007話 一緒に戦って?
レラが去った後、都市にはぽつぽつと電灯が点り始める。闇の緞帳が徐々に夕焼けを蝕み夜の訪れを知らせていた。
二人はふと漂う異様な空気感を肌に感じて周囲を見回す。レラとの身体接触時はいざ知らず、サービスタイムは終わったとばかりに亜人族達の二人を見る目が冷然としていた。
「……やっぱり魔界では人族が疎まれてるのか」
「あんまり歓迎はされないね……恐らく、下界で人族が亜人族に罪を被せたように、亜人族も魔界で人族に罪を被せたんだと思う」
『異世界共生譚』による世界分断後、下界では亜人族達が忽然と姿を消し、経済は狂い、商業、工業が乱れに乱れ、怒りの矛先を人族は亜人族に向けたのだという。しかし、亜人族は当時別世界に分断されたものだとされていたので、向ける矛先がない人族の怒りは自然消滅するかのように思えた。
だが、問題は時を置いて再燃してしまった。
その問題とは、神が分断時に、人族の母親が身籠っていた亜人族の子までをも識別することが出来なかった事にある。時が刻まれ、生誕した亜人族は人族の怒りを集中的に被り、迫害され、嫌厭対象となってしまったのだ。
極少数だった亜人族は同族同士での繁殖によって生体数を徐々に増やしていったが、数百年に及ぶ人族と亜人族の軋轢はそう簡単には埋まらない。総数一割ほどの亜人族達が下界で肩身狭く生活を営んでいるのも、そういった経緯がある。
それが魔界ではまるで合わせ鏡のように、人族が嫌厭され、亜人族優位の世界だということだ。
「至極当然、か……」
死人に口なし、亡命者に口なし、といったところなのだろう。これまで友好な関係を築きながら共存していたにも関わらず、世界の分裂に直面した先人達は他種族がいないことをいい事に、罪を互いになすり付け合うしかなかった。
下界にとっての亜人族、魔界にとっての人族は同様な暮らしを強要されているのだ。
尖鋭な視線にサキノはいたたまれず、独白を漏らしたルカを引き連れて歩み始めた。
下界とは勝手の違う異世界の路端を行くサキノの足取りは重い。まるで人目を忍ぶように、罪人が疎外されるように。
そんなサキノへ、ルカは歩きながらレラが言い放った言葉の照合をしようと問いかける。
「魔界の住民に戦う力があっても、秘境には介入できないのか?」
「うん、他の誰にも秘境に出入りは出来ないみたい。何より誰も存在すら知らないからね。ルカもそうだったでしょう?」
「あぁ……世界の分断は知識にあっても、秘境に関してはな……ずっと、独りで抱えてきたのか?」
相談でもしてくれれば、という言葉をルカは嚥下した。きっとそれは何の励ましにも気休めにもならないのだから。
「わざわざ自分から口外することでもないからね。信じてももらえないと思うし」
「幻獣と戦うにしても危険は伴う訳だろ? 仮に秘境で命を落としたらどうなるんだ?」
「下界から秘境に転移する時は、世界の人の意識下から私という存在は完全に消えているの。例えばルカが勉強をしている時、私のことをずっと考えていられる? 別に意識が行っている時は私の存在を『認識』しないでしょう?」
「確かに。余程意識してなきゃずっと考えてる事は難しいな」
つまりは四六時中特定の人間のことを考えている人はいないというわけだ。食事している時、勉強している時、睡眠をとっている時。個人の事を考え続ける事は出来ず、『認識の空白』は必ず存在する。秘境に転移した時には誰しもがサキノのことを認識しない状態になっているということだ。
日没の薄ら寒く感じる風が歩む二人に吹き抜け、サキノは長髪を風に躍らせながら続ける。
「つまり秘境で命を落としてしまった場合、その認識の空白が永続する。最終的には誰からも認知されず、元から存在自体がなかったことになるの」
命を落とすだけではとどまらず、存在自体の消滅。
今まで生きてきた証も、友人達の記憶からも全てが消える。
誰にも看取られることなく、誰にも思い出される事無く。
一人でひっそりと命の終焉を怪物と共に過ごす事になる。
そんな無慈悲な結末が秘境に眠っているとサキノは語る。
「それと、秘境で被った怪我は下界や魔界には持ち越さないけれど、寿命に換算されて、命を縮めることになるんだよ」
ルカは幻獣に攻撃をもらった腹部へ意識を集中させる。魔界に転移し、被撃したことを忘れていたかのように痛みは和らいでいた。体の倦怠感、ほんの僅かな違和感は残っているものの、回復の代価が寿命だと知ればいい気はしない。
何より損害を被るだけで寿命に影響が出るという発言はルカに衝撃を与えた。その事実にではなく、サキノが誰にも悟られずに寿命を削っていたことに対してである。
あまりにもサキノが背負っているものが大きすぎる。
ありふれた日常で共に生活しているのが当たり前だと思っていたサキノが、下界の平穏のために命を、寿命を犠牲にして一人で日々戦っていたことを知って、しかしルカは胸の中で生まれた火種の正体を言葉にする事が出来なかった。
「サキノは普通の女の子の筈だ。下界でラヴィ達と笑って、話して――」
「違うよ」
ルカの幻想を撃ち砕くかのように言葉を被せ、サキノは足を止めた。
目抜き通りの最終地点。都市の中心地。幸樹の眼前。
唯一下界の姿と完全同一な都市の象徴。
サキノは極彩色の至大な幸樹を背に、同じく足を止めたルカに向き直る。
「本来私が軸足を置くべきなのは魔界なのよ」
軸足を置くべき。
それは平和に塗り固められた下界での生活ではなく、魔界を重視しているという事。
そんなサキノの発言も、重責を負うサキノの人となりを考慮すれば、反論など出来ようもない。
「下界で生を受けたからには、余程のことがない限り魔界に移住って選択肢はないのだけれどね。何より――いえ……」
サキノは何かを言いかけようとしたが、ぐっと胸の前で拳を作り言葉を握り潰した。
「だから私に出来る事……そう、幻獣の討伐は天命なの」
サキノは拳を下ろし後退する。
一歩、また一歩と。
突風が、二人の間を駆け抜けた。
それは、二人の生きるべき道を分断するように。
「だから、ルカ。お願い――」
サキノの周囲を精霊の如く淡い光が無数に浮遊している。
それは、少女を死の深淵へと誘うように。
葛藤に塗れる紫紺の瞳を見て、ルカは察した。
サキノの想いを。願いを。救いを。
無情な現実に立ち向かうために、サキノの手を取ろうと。
「――これ以上関わらないで」
しかし、現実は無情に。
「え?」
ルカの想像とはかけ離れた言葉が、決然たる覚悟を以て告げられた。
「私はこれからも一人で戦う。私が一人でやらなきゃいけない」
「……?」
だが、サキノの決然たる覚悟は、ルカの眼には迷いを押し殺しているように映っていた。
違和感を抱くルカの様子には意もくれず、これ以上の無用な会話を嫌うようにサキノは笑顔を作る。
「帰ろっか」
陽は完全に姿を消し、薄明が訪れる。
陽の射さないその笑顔もどこか纏っているかのような、悄然としたものだった。
± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ±
(これで……いいの)
私はこの葛藤を隠すために笑顔を繕うことしか出来なかった。
こんな危険な仕事をルカに手伝ってもらうわけにはいかない。ルカは普通の暮らしに戻るべきなのよ。ラヴィのいる、クラスメイト達のいる、そんな平穏の日常に。
きっと、ルカは拒否しない。
これまで通り、全てを受け入れてくれて、何事も無かったかのように普通の日々に戻ってくれる。
これで、いいの。
なんで魔界を案内して、世界の情勢を全て説明したのかは自分でもよくわからない。
下界に戻って説明もせず、これは悪い夢だったんだと、そう伝えても良かった。
これまで通り一人で全てをこなしても良かった。そうするべきだったのかもしれない。
でも、それをしなかったのは。
(心が仲間を……望んでいた?)
一緒に戦ってくれると、そう期待してしまったから?
ルカが後ろにいてくれるだけでどれだけこれまでの孤独感から救われたことか。
これから隣で戦ってくれると想像しただけでどれほどの恐怖が和らいだことか。
孤独感が、恐怖が無いわけじゃない。初めて秘境で幻獣と対峙した時は泣きそうになった。
それでも私が戦い続けてきた理由は、私に課せられた天命だと、気付いてしまったから。
世界のために。……いや、そんな大層なものではない。
ただただ私的な目的のために。
(一人で、やらなきゃいけない)
これはきっと、意地悪な神様が私に与えた試練。
私は、一人で何でも出来なきゃいけない。
(そうだよね? お母さん……?)
大切な人が正しかった事を、証明するために。