双王の書板2
ヴァルクハイムの宮殿の石壁は霧雨に濡れ、灰色の灯下で槍先が鈍く光っていた。
「名を告げよ」──門番の声に、半弧を描く弓兵列が私とハルメアス、荷馬車の陰に潜む少女ミレイユを値踏みする。
ハルメアスは外套を払い、赤髪を靡かせて一歩前へ。
「赤髪の──」と言いかけたとたん、若い近衛が「勇者だ!」と叫び、列は騒然となる。
「証を示せ」迫るセルデンに、ハルメアスは村正を抜いた。紅蓮の紋が闇を裂き、瞬時に槍の穂先を二つへ断つ。誰も斬撃を見ていない。
「王に会い、戦を止める。それが目的だ」
沈黙ののち、セルデンが膝をつく。
「門を開けよ。勇者殿を通せ」
*
玉座の間。兄王レオナード三世は、風雪に削られた岩のような顔で立ち上がった。
「遠方よりよく来た、勇者よ。鬼神討伐の噂は聞いておる。何ゆえ我が国へ?」
「民の苦しみを終わらせるためです。剣ではなく和平を」
ハルメアスは真っ直ぐに応える。
宰相が舌打ちした。「南王は聖戦を宣し、説得など戯言だ」
ハルメアスは血染めの羊皮紙を示す。
「それでも、この遺書を読みましたか」
私は書記として朗読する。
〈母上、麦が実る頃に帰ると約束しましたが、畑は炎に沈みました〉
王の眉間に深い皺が刻まれる。懐から封蝋付きの書簡を取り出し、差し出した。
「弟ゼノンの直筆だ。“腐敗王朝を打倒する聖戦”とあるが、行間にあるのは怒りより悲痛だ」
ハルメアスが手紙を読み終え、静かに畳む。
「怒りの芯は、居場所を奪われた痛み。ならば刀より先に椅子を差し出すときです」
別の側近が机を叩く。
「甘い! 南宮廷には東方の賢者アーグレンがいる。奴に操られているのだ」
私は思わず口を挟んだ。
「陛下、その名は帝国期の禁書に。“人の魂を蝕む星の蛇”と」
王は沈痛な目でうなずき、ハルメアスへ視線を戻す。
「私はゼノン王を憎むために剣を取らぬ。民が苦しむ限り剣を置けない。対話の機会を」とハルメアス。
レオナードは玉座を降り、勇者と向き合った。短剣で自らの掌を斬り、一滴の血を石床に落とす。
「この血が乾くまでに和平の糸口を掴め。叶わねば総攻撃に移る。退路なき誓いだ」
セルデンが息を呑む。ハルメアスは膝を折り、王の血を布で拭った。
「必ずや剣より深く言葉を届けると誓います」
謁見を終え、近衛総隊長セルデンは私とハルメアス、そして少女ミレイユを客人の間へ導きながら低く囁く。
「兄王陛下の胸中は夜闇だ。だが民のためなら己の影ごと呑む――あの御方は、そういう人だ」
客間の扉が閉まると同時に、セルデンは鎧の留め具を外し、大きく息を吐く。
「正直に言おう。北と南の軍境は今にも崩れる。陛下は出兵の令に手を掛けておられるが、最後の楔が足りない」
「楔?」と私は聞き返した。
「南王ゼノン殿の心だ」セルデンの声はわずかに掠れる。「あのお方は元来、真昼の陽より穏やかな御仁だった。だが東方の賢者アーグレンが現れてから、正義を叫ぶ剣になった」
ハルメアスが椅子に腰掛け、腕を組む。
「アーグレン、『星の蛇』、『魂を蝕む教師』その名は帝国期の禁書にあります。秩序を反転させる異端の導師だと」
セルデンは目を見開き、苦い笑みを浮かべた。
「やはりか。弟王は彼の入れ知恵で王国を二分し、南へ宮廷を移した。最初は血一滴流れずに済んだ。だが今年に入ってから侵攻が始まった。性格も声も、何かが別人のようだ」
ハルメアスは卓上の地図を指でなぞる。
「ならば直接叩くしかない」
セルデンが思わず声を上げる。
「無茶だ! 城下は重装騎士団と魔導兵で固められている。陛下が協力を惜しまれぬとしても、敵陣の只中へ飛び込むようなものだぞ」
「構わん」
ハルメアスの応えは静かで、しかし岩より重かった。
「火中の栗でも拾おう。放置すれば灰だけが残る」
私は書記として口を挟む。
「少人数の使節として赴き、まず言葉で楔を打つのはどうでしょう。公式の交渉団なら拘束はしにくい」
セルデンが私を見てうなずき、すぐに立ち上がった。
「それなら策はある。兄王の親書と和平条約案を携え、同行護衛を最小限に――私もその一人として随行しよう」
王都ヴァルクハイムの回廊──
彩雲色のステンドグラスが差し込むたび、石床に宝石のような光が弾ける。護衛の槍が反射するその光を追いながら、私はハルメアスの横を歩いていた。兄王の執務が終わるまでのあいだ、ふたりで庭園を眺めに行く――そんな他愛もない小休止のはずだった。
けれど曲がり角で、涼やかな声が跳ね返る。
「わっ……失礼!」
書簡の山を抱えた少女が、必死に脇へ身を引いた。
淡紫のドレスに白い肩マント。北王国の王妹、イザベル殿下――二十歳そこそこの眼差しが、驚きに丸くなったまま揺れている。重そうな羊皮紙束が腕の中でぐらりと傾き、思わず私が支えた。
「お怪我は?」ハルメアスが尋ねる。
「へ、平気! というか、私こそ前を見てなくて……」
早口で言いながらも、彼女はハルメアスを見るなり頬を赤くした。
私は書簡を抱え直して笑う。
「殿下も会議帰りですか?」
「ええ。兄上の側で議事録を取ってたら、最後には知らない単語がいっぱい飛んできて……頭が湯気だらけ」
真顔でそんなことを言うから、思わず吹き出しそうになる。王国外交の最前線に立つ“潤滑油”とは思えぬ、年相応の愚痴だ。
ハルメアスが手に下げた木刀に殿下の視線が吸い寄せられる。
「その……お稽古、ですか?」
「むしろ肩ほぐし程度です。室内で刃を振るより安全でしょう?」
「じゃあ……わたしにも一手、教えていただけませんか?」
半歩踏み出した拍子に、紙束がぐらついた。慌てて押さえる細い腕。
「その荷物をどこかに置ければ」ハルメアスが言う。
イザベルはくるりとこちらへ振り向き、照れ隠しに舌を出す。
「ノア殿、お願いしてもいい? ちょっと重いけど……」
「かしこまりました、姫君」私は荷重に腕をぷるぷるさせながら答えた。
中庭。秋薔薇の香が漂い、衛兵たちが遠巻きに見守る。
ハルメアスは木刀を横に構え、イザベルは護身用の細剣を握った――といっても、鍔から下は震えが伝わっている。
「まずは足だけ動かしてみましょう」
「は、はいっ!」
返事と同時に、殿下は片足を前に突き出す。ドレスの裾が絡み、バランスを崩しかけた。ハルメアスが木刀でそっと支える。
「膝を曲げて、土踏まずで地面を押すように」
「え、こう? きゃっ!」
彼女の剣先がヒューッと弧を描き、ハルメアスの袖をかすめた。危うく生地が裂けるところを、彼が木刀の側面で受け流す。
「す、すみません!(今の本気で当たるところだった!)」
「気にしない。恐れは刃を鈍らせますよ」
二合目。ハルメアスが軽く突きを入れる。イザベルは逃げ腰になりつつも、必死に細剣を立てて受け止めた。双剣が触れた衝撃に、彼女の肩が震える。
「わたし、こんな頼りなくて……英雄の横に立つなんて、おこがましい、ですよね?」
言葉の終わりが少し掠れる。
ハルメアスは刀を下ろして首を振る。
「英雄を立たせるのは周りの人間です。隣に立とうとするだけで、もう半歩は踏み込んでいる」
「でも――兄たちみたいに、大きな決断もできない。ただ間に挟まって右往左往して……」
「挟まれた場所は誰かが守らなきゃ生まれません。殿下が“潤滑油”と呼ばれるのは、その場を動かす力でしょう」
イザベルはふっと笑い、剣を構え直す。
「じゃあ、動かしてみせます。それで……」
言いよどみ、目を泳がせたのち、意を決して言った。
「わたし、ノア殿に聞いたんです。“どうすれば英雄の隣に立てるか”って。答えは『自分で考えてこそ』だったので……今、試してるの」
私の頬が熱くなる。当の本人は記録用の羊皮紙を取り出すフリをして視線を逸らした。
三合。イザベルが先に踏み込む。ハルメアスは木刀をあえて遅らせ、刃を絡め取る。体勢を崩した殿下の手から細剣が滑り落ちた。
「しまっ……!」
刃が芝へ刺さる前に、ハルメアスが木刀を引き絞る。剣身が寸前で止まり、イザベルの額をかすめる風だけが通り抜けた。
殿下の睫毛が小刻みに震える。
「……怖かった?」
「少し。でも、止めてくれるって分かってた」
「信じてくれたんですね」
「はい。だって――」イザベルは顔を上げる。「わたしが初めて読む英雄譚の主人公みたいでしたから」
ハルメアスは言葉を失い、木刀を鞘へ戻す。
私も胸の奥が少し熱くなる。戦場の冷徹な剣士である彼が、今はただ照れた青年に見えた。
そこへ鐘の音。休戦交渉の開幕を告げる三打。
イザベルは細剣を拾い、裾を払って背筋を伸ばす。先ほどまでの震えは、もう微塵も見えない。
「――兄王たちの議場へ戻ります。今日の痛み、忘れません。ありがとうございました、ハルメアス様」
「先ほどの一合目を覚えていますか? 手首の力を抜くと剣は速くなります」
「ええ。兄たちの前で試してみますね」
彼女は弾むような足取りで回廊へ去っていった。
残された私とハルメアス、そして紙束。私は咳払いして尋ねる。
「どう? 英雄様、人気者だね」
「……俺は剣より言葉の方が怖い」
「謙遜?」
「いいや、本音だ」
彼は冗談とも本気ともつかぬ表情で笑い、空を見上げた。
高い尖塔の向こうに、灰雲の切れ目が淡く光っている。
「空は重くても、風は動いた。進もう、ノア」
「了解。あ、殿下の書類返すの忘れてる!」
慌てて紙束を抱え直す私を見て、ハルメアスが珍しく声を立てて笑った。
英雄と王妹の距離は、剣一振りよりも近く――けれど揺らぎながら、確かに縮まっている。私はその瞬間も書き留めようと、羊皮紙をめくった。
程なくして王命が下りた。私たち三名に連絡将校二名を加えた小隊は、夜明け前に王都を発つ。出立の前、玉座の間でレオナード三世と対面した。
王は疲労を帯びた瞳でハルメアスを見つめる。
「勇者よ。弟を討てとは言わぬ。だが民を守るために、あの子の目を覚ましてくれ」
ハルメアスは膝をつき、短く誓う。
「剣を抜くのは最後の瞬間だけと心得ます」
南境に向かう軍道は、焼けた野と放棄された畑が続いていた。火薬の臭いを帯びた風に、ミレイユが鼻を押さえる。
「兄王さまも弟王さまも、“正しさ”を歌うけどさ。うちらの麦畑は誰の正義で実るの?」
私は書板にその言葉を刻み、ハルメアスへ視線を送った。
赤髪の剣士は曇天を見上げる。
「争いが長引くほど、声なき者の血だけが濃くなる。だから俺は刃を抜き、痛みを切り分ける」
セルデンが手綱を絞め、苦笑した。
「共感の刃、か。武人の俺にはまだ半分も理解できんが――その半分でさえ胸に刺さるよ」
「理解は後でいい。今は前へ進もう」ハルメアスはそう言って馬を駆る。
灰空の彼方、南王国ゼルカディアの城塔が霞んで見えた。私たちの旅は、その塔の影で待つ“星の蛇”と、居場所を失った王の心へ向かう。
火中の栗をつかむ痛みは覚悟のうえだ。だが痛みを恐れては、麦も民も二度と実らない。
馬蹄が土を打つたび、セルデンの鎧が微かに鳴った。緊張と希望が、その音色に交互に宿っているようだった。




