008話 日常と書いて、もう『ふつう』とは呼べない
『幸福都市リフリア』
幸樹と称される世界で唯一の天高く聳え立つ巨大樹が、都市中央に巍然として屹立している下界の発展都市。幸樹は数多の色を幻想的に灯し、まるで夢の世界――いや、神の楽園に生息する樹木が現実に顕現したかのような神々しさを呈している。
身も心も洗われるほどに美景な世界樹を毎日拝観したいという念望然り、幸樹の真髄に人々は希望を抱き、毎日数多くの人が多種多様な目的を持ちリフリアに流れてくるのだ。
幸樹は普段より極彩色を纏い周囲に光の粒子がふわふわと揺蕩っているが、極稀に『沫雪』と呼ばれる宝玉の白光粒子を大量に降らせることがある。沫雪を目にした者は願望が叶うと古来より伝承されおり、冷笑ものの伝承に思えるが中々どうして事実に差異がない。
有名になりたい、大富豪になりたい、理想にそぐう生涯のパートナーが欲しい、夢中になれるものが欲しい、功績や偉業を成し遂げたい、生まれてきた理由が知りたい……。
そういった人間ならば誰しもが持つ欲望を、この幸樹は実現させる秘力を持っているのだ。実際に体験記述や文献が残っているというのも、期待に拍車をかける遠因となっているのだろう。
とはいえ現実問題、沫雪はそう起こりうるものではない。
幸樹は元から現世にあったわけではなく、五百年前突如として現れたのだという。現在までのその期間、沫雪が確認されたのはたった一度。それでも人々が幸福都市に会するのは、己の切望の大成という短小な釣り針が確かに垂らされているからだ。
先進都市の特性上、人が人を呼び、類は類を呼ぶ。リフリアに籍を置く者が偉業を成し遂げたことから連鎖し、職人が燃え滾る追求心や向上心を秘め、鎬を削り合う。帰結として都市自体の繁栄に繋がり、快適な生活を営むために目的のない世人も次々と移住するといった循環が出来上がった。
こうして幸福都市リフリアは幸樹を起点に、世界の中枢と流布されるほどに発展を遂げたのだ。
下界では。
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晴れ渡る空からは前日に引き続き、照り付ける太陽が降り注いでいた。朝の日差しは眠った脳を起こし、一日の始まりを告げる。
日常の中に潜む非日常を経験したルカは、ぽつぽつと登校する生徒に紛れて街路地を進んでいた。雑談しながら笑顔を見せる男子生徒達、眠たそうな眼をこすりながら欠伸をする獣人の女の子、正装に身を包み出社する学園教師。一風変わった魔界とは似て非なる下界の人々の様子に、ここが隔絶した世界の一つなのだと認識させられる。
ここにいる誰もが秘境や魔界の出来事を知らない。平和に慣れた人々の何て事のない朝だった。
「おはようルカっ」
タッタッタッ、と軽快な足音を奏で、背後からルカの隣に並んだのは白髪の少女サキノ。
「サキノ、おはよう。相変わらず朝早いな」
「それはお互い様でしょう? それにしても、ルカいつもはこんなに早くなかったよね?」
艶然と微笑み、普段と差分なく接するサキノに、魔界の幸樹のもとで見えていた迷いは霧散していた。
まるで昨日の出来事自体が本当に夢だったかのように。
「朝ってやることなくて暇だからな。たまには早く学園に向かうのも悪くないかなって」
「それ、世の中の大多数の人が聞いたら唖然としちゃうよ?」
「朝には時間の進みを遅らせる魔物がいる、絶対」
「仮にいたとして魔物すら寝坊してるよ!? 魔物の寝坊のせいで皆時間に追われてるよ!?」
早朝に滅法強い健康優良人ならまだしも、極限まで睡眠に充てたい等で時間が足りないと泣き面の者は大勢いるだろう。前者であるルカは時間を持て余し、早々に家を出たという訳だ。
ルカの言う魔物が本当に存在するのならば、世の時間難民達は声を揃えて「仕事しろ」と魔物に猛抗議すること間違いない。
一驚を見せつつも、ふふっと上品に笑うサキノと歩幅を合わせる。魔物、という単語が出たのも、昨日の出来事がどうにも頭から離れていなかったせいでもある。
「なあサキノ、昨日の――」
「私、朝から依頼受けてて急いでいるから先に行くね。また学園で」
言外に昨日の出来事に関して何も話すことはないと、学園へ向け駆け出す少女。そんな少女にやはり違和感が否めないルカは足を止め、僅かに眼を眇めた。
魔界の幸樹下で意図せぬ対立を果たした後、付近に構えられていた妖精門を潜ると、下界に難なく帰還出来た。下界に戻っても何も話そうとしないサキノが何を思っているのか、今の言動も考慮してわからないルカではなかった。
「関わらないで、か」
サキノに面と向かって言われた言葉。
突き放すような儼たる言葉にルカの胸がざわつく。
サキノは一人で背負おうとしている。それはサキノの性格やこれまでの立ち振る舞いから容易に判断出来てしまう。
されど幻獣の討伐は、依頼や瑣末な頼み事とは性質が違うこともサキノはわかっている筈だ。命の危険が、寿命の縮減が伴う行為までをも一人で背負う理由がルカにはわからなかった。
昨日のサキノの告白。ルカは、サキノが共に戦って欲しいと発するものとばかり思っていた。想像の次元を超えた世界の分断、併合する未来。原因となるであろう秘境でたった一人、世界のために身を粉にする、誰が納得出来ようか。
偏見かもしれないが、共闘できる人間が一人増えることで危険は分散できる。足手纏いが増えることで逆もまた然りの場合もあるが……。
サキノがルカの身を案じ、危険を回避するために遠ざけたとあればまだ納得はできる。友に危険な目は合わせられないと、創作物であるような「貴方が命を賭ける必要なんてない」なんて、自己犠牲が先立つのも理解出来なくはない。
出来なくはない、が。サキノの場合はもっと別の要因があるようにルカには映っていた。
サキノの表情から読み取れる迷い。前述の理由はこじつけのようにサキノの中に一部、含まれているのかもしれない。けれど、知己の姿にどこかホッとしたような表情、不変の決意の葛藤。内心の矛盾がルカには確かに読み取れていたのだ。
頼りたいのに、決意がそれを邪魔する。
「全て一人で成すことに拘る理由は……?」
依頼もそうだ。一人で全てを完璧にこなさないといけない理由をこれまで一度も聞いたことがない。サキノの言動は一手に担うという『結論』であって『理由』ではないのだ。
腕組みをしながらルカは思考に耽る。そんな思考を遮るかのように背後からルカの名を呼ぶ声が上がった。
「ルカぁ、おはよぉ……ぅゆ……」
「おはよう、ラヴィ……っておいおい。何て格好で出てきてるんだよ」
振り向いた先、かくんかくんと首をかくつかせながら現れたのはラヴィリア・ミィル。しかしその姿は見るも無様に、元気なツインテールも未完成、服も所々が乱れ、下着や白皙の素肌が周囲の眼を引き連れながらやってきた。整った鼻からは鼻提灯が幻視できるほどの半睡眠状態のラヴィが、ルカに抱き着くようにもたれかかる。
「いつもはぎりぎりまで寝てるのにどうした?」
早朝反発軍のラヴィが常より一刻半も早い時間に登校する姿にルカが質疑する。
「ルカのぉ、気配がぁ、した……」
「……気配って、犬かよ」
「愛犬ん……ぅへ」
「ラヴィ、起きろー。ラヴィ?」
気配を察知してきたと妄言を吐くラヴィは、ルカの懐ですぴー、と眠り始めた。
名を呼び体を揺さ振るが、一切の警戒心を持たないラヴィが目覚める気配はない。打つ手立てがないルカは、辟易した様子でラヴィを背負い、その場を発った。
『ローハート遂にやっちまったかぁー! くぅ~! 羨ましくなんて、ゴフ……っ!』
『吐血!? だ、誰かお医者様を~!?』
『だ、大丈夫だ、これはローハートの幸せのお裾分けだと思えば……ブハッ!』
『眼と鼻からも!? お裾分けなんてポジティブ過ぎる! あんたいい男だよっ!』
辺りの一組の男女が爽快な朝を生々しい血色で彩っていく。
朝から雑な着衣姿、捉える角度を変えれば着衣を乱れさせた美少女を背負った男子生徒が学園へ向かったという事実は、道行く人にあらぬ誤解を招いていった。
そんな人目も密談も気に留めず、ルカは学園への往路を辿る。
背中で憎たらしいほどに幸福感に包まれた顔で眠るラヴィを一瞥し、ルカはこの状況をどうするか選択に悩んだ。
「教室に放置ってわけにもいかないし、ラヴィは嫌がるかもしれないけど……あそこしかないか」
ルカの脳裏に一つの選択肢が浮かび、目の前に広がるミラ・アカデメイアの最上部を見上げる。
ガラス張りの最上階『天空図書館』へと、少女を背負った一人の少年は向かう決心をつけたのだった。