第六節 ◇ 蜘蛛 ②
ボクとトキワは驚いて顔を見合わせた。間違いなく、声はヒマワリから聞こえた。ヒマワリの声は、優しさの中に強さがある。
「今のあなたに必要なのは、冷静になることよ。どうしてこんなことになったのか、その理由が分からないのなら、黙ってそこで聞いていなさい。」
どういうことだと、クモはどなっている。わめきちらすクモに、ヒマワリは冷静にそう言った。
「ところで、そこのふたり。話したいことがあるの。今、そっちに行くから、ちょっと待っててね。」
声をかけられて驚いていると、小さな影が、花の真ん中からぴょんぴょんと降りてきた。
「お待たせ。」
ボクたちの目の前に現れたのは、身体はオレンジ、耳は茶色の、トキワよりも小さいウサギだった。
「わたしは、ヒマワリ。時間がないから、わたしについての質問は後回しにしてね。さて――、」
ヒマワリと名乗ったオレンジ色のウサギは、身動きのとれないクモとボクたちを交互に見ながら話した。
「ねえ、クモ。あなたがヘビの舌を持ってここまで来たのは、どうしてかしら。それと、あなたたちがクモを追ってここまで来たのは、どうしてかしら。」
ボクはトキワと顔を見合わせてうなずくと、まっすぐクモを見ながらゆっくり話した。
「ボクたちは、積み木のお城にいるヘビに、自分の舌を持って行ってしまったクモに、舌を返してくれるように伝えて欲しいと頼まれて、ここまで来たんだ。」
クモは、嘘だ嘘だと叫び、狂ったように暴れている。ヒマワリは、そのようすを見守っている。
ボクの言葉に続けて、トキワが話し始めた。
「ヘビは、自分が捕らえられている積木の城から出るためにクモに舌を引っ張ってもらったけれど、舌だけが伸び、クモはそのことに気が付かず自分の舌を持ったまま歩いて行ってしまったと、確かに言っていた。だが考えてみれば――、」
「そんなこと、アタシは頼まれてないよ! ヘビは、獲物がたくさんいる最高の場所があるから教えてあげる。でも、自分は出られないから、舌が案内するって言ったんだ! だから、アタシは、こんなところまで歩いて来て、ずっと待っていたんだ。獲物が来るのを、ずっと、ずっと……。」
クモの声はどんどん小さくなり、やがてボクたちに聞こえないほどになってしまった。あんなに暴れていたのに、自分の状況を分かり始めているのか、すっかりおとなしくなった。
「ねえ、白いカラスと人間のお嬢さん。ヘビの言葉とクモの言葉、どちらが本当なのか、分かるかしら。」
ヒマワリが、少し愉快そうにボクたちに質問した。
「クモの言葉が本当だよ。だって、外に出してあげるためにヘビの舌を引っ張ったなら、いくらなんでもクモはここまで歩いてこないよ。すぐに振り向いて、ヘビが出られたかどうか確かめるでしょ?」
「私も同意見だ。ヘビと話したときに気づくべきだったと反省している。しかし、私にはどうしても分からないのだ。ヘビは、どうして、クモをだましてまで自分の舌を運ばせなければならなかったのだろうか。」
ヒマワリは、耳をゆらゆらと動かしながら、そうね、と考えをめぐらせた。
「まず、ヘビを閉じ込めたのはヘビ自身よ。理由は、コンクリートの道にある、氷の『象徴』を考えれば分かると思う。」
コンクリートの道にあった二番目の『象徴』だ。ちょっとくらい不便だったとしても、絶対的に守られた場所。ボクは、中にいたカニさんたちが苦しそうにしていたのを思い出した。
「なるほど、自分を閉ざした理由は分かったが、氷の中にいたカニたちとは決定的に違う点がある。彼らは、ただ不満を訴えるだけだったが、ヘビはクモや私たちをだましている。これは、どういうことだろうか。」
「ここに来る前にヘビと話してきたわ。これから話すことは、ヘビから聞いたことよ。」
ヒマワリはクモをちらりと見ると、耳を動かして言葉を続けた。
「あのヘビは、他の存在のエネルギーを主食にしているらしいの。誰かがヘビの舌の上に乗ると、エネルギーが少しずつヘビの舌に流れ出るようになっているそうよ。カラスさんは、飛んでいたり、お嬢さんの肩の上にいたりしたから大丈夫だと思うけど、人間のお嬢さん、あなたは顔色が悪いわ。だいぶ、吸われているわね。」
時間がないと言っていたのは、このことだったのか。
「ちょっと待ちな、ヒマワリ。それじゃあ、この道は、アタシの狩りの場所じゃないってことかい。」
「ええ、そうよ。あのヘビは、自分がご馳走にありつくために、あなたに自分の舌を運ばせて道を作ったのよ。道を歩いた人たちは、エネルギーを吸い尽くされて道の途中で崩れてしまうの。」
ボクとトキワは、ヒマワリの言葉ですべて理解した。あの影人間たちが崩れた理由も、ボクが倒れた理由も。
「でもね、ふたつの誤算があったのよ。」
ヒマワリは、ボクたちをチラッと見て小さく笑った。
「ひとつは、自分の舌の上に『象徴』ができてしまったこと。自分の舌を回収できなくなったのは、そのせいよ。もうひとつは、とても強い意志と勇気を持った、白いカラスさんと人間のお嬢さんの名コンビがクモまでたどりついてしまったこと。ヘビの言葉が嘘だと、みんなが知ってしまった。だから、もう、ここには誰も来ないわ。ヘビは、本当のひとりぼっちを、これから味わうことになるでしょう。」
ヒマワリは、クモに厳しいまなざしを向けた。
「それは、愛の『象徴』からしたたる水で咲いている特別な向日葵だから、枯れることはないわ。でもね、しっかりと自分を見つめ直せば、その力で向日葵は実を結び、枯れ落ちて解放されるの。自分を見つめ直すいい機会だと思って、反省するといいわ。」
ヒマワリは、呆然としているボクたちを交互に見ると、にっこりと微笑んだ。
「さあ、こんなところからは、さっさと脱出しましょう。長くいるだけ、わたしたちのエネルギーが吸われちゃう。」
ヒマワリは、こっちよ、とボクたちをうながして、クモがとらえられている巨大なヒマワリに飛び乗った。
「アタシが何をしたっていうのさ。あたしだって、生きるために食わなきゃならないんだよ。」
ヒマワリをよじ登っていると、ひとりごとのような、クモの言い訳が聞こえてきた。それを聞いたウサギのヒマワリは、小さくため息をついた。
「ヘビも同じようなことを言っていたけれど、それは理由にならないわ。この世界でわたしたちが動くのに必要なエネルギーは、心の強さと粘り強く考えることから生まれるのであって、食べもので得るものじゃないのよ。」
「そういえば、ボク、この道の階段で気絶したのに、影人間みたいにバラバラにならないで意識を取り戻したんだ。それって、ボクのエネルギーが無くならなかったからなのかな。」
「なるほど、私たちがこれまで思考をめぐらせてきたのは、自分たちのエネルギーを補うことでもあったというわけか。」
「ええ、そうよ。クモ、これで分かったでしょう。何かを食べても、この世界で生きるためのエネルギーを補給することにはならない。」
ヒマワリは、そっと目をつむった。
「私たちには、多かれ少なかれ『欲』がある。その欲という悪魔に魅了されてしまった者は、この道を発見し、ヘビと出会い、たくみに誘導され、この道を歩いてヘビに取り込まれてしまう。それはつまり、その人自身がヘビになるのと同じこと。」
ヒマワリの話を聞いたクモは、自分の運命を受け入れたのか、うなだれたまま、頭を上げることはなかった。出会ったときのような傲慢さのかけらもなくなってしまった姿は、あまりにあわれで、あまりに悲しい。
「死して、魂、蛇になる。これ即ち蛇道なり。」
ヒマワリは、大輪の花のてっぺんで、そう呟いた。でもボクは、そのあとにも言葉が続いていたのを聞き逃さなかった。
「こんなこと、本当はやりたくなかった。だって、クモとヘビは私の……。」
悲しげに響いた言葉の最後は、いつもの爽やかな風が、遠くへと運んでいってしまった。




