第二節 ◇ 時計
コンクリートの階段を上り始めてしばらくたったころ、この階段が姿を現したときと同じ、爽やかで不安を吹き飛ばす風がボクの背後からひゅうと吹いた。
ボクは乱れる髪を手で押さえて風が落ち着くのを待った。さっきこの階段が姿を現したように、この風の向こうには、きっと何かある。
《わぁ……、おっきい……。》
通り過ぎた風の向こうに姿を現したのは、巨大な時計だった。
上下左右すべてが逆さまで文字は鏡文字、そして、時を刻む時計の針は歪んでいる。ここから時計までまだ距離があるというのに、まるで目の前で見ているかのように鮮明だ。
あの時計を、もっと近くで見たい。
時計を調べることで、もしかしたらこの世界の何かを理解できるかもしれない。たとえほんのちょっとだとしても、何も分からないよりはずっといいはずだ。
時計を目指してコンクリートの階段を急いで上った。
《ちょっと待って。何か、おかしい。》
時計まであと二十段というところで足を止めた。
胸の奥でモヤモヤする。何かを見落としているのだろうか。
ボクはずっと、靄がたちこめていたから周りの景色が見えないんだと思っていた。
しかし、そもそも靄なのだろうか。
そういえば木の道も鉄錆の道も、遠くまでハッキリ見えていた。
この階段だって、風が通り過ぎたあとに目の前に現れたんだ。
靄があったとしても、目の前の階段にまったく気づかないのは考えにくい。あの瞬間まで階段など存在しなかったと考えるのが自然だ。
あの時計だってそうだ。風が吹く前、あの場所には何もなかった。風が、階段や時計を連れて来たんだ。
階段を上りながら考えていると、ボクの頭は整理されていき、ボクの心は自分の置かれている状況を受け入れていった。
もう孤独におびえたりしない。この世界を観察して考察して、出口を探すんだ。
自分の頬を両手で叩いて気合を入れた。そして、あの時計を見据えて一段一段踏みしめて上った。
時計は、階段の中央あたりにプカプカ浮いていた。
《……ずいぶん、ゆがんだ時計だなぁ。》
ボクは、時計に近づいてじっくり観察した。そら豆のような形をした巨大な時計のフレームは緑色で、文字盤はガラスでできている。実際に触れてみなければガラスだと分からないほど透明で、遠くから見ると針と文字が宙に浮いているように見える。文字盤に刻まれている数字は鏡文字で、数字の位置も上下左右全てが逆さま。十二のところに六の数字が書かれていて、三のところに九が書かれている。針も、右回りじゃなくて左回り。
《裏側なら、きっと鏡文字じゃないよね。》
この『おかしな時計』と『おかしな世界』に少しでも当たり前の部分を期待して時計の裏側に回ってみたけれど、裏側から文字盤を見ても鏡文字のままだった。理の通ったものは何一つない気が狂いそうな空間。分かってはいたけれど、淡い期待は、はじけて消えた。
すっかり力が抜け、へたり込むように階段に腰かけてぼんやりと時計を見た。上下左右裏表、針の回転は左回り。もちろん秒針も左回りだけど、それでもカチカチと規則正しく動いている。理の通ったものは何もないと思ったけれど、針の動きだけは例外らしい。時間もルールも存在しないような世界なのに、時を刻む時計の動きだけは正確だなんて、なんだか笑っちゃう。
ひゅう、と爽やかな風が吹き上げた。驚いて思わず立ち上がり、ぐちゃぐちゃになった髪の毛をさっと整えたとき、そら豆の形をした時計がきらりと光った。文字盤に目を向けると、ガラスに子どもの姿が映っていた。さっきは、透明すぎてガラスがあることに意識は向かなかった。針も文字も宙に浮いていると思っていたのに、今は、大きなTシャツをワンピースのように着ている五歳くらいの子どもの姿を映し出している。
ボクは、ガラスを見たまま髪の毛を整えた。
ガラスの中の子どもも、同じように動いた。
間違いない。ガラスに映し出されているのはボクだ。ボクは子どもだったんだ。自分が誰なのかいまだに分からないけれど、自分についてひとつ情報を得た。ただ、ボクが知っている子どもというものと比べると、なんだか子どもらしくない気がするけれど──。
再び、風が階段の下から吹き上げた。ボクは、風に導かれるように空を仰いだ。
《わぁ……、すごい。》
ボクの上を鉄錆の階段が通っていた。もしかしてと思い下を見てみると、思った通り、木の階段が通っている。そら豆の時計があるこの場所は、ボクが今まで歩いてきた三種類の階段が立体交差する場所だった。
幻想的で運命的な景色に、ボクはドキドキした。
しばらく眺めたあと、おもむろに時計を見た。この時計を見れば、この世界から脱出する方法について何か分かるかもしれないと思ったのに、分かったのは、ボクが子どもだってことだけだ。ちょっとやる気もなくなったけど、諦めたところで何かが変わることもない。短くため息をついて、また階段を上り始めた。