第一節 ◇ 蛇 ①
『裏を歩く慾の道。』
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死して、魂、蛇になる。
是即ち蛇道なり。
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「さて、そろそろ先に進むとするか。」
「そうだね。」
のんびりと積み木のお城を眺めて気分転換したボクたちは、背伸びをしたりスニーカーの紐を結び直したりと、それぞれ出発の準備をした。そしてボクはトキワを肩に乗せ、コンクリートの道のずっと先をみすえた。
「トキワ、行こう。」
この旅のゴールがどこにあるのか見当もつかない。それでも、こんな世界から脱出できると信じている。
孤独で絶望しかなかったけれど、ボクを優しく見守ってくれるトキワがいつもここにいてくれるから、不安も絶望もすっかり消えた。肩のトキワを撫でて歩き始めた。
「何の音……?」
ちょうど積み木のお城の真上にさしかかった辺りで、不気味な音が耳をかすめた。
「君にも聞こえたのか。どうやら、気のせいではなかったようだな。」
音の発生源を探して辺りを見回したけれど、あの音を発生させるようなものは見当たらなかった。手紙も見つかっていないから『象徴』でもない。
でも、どうしても気のせいだと思えなかった。ボクたちの声、時計のカチコチ音、『象徴』が発する音と、この世界で聞こえる音は限られていて、いわゆる雑音はこの世界には存在しない。だからこそ、あれは気のせいではないと確信している。
――待って。
ボクはトキワと顔を見合わせた。やはり聞こえた。それは、ほんの少しの風で吹き飛ばされてしまいそうな『声』だった。
ボクたち以外にも誰かいる。
ボクは道の上を、トキワは空間を飛んで、声の主を探した。
「トキワ、そっちは?」
ひと回りして戻って来たトキワに声をかけると、トキワはため息をつきながら首を横に振った。
「どこにも、それらしいのは見当たらない。確かに消えてしまいそうな声ではあったが、声の主はこの近くにいるような気がするんだ。」
ボクもトキワと同じように考えていた。あれは遠くから届いた声じゃない。きっとボクたちの近くにいるはずだ。ボクは自分の考えをトキワに伝えると、今度は自分たちの近くを念入りに探すことにした。
探し始めて間もなく、ボクたちを包み込んで舞い上がる爽やかで強い風が吹いた。
あの風だ、とボクは息をのんだ。先に進めなくなったり行き詰まったりしたときに、どこからともなく吹いてくる爽やかな風は、必ず次の展開を連れてくる。
「『道』だ!」
風でぐちゃぐちゃになった髪を整えながら、ボクはトキワのそばに駆け寄った。
「鉄錆の道だ!」
見覚えのある血のように赤黒い道は『逆さま積み木のお城』のレッドカーペットのように、コンクリートの道の下から伸びていた。
あの風がこの道を運んできたということは、ボクたちが探している声の主も、この道のどこかにいるはずだ。
「あの……、そこに誰かいるんですか。」
ボクはトキワの顔を見た。はっきり聴こえた。
「道の裏側に誰かいるようだ。」
コンクリートの道と鉄錆の道とが交わったあたりに何かの気配を感じる。
ボクとトキワは無言で頷き合った。
「そこにいるのは誰だ。」
トキワの声は、低く鋭かった。
「よかった! やっぱり誰かいたんですね!」
道の裏側から声が返ってきた。死者のような声ではなく、希望の光がともったような声だった。
「僕はヘビです。どなたか存じませんが、どうか僕を助けてください。」
「何があった。こちらに来て話してくれないか。」
「ごめんなさい。そちらには行けないのです。」
道の裏側からヘビのすすり泣く声が聞こえた。トキワは、姿の見えないヘビを警戒し、身を固くしている。
「……声を出すな。」
ヘビに聞こえないように、トキワがボクに囁いた。この世界は、どこにどんな罠があるか分からない。ボクはトキワに従った。
「ここからでよければ、話を聞こう。あなたを助けるかどうかは、その後で判断させてもらう。」
ヘビは、ありがとうございます、とお礼を言って話し始めた。
「気がついたら、真っ暗で誰もいない城の中にいました。どういうわけか、この城に閉じ込められているようでした。いつからここにいるのか、なぜここに閉じ込められているのか、何もわからず混乱していました。でも、まずはここから出たいと思って、誰かいないかと声が枯れるほど叫んでみましたが、誰も来てくれませんでした。」
ボクもトキワも、気がついたら独りぼっちだった寂しさを味わっている。ボクは胸が痛くなった。トキワもあの孤独感を思い出したのか、つらそうにしている。
ヘビはボクたちを騙しているのかもしれない。
ぼんやりとした不安がボクの心をよぎったけれど、そんなものはあっという間に吹き飛んでしまった。こんなにかわいそうなヘビがボクたちを騙すはずがない。ボクたちでなんとか助けてあげたい。そんな思いが胸の中を占めてしまっていた。
「ずっとこのままなのかと絶望の淵にいたときでした。僕の声を聞き付けて来てくれたかたがいたんです!」
「それは?」
「クモです。クモは、僕を引っ張ってここから出してくれると言いました。さっそく僕の体を引っ張ってもらったのですが、残念ながら鉄格子を抜けることはできませんでした。そこで、紐か何かで僕の体を縛って引っ張るのはどうだろうかということになり辺りを探したのですが、紐なんてどこにもありませんでした。だから僕は、クモに僕の舌を引っ張ってもらうことにしたんです。」
ここまで話すとヘビは言葉を止めた。何だか困っているようだった。
「えーっと……、上手く言えないのですが、クモは……、その……、僕の舌を持って《《歩いていった》》んです。」
「歩いていった? それならば、どうして君は城の中にいるのだろうか。それに、引っ張った、ではなく、歩いていったというのはどういうことだろうか。」
ボクも、トキワと同じ疑問を持った。歩いて行った、というのは、なんだか変だ。
「それが……、舌だけが、伸びてしまったんです。」
ヘビは困ったようにため息をついた。
舌だけが伸びた?
このヘビは何を言っているのだろう。クモは、ヘビを助けたのではなく、ヘビの舌を持ってどこかに行ったまま戻ってこないということなのか。そんなことって、あるのだろうか。
「せっかく説明してくれたのに申し訳ないのだが、どうも理解できない。クモは戻ってこないのだね?」
「いいんですよ。僕自身、自分の置かれている状況が、よく分っていないんですから。」
ヘビは、クスッと力なく笑った。
「その通りです。どうしてなのか理由は分からないのですが、クモは僕の舌を持って歩いていってしまい戻ってこないのです。檻からの脱出は失敗だったので戻ってきてほしいのですが、伝えたくても呼び戻すこともできないし、僕には手がありませんから、舌をたぐりよせることもできません。檻から出られないことにも困っていますが、クモが戻ってこないことにも困っているのです。」
話し方が少し変だなとは思っていたけれど、なるほど、そういうことなら納得できる。
それはそうと、城の檻から出るのはもちろんだけれど、まずはクモに戻ってきてもらうのが先だろう。ボクはトキワに耳打ちした。
「ねぇ、トキワ、ボクたちで舌を取り戻せないかな? ヘビさん、このままだとかわいそうだよ。」
トキワは、難しい顔をして下を向いている。
「クモは、この朱い色の道の先にいるのか。」
「そうだと思いますが、その前に、これは道ではありません。」
「道じゃないって? ボク、この上を歩いたのに!」
――しまった!
そう思ったときには遅かった。申し訳ない思いでトキワを見ると、ボクを見て苦笑いしている。
「やはり、おひとりではなかったのですね。なんとなくそうではないかと思っていました。ああ、でも、気にしないでください。こんな世界で、こんな変な話を聞かされたら警戒して当然です。ところで、この上を歩かれたのですね。なるほど、そうですか。」
不思議なことに、ヘビはボクの言葉に興味を持ったようだった。誰かが自分の舌の上を歩くのだからイヤな気分になってもおかしくないのに……。
もちろん、感じることはそれぞれだから、ヘビが興味を持つことが悪いことだとは思わないのだけど、ボクはヘビの反応に違和感、というよりも不安を覚えた。だからボクは、あえて道を歩いたときの感想をヘビに伝えてみた。興味があるなら、ボクの感想にも興味を示すのではと思ったからだ。
「鉄でできた道だと思ったよ。サビに覆われて、歩くとザリザリと音がしたんだ。」
しかしヘビは、そうなんですか、と気のない返事をしただけだった。ヘビの反応に、ボクの不安は少しだけ大きくなった。
「話を戻しますが、本当に、これは道ではなくて僕の舌なんです。僕の舌を持って歩いていきましたから、クモはこの先にいるはずです。どうか、僕の舌を取り戻してくれませんか。」
この世界に来て間もなく、ボクは鉄錆だらけの道を歩いた。まさかそれがヘビの舌だったとは思いもしなかった。ヘビに対する不安はまだ残っているけれど、気がついたらひとりぼっちだった寂しさは本物ではないかとも思った。
「トキワ、ボクたちで舌を取り戻そう。」
「君……。」
トキワは目を大きく見開いてボクを見ている。動揺しているのかエメラルドグリーンの瞳が小刻みに震えた。
おそらくトキワはボクの不安を感じ取っている。旅を始めたころだったら、きっと、ボクがヘビに関わるのを止めたと思う。でもボクらは、あの頃とは違う。
ボクは、トキワの瞳をまっすぐ見て小さく頷いた。
「そうだな。進まなければ何も始まらない。それが、この世界のルールだ。」
たとえ不安があったとしても、それに向かって踏み出さなければ次の展開はやってこないのだ。『象徴』がやってくるのを待つだけじゃダメだ。こちらから、この世界に積極的に関わってやろうじゃないか。
「行こう!」
トキワを抱きしめ、鉄錆の道に足を踏み入れた。




