈍った。ハルメアスが跳び、怪物の背に乗る。
「終幕だ。これは――お前の“偽り”を断つ刃!」
剣が振り下ろされ、胸元に突き立った。黒血が噴き出し、怪物は絶叫した。その声は低く、長く、玉座の間全体に響き渡る。
巨体がゆっくりと崩れ、地に伏した。
やがて、鱗は灰となって崩れ落ち、怪物の体は黒い煙に変わって消えていった。床に残されたのは、砕けた黒木の杖と、焦げた布切れだけだった。
ハルメアスはそれを見つめたのち、黙って踏み砕いた。
「ゼノン王、御無事ですか?」
私が問いかけると、王は震えながら頷いた。
「ああ……助けてくれたのだな……私は、私は……」
そして玉座の間を見回し、膝をついた。
「民を苦しめたのは私だった……私は……なんと愚かな……」
ハルメアスがゆっくり歩み寄り、血に染まった剣を収めた。そしてゼノン王の前に膝をつく。
「王よ、まだ間に合います。剣ではなく、言葉を。民のために」
ゼノン王は涙を拭い、立ち上がった。
「……すぐにでも、戦を止めねば……!」
そして城内に号令を飛ばした。
「誰か!伝令を!ただちに戦闘を停止せよ!北の王国との和睦を開始するのだ!」
こうして、戦の終息が始まった。煙の残る玉座の間に、確かな静寂と、希望の光が差し込み始めていた――




