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黎明の書板1

 星々の瞬く深夜、森の小径を歩く私は、底知れぬ闇に怯えていた。薄い月光が樹々の合間に差し込み、ぼんやりと足元を照らしているだけだ。風が止んだ森は不気味なほど静まり返り、葉擦れの音すら耳につかない。胸の奥で心臓が高鳴り、嫌な予感が消えないまま、私は歩みを早めた。


 低い唸り声が闇の向こうから響いた。足がすくみ、息を呑む。暗がりの中、黄の光が二つ、茂みの間で揺らめいた。狼だ――それも只の狼ではない。闇の魔力に魅入られたような、瘴気を纏う巨大な影が、牙を剥いてこちらを睨んでいた。


「嘘だろ…!」


 思わず声が漏れる。私は震える手で短刀を抜いたが、それを握る指先から力が抜け落ちていく。狼が地を蹴り、唸りを上げて飛びかかってきた。


 刹那、月光よりも鮮やかな閃光が夜闇を裂いた。銀の刃が閃き、獣の雄叫びが悲鳴へと変わる。目の前に迫っていた魔狼が地面に崩れ落ち、血の臭いが鼻を突いた。何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くす私。その視界に、一人の男の背中が映った。男は私と魔狼の間に立ちはだかり、長い剣を静かに下ろしている。闇にあってなお、その剣身は微かに青白い光を放っていた。


 唖然とする私の前で、次々と茂みから新たな魔狼が現れた。しかし男は動じない。一歩踏み出すと、まるで風と踊るような優雅さで剣を振るった。冴え渡る剣閃が夜気を裂き、怯む暇もなく襲いかかる魔狼たちを次々となぎ倒していく。森に響く獣の断末魔と鉄撃の音。私はただその光景を茫然と見守ることしかできなかった。


 静寂が戻ったとき、地面には魔狼の亡骸が横たわっていた。男は剣を納め、ゆっくりと振り返った。私ははっと我に返り、慌てて礼を述べようと口を開く。だが喉が乾いて声にならない。ようやくの思いで絞り出した声は掠れていた。


「た、助けてくださり、ありがとうございます…!」


 男は静かに頷いた。月明かりに浮かぶその顔は若々しくもどこか峻厳で、深い瞳には優しさと悲しみが同居しているように見えた。


「無事か。」


 低く穏やかな声が問う。私は大きく頷いた。


「はい、私は大丈夫です。本当に…ありがとうございました。」


 胸に込み上げる安堵に、涙が滲みそうになるのを堪える。命拾いをしたのだという実感が遅れて押し寄せ、膝が笑った。

 男は私の様子をしばらく見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。


「こんな森の中で、一人旅とは危ないな。」


 どこか人懐こい口調に、緊張が解ける。


「おっしゃる通りです…お恥ずかしい限りだ。」


 私は安堵の笑みを返した。


「あなたのお名前を伺っても?」


 礼を重ねるように尋ねると、男は一瞬ためらうように瞳を伏せ、それから静かに答えた。


「ハルメアス。」


 その名は、私の記憶の片隅に引っかかった。遥か昔に読んだ伝承の一節にあった名…いや、似た響きの名だったかもしれない。しかし今は思い出せない。ただ、その音が妙に胸の奥で響いた。


「私は歴史の書記をしております。名は…そう、ノアと申します。」


 私は名乗り、深く頭を下げた。


「ノアか。」


 ハルメアスは私の名を繰り返した。


「一人でこんな夜更けに旅とは、何か目的があるのだろう?」


 私は一瞬言葉に詰まった。何と答えたものか――まさか、自分が伝説の英雄の記録を書き記すために旅をしているなどと正直に言うのは憚られた。相手がその「伝説の英雄」本人だという確証もない。それに、旅の理由は自分でもはっきりとは定まっていなかった。ただ幼い頃から古い英雄譚に憧れ、いつしか自分自身で新たな物語を記し伝えたいと願うようになった。それだけのことだ。それでも、この出会いが運命であるような予感が胸に芽生えていた。


「私には…書き記したい物語があるのです。」


 私は慎重に言葉を選びながら答えた。


「今はまだ形の無い、これから紡がれるべき物語。世界に希望をもたらすような伝説を…私は探しています。」


 ハルメアスは怪訝そうに眉をひそめたが、その表情にはどこか寂しげな影がさしたように思えた。


「伝説、か…。」


 彼は低く呟くと、夜の静寂に視線を巡らせた。


「そんなものより、目の前の人々を助ける方が大事だと思うがね。」


「ええ、もちろんです。」


 私は慌てて頷いた。


「あなたが今、私を救ってくださったように…。」


 そう口にしてから、自分でも驚いた。ハルメアスに感じていた既視感――それは数多の英雄譚の中で描かれていた理想の姿そのものではないか。目の前の人々を救うことを何よりも優先する英雄。彼こそ、私が追い求めていた伝説の存在ではないのか?


「でしたら尚更、お願いがあります。」


 私は意を決し、一歩前に進み出た。


「どうか私に、あなたと旅をすることを許していただけませんか。そして、その旅の記録を取らせてください。」


 ハルメアスは驚いた様子で目を見張った。


「記録、だと?」


 私は深く頷いた。


「ええ。あなたの戦い、行いや、その志を…後の世に伝える記録に残したいのです。私は書記としてそれを綴りたい。そして、より多くの人々にあなたのような方の存在を知ってもらい、希望を持ってほしいのです。」


 彼は困惑したように沈黙した。冷たい夜気が肌を刺す。私は胸が締め付けられる思いだった。ずうずうしい願いだと承知していたし、断られれば諦めるしかない。それでも、一度芽生えた確信は揺るがなかった――この人こそ、物語に記すべき英雄だ。闇に差す黎明のごとき光なのだ、と。


 しばらくして、ハルメアスは静かに笑った。

「君は不思議な人だな」


 穏やかな声音に私ははっと顔を上げた。


「そこまでして記録を書きたいというのか。」


 私は真摯に頷いた。


「はい。私のすべてを懸けても。」


 男は夜明け前の冷たい空気の中でしばし目を閉じ、何か考えるように息を吐いた。そしておもむろに口を開く。


「…好きにするといい。ただし、危険な道行きになる。それでも構わないなら、だ。」


 それは、私の申し出を受け入れるということだった。


「ありがとうございます…!」


 喜びが胸に満ち、私の声は震えた。助けてもらった恩も返せぬまま、さらに旅の同行などと身勝手な頼みを聞き入れてくれたことが信じられなかった。


「必ず、あなたの足手まといにはなりません。そしてこの目で見たことを、後世に伝えてみせます。」


 ハルメアスは照れくさそうに苦笑した。


「大袈裟なことは期待しないでくれ。俺は俺のすべきことをするまでだ。」


 そう言って彼は、鞘に収めた剣の柄にそっと手を触れた。その横顔は東の空を見つめている。闇の帳が少しずつ退き、空が群青から薄明へと移ろうところだった。彼の瞳はその微かな光を映し取り、まるで遠い未来の希望を見通すように輝いている。


 私も同じ方角に目を凝らした。やがて、森の影を塗り替えるようにして、一筋の朝日が差し込んだ。黎明――新たな一日の幕開けだ。私は胸に熱いものが込み上げるのを感じた。この出会いこそ、長い夜の終わりと伝説の始まりなのだと。


 こうして、私はハルメアスと共に旅立つことになった。世界の行く末を左右することになる冒険へと、まだ見ぬ希望の光を求めて。


 ________________________________________

 焚き火の灯りが、彼の輪郭を浮かび上がらせていた。ハルメアス――その名がもつ音のとおり、どこか人離れした静けさを纏う青年。


 炎に照らされた横顔は凛としていて、彫像のような輪郭が夜の影の中に浮かぶたび、私は何度も視線を逸らした。


 髪は血のように赤い、けれどそれは決して濁った色ではなく、古の封印に使われる紅玉を思わせた。艶やかで、風が通れば水面のようにさらさらと揺れ、時折そこに残る煤の跡が、彼の過去を黙って物語る。


 肌は白磁のように滑らかで、戦場を歩んできた者とは思えないほど清らかだった。だがそれは剣の扱いが洗練されている証なのかもしれない。無駄な動きをせず、力を込めず、それでいて誰よりも深く斬り込む者の美しさ。


 瞳は夜の湖のようだった。決して熱を帯びないのに、覗き込めば底知れぬ深さと冷たさに魂を掴まれる。けれどそこに、微かに灯る光があった。諦めではない、悲しみでもない。ただ、誰にも語られなかった願い――それが彼の瞳の奥に沈んでいた。


 背は高く、しなやかで、立っているだけで空間の重心が彼に引き寄せられる。歩くたび、周囲の音が一瞬だけ止まり、風がその足元にひれ伏すように感じるのは、私だけだろうか。


 そして声――それがまた、罪だった。低く、柔らかく、どこか乾いた響きを持ちながら、耳に残る。声に温度があるとするなら、ハルメアスの声は冬の陽光のようだった。あたたかくはないが、差し込むだけで救われる。


 こんなにも整っていて、こんなにも静かで、こんなにも…遠い人間がいるのだと、私は思った。まるで見上げる星のように、美しいだけでなく、近づこうとすればするほど、自分の手の小ささに気づかされる。


 それでも、記録を綴る者として、私は彼を見続ける。美しさに溺れぬように、だが、忘れないように。私は、彼の内心を知りたいのだ。


「ハルメアス」


 私は、焚き火に照らされた彼の横顔を見ながら、ふと問いかけた。


「君にとって、英雄とは何だと思う?」


 彼は少しだけ目を伏せ、唇に指を当てた。火の粉が空に舞った。


「……血を流さずに終われる者ではない。それが最初に言えることだ」

 ゆっくりと、低く抑えた声だった。


「英雄は常に誰かの希望になる。その代わり、必ず誰かの憎しみにもなる。光が強くなればなるほど、影は深く、冷たくなる。俺はその影を、肌で知ってる」


 彼は視線を落とし、手のひらを見つめた。そこにはもう血はついていなかったが、彼の眼差しの奥に、過去の死が沈んでいた。


「だけど、英雄って……皆が憧れる存在じゃないか?」


 私は焚き火に枝をくべながら、口に出す。


「人を救い、希望を与え、世界を変える……」


「それは“物語の中の英雄”だ」


 ハルメアスは即座に言った。


「現実の英雄は、救えなかった命を抱いたまま、誰にも祝福されない道を歩く。救った人間が、次の瞬間には牙を剥くことだってある。英雄にとって最も重いのは、そういう“後悔しない選択”を、毎日強いられることだ」


「……じゃあ、君は英雄なのか?」


 問うと、彼は少しだけ苦笑した。どこか寂しげに。


「わからない。俺は、自分のことを英雄だなんて思ったことは一度もない。ただ……人が苦しんでいるのを、見ていられなかっただけだ」


「手を伸ばせば、届きそうな命があるなら、それを見過ごすのは、自分を殺すことと同じだからな」


 その言葉を聞いたとき、私は胸が締めつけられた。

 ――それこそが、英雄なのではないか? と。


 誇りでも名声でもなく、ただ「苦しむ者を見過ごせない」という痛みに突き動かされてしまう存在。

 剣を手に取るその背中は、誰よりも脆く、だからこそ誰よりも美しかった。


「……それでも、僕は君のことを英雄だと思ってるよ」


 静かにそう告げると、ハルメアスは驚いたように私を見た。


「それは君の幻想だよ、ノア」


「かもしれない。でも、君の背を見て誰かが立ち上がれるなら、その幻想はきっと意味を持つ」


 私は言った。


「英雄とは、“選ばれた誰か”じゃない。“選び続けた者”なんだと思う」


 ハルメアスは焚き火に目を戻した。

 その火の色は、どこか彼の髪のように、深紅に揺れていた。


「……その定義は、悪くない」


 それだけを呟くと、彼はその場に横になり、目を閉じた。

 私はしばらくその沈黙を見守り、そして同じように、火が落ちる音を聞きながら眠りに落ちた。



 朝になる前に森を抜け、夜明け前の荒野へ踏み出す。

 彼の足取りは、揺るぎがない。

 選択と行為の以前に、正義が彼の呼吸と共に宿っている。



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