第五節 ◇ 泉
階段は、なんとかのぼった。
カラダが痛い。
腕も足も重くて歩けない。
ボクに何かがのしかかっているみたいだ。
今は目眩もないから、これはきっと心の重さだ。
目を閉じると、影人間たちがバラバラと崩れていく、あの光景がよみがえる。
手を伸ばしても、黒い砂をつかむことができなかった悲しみが、ボクの心に染を作った。そしてそれは、じわじわ広がり続けている。
「ねえ、トキワ。あの人たち、どうして崩れちゃったんだろう……。」
少し先を飛んでいたトキワが、ボクの肩に降りた。
「残念だが、それについては私にも分からない。ただ、さっきの手紙に書かれていた『破滅へのカウントダウン』という言葉が関係しているのではないかと、私は思っている。」
トキワは、声を低くして話している。ボクたちに手紙を運んだりしている、この世界の『誰か』に聞かれないようにしているのだろうか。それとも、トキワも心を痛めているのだろうか――。
「手紙、か……。」
ボクは、キュロットスカートのポケットに手を入れて、これまでの手紙をにぎりしめた。いったい何のために、この手紙はボクたちの前に姿を現すのだろう。
「君、次の手紙だ。」
トキワの声でハッと気がついたボクは、顔を上げて手紙を探した。きっと、空間をひらひら舞っているか、ちょっと先に落ちているはずだ。
「どこだろう。見つけられないんだけど……。」
「君の足だ。」
トキワがボクの足をじっと見ている。トキワの視線を追って足元を見ると、見慣れた白い封筒が、ボクの爪先の上にちょこんと乗っていた。
「いつの間に……。」
ボクは少しかがんで爪先から封筒を取ると、いつものように封を切った。
中には、いつも通りの白い紙が入っている。
もうあんな思いはしたくない。
そう思ったら、心のずっと奥からもれるように、ため息が出てきた。
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『溢れる水』
閉じ込めた心は、
いつか溢れだす。
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読み終わって、ボクは首をかしげた。
「いつものことだけど、意味がわからないね。」
トキワはフフッと笑って、ボクの肩から降りた。
「とりあえず、『象徴』を探そうか。」
「そうだね、トキワ。とりあえず、あとにしよう。いろいろ考えるのは……。」
この近くに手紙の表す『象徴』があるはずだから、まずは、探そう。その間は、影人間たちのことを考えずにすむもの。
「あくまでも、私が思っていることなのだが――、」
少し離れたところで『象徴』を探していたトキワが、探すのをいったんやめて話し始めた。
「この道にある『象徴』には、何かしらの共通点があるのではないだろうか。」
ボクは、ちょっと驚いた。
「トキワ、そんな大声で話して大丈夫なの?」
ボクの正面で立ち止まったトキワは、大丈夫だ、と答えた。
「さっきは、私の知識にないことが起こった。私たちに影人間が見えたのは『象徴』の力なのかもしれないが、あんな事件が起こるのは、この世界のルールに反している。しかし今は『象徴』の手紙に書かれていることについて話しているのだ。何の問題もない。」
なるほど、と、ボクは納得した。確かに、影人間はこの世界に存在する人たちであって『象徴』じゃない。
「この道で拾った、これまでの手紙を出してくれ。」
突然何を言い出すのかと思ったけれど、トキワのことだ、きっと何かに気付いたのだろうと思い直した。
ボクは、道の鉄錆をサッサッと払って座った。そして、ポケットから手紙を取り出すと、錆を払った道の上に広げた。
「うーんと、これが一枚目だね。」
一枚目の手紙の『象徴』は、ニュートンの揺籃だった。慣れっこになると興味を失ってしまうから、そうならないように工夫が大事だと教えてくれた。ボクは、ふたたび手紙を読んだ。
「『日常の揺りかご』一日を生きることと、一日を生かすこととは、似て非なる物である。」
ボクは、一枚目の手紙を置いて、二枚目の手紙を手に取った。
二枚目の手紙の『象徴』は、試験管だった。トキワは、試験管の水は欲求ではないかと言っていた。でも、よく分からないまま、先に進むことになった。
「『満たされぬ水』嘘を吐けば吐くほど、水は満たされない。」
「嘘はよくないと、君が言っていたね。」
そうだったねと笑って、三枚目の手紙を手に取った。
三枚目は、時計。そら豆の時計のはずなんだけど、ボクたちはちゃんと観察していない。それは、影人間たちと関わらないようにするためだった。そして、あの事件が起きた。ボクの心をあの光景が横切ったけれど、ボクはグッとこらえて手紙を読んだ。
「『悪魔の足音』時を刻む音は、破滅へのカウントダウン。」
トキワは、つらそうに下を向いた。トキワの姿が滲んで歪んで、ボクはひざを抱えて顔をうずめた。
こんなことをして、何になるんだろう。
そもそも、この三枚の手紙にどんな共通点があるんだろう。
ボクは顔をうずめたまま、影人間たちに考えをめぐらせた。どんな共通点があるのか分からないけれど、きっと、ここに何かある。
――あと十分だね。
彼らはそう言っていた。
本当にカウントダウンだったのかな。だけど、ずっと『あと十分』のままだった。
ボクはあのとき、時計が進んでいないんだと思ったんだ。でも、本当にそうだったのかな。
……いや、違うな。
秒針が動いているのは見えたから、時計が動いてないなんてありえない。
コンクリートの階段にあった時計は秒針以外も動いていたから、ここの時計だって動いていたはずなんだ。
トキワは、ルール通りに動くと言っていたもの。
この世界の時間については分からないけれど、あの影人間たちはそら豆の時計を見ながら話をしていたんだから、いつまでも『あと十分』だなんて、やっぱりおかしい。
じゃあ、どうして、あの人たちは……、
「……死にたくなかったのではないだろうか。」
ボクは、トキワの言葉に驚いて顔を上げた。トキワは、申し訳なさそうにボクを見ている。
「すまない。君のひとりごとを聞いていたんだ。声をかけようと思ったのだが、あまりにも真剣に考えているから、声をかけるのをためらってしまってね。」
考えたことを全部、トキワに聞かれていたなんて恥ずかしい。でもボクは、それよりもトキワの言葉が気になった。
「ねえ、トキワ。『あの人たちは死にたくなかったから、いつまでも《《あと十分のまま》》だった』って、どういうこと? だって、それって、つまり……、」
「彼らは、自分の運命を知っていたのではないか、と、私は思うのだ。」
トキワは、ゆっくりと回れ右をして、ボクに背を向けた。
「この道に現れる『象徴』の手紙の共通点だが、私は、『悪魔』なのではないかと考えている。」
「……悪魔?」
トキワは、今度はクルリと回れ右をして、ボクと向かい合った。そして、ボクの目をまっすぐ見た。
「そうだ。『欲』という名の『悪魔』だ。」
――欲?
そういえば、そんなことを表す『象徴』があったような……。
ボクは、二枚目と四枚目の手紙を手に取った。
「『満たされぬ水』嘘を吐けば吐くほど、水は満たされない。『溢れる水』閉じ込めた心は、いつか溢れ出す。」
ボクは、二枚の手紙を交互に読み比べた。
「四枚目の手紙の『象徴』って、あの試験管と関係があるんじゃないかな。」
――ゴボッ……。
ふと、液体が湧くような音がボクの耳をかすめた。どうやらトキワにも聞こえたようで、音のするほうへ向かって飛んで行った。
「トキワ、待って。ボクも行く。」
ボクは、手紙をつかんでポケットにしまうと、急いでトキワを追った。だって、この白い世界に、真っ白なトキワは、すぐに溶けこんでしまうから。
そんなに離れていないところで、トキワがボクを待っていた。トキワのそばにキラキラしたものがある。
「トキワ、それは、なに?」
「これは、泉だ。」
ボクはトキワの隣でしゃがんだ。そして、鉄錆の道の真ん中でぽかんと口を開けている小さな泉をのぞきこんだ。じっと見ていると、小さな小さな泡が水面にぷくっと顔を出す。どうやら水が湧いているようだ。
顔を上げると、この泉の向こうに、もう一つ泉があるのに気がついた。
「ねえ、トキワ。もう一つあるみたいだよ。」
「いや、もう二つだ。」
立ち上がると、二つ目の泉の向こうに、さらにもう一つの泉が見えた。泉は全部で三個ある。
「なるほど、そういうことか。ようやく、答えがわかった。まあ、どうやら君も気づいているようだが。」
ボクはトキワに微笑んだ。
「あの泉は、試験管から溢れた水じゃないかな。四本あった試験管のうち、一本は、反対側の試験管と同じ長さだった。その試験管の水はちゃんと満たされていたけど、他の三本の試験管は縮んでしまっていて、水が試験管から追い出されていたね。」
トキワは、にっこり笑ってうなずいた。
「行き場を失った水は必ずどこかに姿を現す。自分の心をごまかすことはできない、ということだ。」
「我慢ばかりじゃ、ダメなんだね。」
「その通りだ。」
トキワは、ボクの肩に乗って言葉を続けた。
「欲求を我慢ばかりしていると、思いもよらない場所に湧き出てしまい、その人の進むべき道をふさいでしまうことがある。それは、決していいことではない。だから欲求は、工夫をするなどして、適度に解消される必要があるのだ。」
ボクは、行き場を失った水が作り出した悲しい泉をぼんやり眺め、水のこれからを思った。
「さあ、行こうか。あと、もう少しだ。」
ボクはトキワを肩に乗せ、泉に落ちないように気をつけながら、先へと急いだ。




